第52話 決闘、奉納、闇の底 その3

「キミヒラ。もう一度、キスして」


「そこで俺を名前で呼ぶとか、卑怯やで。愛おしくて堪らんくなるわ。く、苦言の反省したら、な。言うてもめっさ耳に痛い指摘やから、どうなるかわからんで」


「うん、大丈夫。お願い」


 犬先輩の顔は真っ赤に染まっていた。名を呼ばれ、もう一度キスをねだられるとは思わなかったらしい。むぅ、と不満の声を上げて響が僕の胸から顔を上げた。


 遥か向こうの上空では、邪神顕現体の二人がその身をかけて戦っていた。大地は割れ、川は底のない淵となり、肉の焼ける異臭がそこかしこに漂っている。なんという鏖殺日和。後できちんと修繕しないと。僕は目を細めて彼らの戦闘を見守る。


「恵一くん。キミは実に人間的なシュブ=ニグラスや。宇宙の頂点、盲目白痴にして全能のアザトース。次点に三愚神筆頭にして副王の、ヨグ=ソトース。そして大地母神、女神シュブ=ニグラス。つまり、キミ。この後ろに三愚神の末席、従僕にして混沌のナイアルラトホテップが控えているがそれはどうでもいい」


 犬先輩は顔だけでなく耳まで赤く染めて、僕のために説教を始めてくれる。


「恵ちゃんがシュブ=ニグラスでありながらも、なぜその力を振るわなかったか理由はわかるか? 理由の一つはキミのためやったが、もう一つあるんやで」


「宇宙規模で力が強大だから、ですね」


「そう、その通り。やけど恵一くんは、置かれたまだ立場をきちんと理解できていない。まあ当たり前やけどな。ほんなら諫言するで」


「……はい」


「実質、キミのひと言はな、ほぼ絶対的なものなんや。なんせ上は二柱しかおらんねん。ひとたびキミが命令すれば、命じられた側は、ただ従うしかない。今回の決戦はその作法自体を知らなんだからやむを得んけど、それでも、そのひと言で、最低でも五万の神話生物はキミのための供物となったのを忘れてはいかん」


「……はい」


「最初、あのオカマが半径100キロを消毒するかと尋ねた際も、キミが頷かなければそれはなされることはなかった。そのひと言は、簡単に命を奪う。それだけ強大無比な立場にあるってことや。繰り返すが、上は宇宙創造主のアザトースと、旦那様兼副王のヨグ=ソトースだけ。もしも三愚神でありながらも人として生きて行くつもりなら、今後の行動にはよほど気をつけんといかん。人間は、すぐ死ぬで。呪いの念だけで即不幸、やがて死亡や。今のキミなら死者蘇生などわけもないが、殺した事実はキミの中で残る。今回は人外ばかりやからええけど、ほんまに気をつけるんやで」


