第53話 決闘、奉納、闇の底 その4

 それは、孫七郎の上半身だった。


「……負け、た」


 彼は上半身だけの変わり果てた姿で僕を見上げ、口の端を歪めた。褐色だった肌は死色の濃い黒灰色に爛れている。喀血。手で口を押さえる。激しくむせて荒い息を吐く。ぜーはーと。この状態でまだ生きている自体が驚異だが。


「愚かなり、孫七郎」


 ナイア氏が空からすうっと降りてきた。一瞬、炎に燃える三つ目の道化顔が氏の表情に浮かんで消えるのが見えた。


 切断された孫七郎の上半身の切り口は鋭く、しかし人間のように内蔵が漏れ出てはいなかった。墨を落としたように、真っ黒な何かが蠢いているのが見える。


 ああ、これが。僕は納得した。


 ひと言でいうなら凝縮された混沌とでも表現すべき何か。ナイアルラトホテップの別称が脳裏に浮かぶ。漆黒の太陽。その内側をつぶさに覗き込んだような。


「お莫迦さん。力は拮抗していたというのに。あなたは自らの願いを叶えるため、太母シュブ=ニグラスとどんな契約を交わしたのかしらね? いいえ、ぼくは覚えているわ。『そこにいるナーセル・トート・ナイアと戦いなさい』つまり、何があっても、ぼくと戦わなくてはならなかった。何があっても、とは『絶対に』という意味よ。でも、あなたはそれを放棄してしまったの」


「お前が駆除したはずの下郎が……まさか一体だけ残っているとは……」


「それは、ぼくがわざと残していたからね」


「貴様……っ」


「どうして怒るの。わからないわ。。われらが偉大なる主人、盲目白痴のアザトースにすら、冷笑を浮かべる者」


 今しがた自供したようにナイア氏は、わざとシュゴランを一体、『消毒』の際に無傷で放置していた。そうしてかの神話生物の憎悪を煽るように派手に戦闘を展開、巨大な黒山羊に気づかせてその背に乗る人物に注目させる。生き残りのシュゴランは混沌邪神の顕現体に大規模戦闘をさせるだけの権力を持った存在に気づくだろう。同時に、自分達がその存在の供物になり果てたことも。


 ならばどうするか。ただ贄として喰われるのを待つか。それとも?


「身の程知らずにも……復讐者となった下郎を止めんとした瞬間に……そこの半陰陽に下半身を抉られた。命令は戦えとあったが、その通り、自分は優先順位を違えた……しかし……しかし、だな……」


「ぼくは、お前に打ち勝てと命令された。だから、そうしただけ」


 この二つの顕現体の微妙な思惑の差が勝敗を分けた。


 僕は、孫七郎に顔を向けた。


「ではシュゴランが現れる直前の、はるか頭上で起きた一度目の大爆発は」


「それは……わたくしめの下半身が……こやつの策謀に絡められて吹き飛んだ瞬間ときのものでしょうなぁ……」


「孫七郎さん」


「……はい」


「あなたは本当に余計なことしかしてこなかったけれど、しかしそれは同時に必要悪でもあったとも認めます。あなたの行ないがなければ、僕はこの世界へ来ることもなく、犬先輩に僕ら兄妹の事情を伝えることもできなかった。なるほど事象の変遷とは複雑です。ゆえに恋を覚えたナイアルラトホテップの顕現体よ。化身のあなたには二つの選択肢を差し上げましょう」


「と、申されますと……?」


「一つは、そのまま本体の姿へ戻り、天に還る。もう勝敗は決しましたからね」


「も、もう一つは……?」


「もう一つは、僕があなたを取り込む選択です。この戦いはシュブ=ニグラスに捧げられた供物。拡大解釈すれば、あなたが献饌されたとも取れる。ゆえに孫七郎、あなたは僕の胸の中で絶命する権利を有します。他の供物とは違うより深き闇の底で、永遠にの抱擁を受けつつ微睡むことができるでしょう」


「選ぶまでもありません。なんという僥倖……」


「では?」


「わたくしめは……あなた様の腕の中で……息絶えることを望みましょう……」


「……わかりました」


 僕は孫七郎の前に出て背後に回り、その場に座って上半身だけになった彼を背中から抱き留めた。と、同時に。ずるり、ずるりと自らの身体の内側よりシュブ=ニグラスの本体がはみ出てくる。僕と、僕に混ざる恵にしか見えない、覆い隠された無数の泡立つ触手。それらは孫七郎を包み込み、侵食を始める。僕は母が幼い子どもをあやすように、孫七郎の頭を柔らかく撫でてやる。