「はい、キミヒラ」


「あ……うむ。いやまあ、従僕の俺としては出過ぎた真似なんやが。あと、名前で呼ばれると俺、色々とヤバい。股間にビッグな通天閣が建ってまう」


「じゃあ、キミヒラ」


「……すまん、マジで通天閣が爆発しかねん。呼び名はいつも通りで頼む」


「だめなの?」


「犬先輩ではなく、全身勃起した野獣先輩になってしまいそうやねん」


 あらあら、と、思う。彼は両手で股間を押さえていた。


「この世界でも、僕は犬先輩を、大切な友人だと思っています。だって、ちゃんと親身になって悪いことには悪いと教えてくれるから」


「おう……」


「僕が普通の女の子だったら間違いなく惚れています。そんなあなたに出会えて嬉しいし、尊敬しているし、ああ、この胸の高鳴り。僕、今は男の子なのに」


「……恵一くん、俺もやで。ずっとドキドキしっぱなし」


 僕と犬先輩は顔を寄せあった。彼を誘うために僕は目を閉じて心持ち顎を上げた。が、その前にむちゅりと柔らかい何かが唇をふさいだ。それは響の唇だった。


「ママ、ずるい。わたしもママといっぱいキスしたいもん」


 そしてもう一度むちゅりと。上目遣いで、ちっちゃな唇が、僕の唇を咥える。


 まさか見た目が幼女の響とまで唇を交わすとは思わなかった。


 肩を叩かれた。振り向くと、文香さんが。目を閉じて唇をすぼめていた。


「えぇ……」


 僕は吹き出しそうになった。文香は自らの唇をちょんちょんと指さしていた。かなたの上空では、大気を割り大地を揺るがす決戦が繰り広げられているというのに。もちろんそれは僕の被害をそらす魔術で安全に回避されてはいるのだが。


「文香さん。あの、昨日あなたの唇を奪ったことは……」


「うん、いいの。わたしの初めてだったけど、それはそれで」


「でも、初めてのキスは、女の子にとってはとても大事なものでは」


「うん、大事。だけど恵一くんの世界のわたしは、あなたと恋人でしょう?」


「その理屈は根本的におかしい気もしますが……」


「存在する宇宙が違っても、わたしはわたし。だからキス」


「い、いいのかな……でも本人は納得しちゃっているんだよね……」


 僕は文香とも唇を交わした。いやもう、両手を広げて歓迎されるとね。


 彼女とは、それは向こうの世界での彼女という意味なのだが、どこをどうすれば一番心地良いキスになるかは完璧に把握済みである。


 そして――。


「ふぁああ……すっ、凄い……っ。全身が蕩けちゃいそう……」


 ご満足頂けて何より。文香はこれ以上なく上気した表情ですとんと席に着いた。


 さて、少しだけ間を置いて。


 僕はそっと手を伸ばして犬先輩の手を握った。それは催促だった。


「お、おう。もう一度。やけどええんかな。えっ、俺、男やで。このままいったら即BLやで。俺はそれでも一向に構わんけど」


「僕も今は男ですが、何か? モザイク染色体を統一し、肉体を女性化させましょうか? シュブ=ニグラスとして自覚した僕なら簡単ですよ」


「おう……いや、そのままで。この奇跡のバランスこそ至宝やねん」


 僕と犬先輩は再び唇を交わした。熱い吐息。犬先輩の愛犬、ティンダロスの猟犬のセトが嬉しそうに彼の足元でワンと吠えて尻尾を振った。視界の端に僕達をうっとりと眺める文香が映っていた。彼女の性癖は、どの宇宙でも変わらないようだ。


 ひときわ大きな爆発が闇色の天空を割った。全員が、視線を上に向けた。


 そのときだった。


 象鼻で、背中に魚のヒレみたいな羽。


 奉仕種族シュゴラン。


 異形が、左側面から槍を構えて突っ込んできた。それは下界で戦っていたシュゴランとは毛色が違っていた。絶望的な叫びを上げ、涎を垂らし、目を血走らせて。


 視線がかち合った。突っ込むそいつは、僕を狙っている?


「下郎、推参なりっ!」


 文香はすでに動いていた。今しがたのだらしない表情とはまるで仮面を取り換えたように冷徹で、目に残像が残る迅速さをもって突撃する異形の懐を奪った。間髪入れず、ガンと右足を踏み込んで象鼻を縫うように顎に掌底をめり込ませる。衝撃で、異形は跳ね上がったテニスボールのように滞空した。


「腰がお留守!」


 彼女はシュゴランの腰に差していた小剣を抜き取っていた。瞬間、掌底で顎を上向かせた異形の喉元を剣で貫く。さらに一瞬体を縮める動作から左足を軸足に、異形の横っ腹を回し蹴りにする。まるで零距離からの散弾射撃のようだった。