「なんと、これは。想像以上に……」


ののゆりかごは、とっても安心できて、気持ちいいでしょう?」


「至福……ッ」


 ナイアルラトホテップの化身、千ある貌の一顕現体の鈴谷孫七郎は、の腕の中にて安らかな顔で絶命した。彼がの胸のゆりかごへ埋没する一歩手前、囁くように、現在の巡回宇宙座標と元世界への座標を正確に教えてくれた。


「……間際に座標を教えてもらいました」


「なんとも変なところで阿保みたいに律儀な男やったな……」


「実は僕、ごく簡単な理屈から楽に検索する方法に気づいていたんです」


「ああ。俺も後になってからやが、気づいていた」


 それは、自分達がいる世界は正道の、アザトースによって観測されるいわゆる選択された世界であり、ならば選ばれなかった可能性世界を除外していけば簡単に自らの世界を割り出すことができるというものだった。


 アザトースに選択された観測世界は、ただ一つだけなのだから。


「孫七郎の言いくるめに呑まれて、あのときはちっとも気づかへんかったけどな」


「それだけ熱意が籠っていたのでしょうね。一生懸命は、嫌いではありません」


 僕は立ち上がった。響がばっと駆け出して、僕に飛びついてきた。ぐりぐりと胸元に顔を押し付けてくる。ちっちゃい子みたいに甘えているのだった。


「さて、勝者ナーセル・トート・ナイア。あなたにも報奨を差し上げましょう」


「はい」


「あなたは僕からの命令を遂行し、達成できました。正当な報奨です。なので、あなたの希望に沿う死を賜わせることができます」


 次はナイアの処断である。生殺与奪権とはかくあるべきに。


「待ってください!」


 十三氏が飛び出てきた。そして、ナイア氏を庇うように前に立った。


「初めにナイア自身が言ったようにこの子はこういう性格なんです。むしろ『混沌の邪神』に良く則った、正当なナイアルラトホテップ。どうか、女神の慈悲を」


「しかし、間接的であれ弓を引きましたね、に」


「率直に申し上げます。わたしにはこの子が必要なのです。わたしはこの子と一緒にいたい。ただそれだけです。なので、平に、ご容赦を……ッ」


「この半陰陽の顕現体を?」


十三ヒトミちゃん……」


「ナイア、わたしに黙ってなんでこんなことをするのよ!」


 十三氏の喋りは、声自体は男性であれど、喋りは女性そのものに変化していた。


 しかしナイア氏は、気鬱そうに横を向いてしまった。


「シュブ=ニグラスたる『彼と彼女』に頼れば、それはぼくにも思いつかない画期的な解決法で、きっとキミは助かるだろう。そうすれば、もう、ぼくは不要だ」


「だからって」


「キミがぼくから離れてしまえば、もうぼくはぼくでいる必要はない。百を超える生の繰り返し。強くてニューゲーム。初めて出会った、キミがかつて病弱な女の子だったときからのつき合いだけれど、最初は楽しい玩具みたいなもので――ごめん、今も正直似たような感覚だけれど、それでもぼくはキミがとても気に入っていた。いや、そんなキミを心から愛していた。唯一無二の宝物だった」


「うん……」


「何度死のうとやり直そうとするその不屈の精神は無様ではあれど、ひときわ輝きを放ち、美しかった。どうやって屈服させてやろうかと手ぐすねを引きたくなるような……。一度もそんな妨害はしたことないけれどね。目覚めし新しきアザトースが、ヨグ=ソトースに祝福されただけの何者でもない状態から、すでに強力過ぎたってのもあるけどさ。あの幼女、生まれ出る前から世界の王者だから」


「……」


「今回の決戦は、ぼくは別に負けてもよかった。だけど二重に仕掛けた策のほうが強かったみたい。勝とうが負けようがここで死ぬのは確定しているんだけど」


 つまりこれは。


 僕が十三氏の願いを解決してしまえば自分は不要になると思い込み、やけっぱちになっていたと? それで簡単に死を選ぶと?


 いや、この顕現体としての肉体が死んでも、本体が正体を現して天に還るだけでまったく影響はない。だが数奇な運命と言うべきか、僕は幾人ものナイアルラトホテップの別な貌と出会い、会話をし、交流を深めた。


 例えば人間でもそうだ。人間はTPOに沿って仮面を取り換えるが如く、態度を変えたり、口調や表情を変えたりする。


 勤め人ならば同僚には同僚への顔。

 上司には上司向けの顔。

 家に帰っては家族に向ける顔。

 ペットがいればペットへ向ける顔。

 鏡の前で、一人、自らを見つめる醒めた顔。


 どれも一つでありながらも別個のものだった。


 これはかの邪神の千の貌と、ある意味で酷似しているとは思わないだろうか。違うのは、かの外なる神の貌の一つ一つは、個体として活動できること。長々と書き連ねて何を言いたいかというと、僕がナイア氏を処するのは本体にまったく影響を及ぼさないが、ナイア氏の貌は、これっきり失なわれるという事実だった。


 それでも僕は宇宙第三位のシュブ=ニグラスとしての立場上、ナイア氏を裁かねばならない。支配者とは、思いのほか厄介だった。


「なるほど、ではこうしましょう。もっときつい罰を与えます」


「そんな、恵一くん! いや、太母シュブ=ニグラス!」


 十三氏の悲鳴に近い言葉が跳ねた。だが僕はあえてそれを無視をする。


「ナーセル・トート・ナイア。あなたはわが命に従い鈴谷孫七郎を打ち倒しました。しかし同時に『僕達』に弓を引きました。与える予定だった報奨は取り下げとし、今後も十三氏と共にありなさい」


「え……? あ、は、はい。それが、許されるのならば……」


「そして七七七十三よろこびじゅうぞう。あなたは僕の決定に意見を述べました。人の身で推参な。罰として僕の助力は無しに、今後もナイアと共に、自己の生に活路を見出しなさい」


「……は、はい。あの、でもそれは」


 僕は口に指を当て、軽くウィンクする。氏はハッとして、口をつぐんだ。


「これは厳罰です。いっそ無に還ったほうが楽、そんな後悔がいつか来るかもしれません。何せ本来のシュブ=ニグラスたる妹の恵ですら打ち勝てなかった、アザトースの死の運命に人の身で打ち勝てと言っているのです。お分かりですね?」


「はい。覚悟の上で、謹んで罰を拝します」


 深く頭を下げる十三氏。やがて頭を上げ、振り返り、氏はナイアに抱きついた。


「ナイア、あなたはホントどうしようもない子……」


十三ヒトミちゃん……ごめん」


「それではこの件はおしまいとしましょう。もう、蒸し返したりしませんからね」


 ぱん、と手を叩いて僕は努めて明るい声で宣言した。


「さてさて、忙しいですよ。次はあなた方が捧げた献饌をすべてこの胸に納めないといけません。それから荒らされたこの大地の修復もしないと」


 その後、僕は捧げられた五万体の神話生物をすべて弔い、さらに半径百キロ間で死亡した約一千万の神話生物をすべてわが胸へと誘った。供物となった彼らは一体残らずシュブ=ニグラスの原初の闇の底で微睡み、母なる寵愛を受けるだろう。


 併せてナイア氏と孫七郎によって破壊されたユゴス星の大地を修繕する。


 さすがに原初の大地母神とだけあって地属性関係は事実上の無限であり、作業はよどみなく進められていく。底の見えない抉られた大地も、大氾濫を起こして滅茶苦茶になった河川も、異常発光するヒカリゴケも、焦げ臭く荒れた大気までも、最初に降り立った時点よりも綺麗に直されていった。


 そうしてもはやこの星に用事はなくなった。


 超巨大な黒山羊には元の世界に還ってもらい、僕らは星間移動魔術をもって太陽系第三惑星、地球へと瞬時に帰還した。


 ここは、奈良県葛城市、私立桐生学園、日本ミスカトニック大学付属、ミスカトニック高等学校、その薔薇の温室。


 何か忘れていると僕は小首をかしげる。そして、ああそうかとポンと手を叩く。


 星間移動したというのに防疫を疎かにしてはならなかった。僕はここにいる全員に加えてテーブルから食器、食品に至るまですべて浄化魔術で完全に清めた。これを見たナイア氏が、律儀だねー、と肩をすくめていた。


「お茶会はこれで終了やな、俺にしてみれば想像を絶するほどに有益やったし、十三さんも状況自体は変わらんけどそれ以外は色々変わったみたいやしな」


「ええ。わたしたちは十分変わりました。ねえ、ナイア?」


「そうだねー。あら、ダメよ十三ヒトミちゃん。皆が見てる。しようのない娘」


 十三氏はナイア氏の手を取って身を寄せ、軽くキスを交わしていた。そうしてお互いに見つめて、微笑みあう。見た目は同性同士。中身は――うん、ちょっとわからない。ただ、そこには互いの立場を超えた強い信頼関係を感じた。直感になるが、もうこれで新しきアザトースの嫉妬を買うこともないのではないかと思う。


 用意されたティーセットやその他諸々は十三氏側がすべて片してくれるとのこと。なので僕ら四人、厳密には始まりの女神の僕と、混沌の邪神顕現体の二柱、そして人間少女の文香は、このお茶会での様々な仕上げに向かうことにした。

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