「テンショウ、カラゴシ、ホトケハララ、レイゲキでサヨウナラ」


 それは漢字で書くと以下のようになる。天衝、空腰、仏散、零撃。実際に目撃したからこそ、字面からどんな技なのかがより理解ができてゾッとした。


 ボロ屑のように蹴り飛ばされたシュゴランはきりもみしつつ黒山羊の背を三度バウンドして滑り、やがて止まった。絶命。飛行距離、約30メートル。


「……やっちゃった。わたしもアグレッシブでした」


「文香さんは文香さんですから。守ってくれてありがとう」


「うん、恵一くん」


 しかし、と僕は思う。


 先ほど見定めたように、このシュゴランは何かが違った。


「あれは両軍から脱走した兵とは違う。ヤツが構えてきた槍は、忌まわしき狩人が装備していたものや。おそらくはここ、ユゴスの原住民やな。最初に放ったオカマの消毒に奇跡的に助かったやつやと思う」


「ではここまで必死で飛んで、孫七郎の槍衾も避けて、かの顕現体の乱戦にも負けずに仲間を殺す原因となった存在を探し、仇を討つために?」


「奉仕種族とはいえ、こいつらにもその程度の意識はあるやろなぁ」


「僕を殺すために。そうですか……」


「あ、ちょっと恵一くん。絶命は確実やけどうかつに近寄るのは危ないで」


 僕は響と文香、そして心配になったのだろう犬先輩を連れ立って、仇を討ちに来て返り討ちに遭ったシュゴランに近づいた。


「これも僕が命じたゆえのもの、ですね。ならば」


 犬先輩の言う通り象鼻の異形はすでに息絶えている。

 目は見開かれ、赤黒い血で濁っていた。

 哀れ、だとは思う。

 しかし女神としての意識が、それ以上の感慨を切り捨てた。


 僕は意識し、自らの中に揺蕩うものを呼び出して、右手を前に差し出した。

 これには内なる恵――シュブ=ニグラスも僕の行為に賛同した。


 今の姿は、文香はもちろん、響や犬先輩にも見えないだろう。僕が意図して覆い隠しているためだ。ただ、気配だけは感じるかもしれないが。


 僕の身体にヴェールのように重なっていた、恵の姿がじんわりとずれるように浮かび上がってくる。そして半身をはみ出したところで止まり、彼女の右腕より、泡立ち爛れた雲のような肉塊、のたうつ黒い触手がぬらりと伸ばしてゆく……。


 触手は異形を囲み、同時にこの世界の何よりも深い闇色に侵食してゆく。それは、溶けるように、失われる。


「恵一くん?」


 文香さんは僕に声をかけた。


「せめて、シュブ=ニグラスたる原初の闇へ。その身を頂きましょう」


 犬先輩をはじめとする彼らには、息絶えたシュゴランが漆黒の正体不明に侵食され、体積をみるみる削られていくようにしか見えないはずだった。僕は本体の触手を自らの中へしまい、軽く息をつく。


「うん……」


 この決戦が終わった後にでも、僕に捧げられた五万の兵も、そして僕が命じナイア氏によって処されたまだ見ぬ神話生物も、残らず自らの闇の底へと、命じた以上は責任をもって最期を看てやらねばならないと思った。


「恵一くんが何をしたかは大体把握した。原初の大地母神らしい弔い方やな」


「蘇らせてもいいんですが、それはちょっとためらわれまして」


「その通り。シュブ=ニグラスたるキミに槍を向けてしまった以上は死ぬしかない。それにさっきの苦言に矛盾しそうだが、献饌は受け取るのがマナーやで」


「神様って、実はとっても大変なのですね……」


「だな。神なんてやるもんじゃない。でも、俺はキミが自覚してくれたことを心から歓迎したい。ようこそ、俺達の世界へ」


 再度、遥か頭上で大爆発が。

 ほぼ同時に、ドンッと人が僕のすぐ傍に墜落してきた。


 決戦の中でさえ泰然としていた黒山羊もさすがにその衝撃には驚かされたのか、大柄な身体を震わせてメケケッと嘶いた。

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