第49話 恋する時計ウサギ

「――さてさて、一通りの話は済んだと見てもよろしいですかな?」


 背後から声がした。振り返ると、そこには男が一人。


『にゃあっ! お前はっ!』


 響が素っ頓狂な声を上げた。にゃあとかちょっと可愛い、などと思うもよく考えたらご本尊の名前がナイアルラトホテップだったことを思い出した。


 それはともかく、彼女は椅子を蹴り声の相手に飛びかかっていた。


「これはまた、行儀の悪いお子様ですなぁ」


 男は響の胸倉を片手で掴んで横に投げ捨てた。流れるような動きだった。背中から地面に叩きつけられた響は、にゃっと小さな悲鳴を上げて動かなくなった。


 僕は慌てて僕は彼女に駆け寄って抱き起こした。目を回しているだけだった。ざっと見る限りどこも怪我はなさそうだった。土埃をサッと落としてやる。


 スーツ姿の長身痩躯、肌は南米ラテン系を思わせる褐色、そして随所にキザな雰囲気をまとった、無暗にハンサムな三十路過ぎの日系伊達男――。


 この人物には見覚えがある。忘れるわけがない。


「あなたはあのときの……っ」


 彼は、僕をこの世界に飛ばした張本人だった。


 昨日――巡回する世界を跨いでいるのでこの表現で果たして正しいのかはいささか疑問だが、ともかく僕の主観では昨日である。珈琲館コノハナサクヤでアルバイト中にお勧めの商品を聞かれてマニュアル通りの回答をすると、それもいいが俺はキミ達が欲しいなどとおよそ歯の浮くセリフと共に、僕をこの世界に飛ばした、あの男。


「あなたも、無貌ゆえに千ある貌の一つ、混沌の顕現体ですよね」


「イェース、イエス。わが愛しき恋人よ」


「恋人?」


「おっと、これは、これは……。俺はこんなにも胸を焦がれているのに。ああ、なんて素敵にイケナイお方なのだろう」


「ときに、化身顕現体のあなたなら、感じませんか。から」


「ふむ? あえて言うならば、こんな可愛い子が女の子なわけがない、と」


「すみません、何を言ってるのかさっぱりです」


 なるほど混沌の御本尊ならまだしも、顕現体程度では昇華された現在のについて感じ取れるステージにはいないようだった。ならば二人称を使うのはやめておこう。情報とは、制限することで価値が生まれるものだから。


 それにしても、このような頭の残念な神性に僕は世界を飛ばされたのか。ついさきほどまで繰り広げられた会話の、その真剣さから180度変わる空気にどっと疲れを感じた。ふつふつと怒りが込みあがるのは気のせいではないはず。


「どうかお聞きください。俺は、あの日あのときからずっとあなた様だけを見ていた。そう、あの日。偉大なる妹君と同一性を願い、その願いは聞き遂げられ、あなた様こそが大母シュブ=ニグラスとなられたときのことを。妹君の制服を着たその姿、俺の漆黒の魂はあなた様に雁字搦めに捕らえられた。なんて可憐なんだ、と。この胸の高鳴り、俺は化身として降臨し、初めて恋心を知った」


「恋心って、女神ではあっても、今の僕、男の子ですよ」


「僕、男の子ですよ。確かに頂きました。ああ、そのセリフを賜れるとは、なんという僥倖! まるで美酒と猛毒を同時に手に入れたような危険な甘美さ! これまであなた様の学園生活が潤うように色々と手を加えただけあった。まずはそう、あなた様方の呼び方での魔界のピンボール事件。俺はテリオン社から実験生物を拝借し、とある少女に与えてみました。次いで、放課後の殺人鬼事件。姿を変え、一巡前のあの出来損ないに知恵を与え事件を誘発させてみました。そして、今。今まさに! この異世界探訪は、あなたさまの人生に、大いなる混沌をもたらすと信じている!」


「混沌って……。神様の愛情表現ってどうしてそこまで遠回りなんですか……」


「恵一くん違うんや。神々は関係ない。ナイアルラトホテップってのは、基本的にまどろっこしくて面倒くさいのが大好きなだけなんや……」


 犬先輩は自己弁護じみた注釈を僕にくれた。


 胸の中で、ううう、と呻く声がした。響が気絶から復帰していた。とたん、よほど悔しかったらしく、涙ながら僕に訴えるのだった。


『そいつは一人ぼっちのわたしに言ったの。俺が構築しているこの村に興味があるのかいって。わたしは人恋しくて、誰かとお話ししたかったから、たとえそれが自分自身でも良かったから、うん、って答えたの。そしたら、運命の人に出会いたくはないか、って。わたしは、うん、って答えた。そしたら……そしたらぁ……』


「うん、うん。辛かったのね。でも、もう大丈夫だからね。いい子、いい子……」


『ううう……500年とか、酷いぃ……』


「何を言うか。ちゃんと運命の人と出会えただろう? 幾多の危険を乗り越え、お前を助けてくれる勇者が。そいつこそ運命の人に他ならない。俺は約束を守り願いを叶えた。大体500年くらい、俺らの感覚では半日にも満たないだろうに」


『ううう。でもこんな酷い叶え方って、ないよぅ……』


 響は顔を手で覆ってわあわあ泣き出した。僕は彼女を抱きしめてやる。


 そういえば犬先輩の講義で聞いたきさらぎ駅では、彼女は、人の皮をかぶった悪鬼のような村人に撤饌の巫女として性的に乱暴されていた。もちろんその悪鬼どもは同じく囚われて性的に乱暴されていた少女、水無月によって報復され、全員の股間を猟銃で撃ち潰すスカッと快挙の末に根切り成敗に処されたのだが。


 僕はため息交じりに響をあやしつつ、彼女を横抱きに元の席に戻った。


「絶世の女装美少年と涙するお姫様抱っこの銀髪美幼女……これは、これで」


「うむ、実に耽美。この素晴らしさがわかるとは、小娘、人生の上級者だな?」


 一連をつぶさに眺めていた文香が満足げに言いこぼした。うっとりと目の色を紫色に変えている。同意するのは、伊達男だった。


 この世界の文香も僕の知る独特の性癖の文香そのままである意味安心できるのだけれども、明らかに安心できない邪神顕現体がそばにいるので如何ともし難い。


「やれやれねぇ。史上稀な男の娘アリスちゃんを、この世界へ迷い込ませた時計ウサギまでお茶会にやって来るとは思わなかったわ」


「誰もかれもがナイアルラトホテップの顕現体とか、いつだったか何かの漫画雑誌で読んだキャラ人気投票のすべてを一人で順位を占めてしまう確信的ギャグをリアルで見ている気分ですよ。これ、調子に乗ってご本尊まで降臨とかないですよね?」


「なんか、ほんまにごめんな……」


「さて、わが愛しきお方よ。女神として自覚は概ね受け入れたものと推察します。やがては三愚神としての責務を全うなさるでしょう。ならばわが願い――」


「ふさげないでくださいね。嫌に決まっています」


「な、なぜに」


「告白は直球で来たのに過程での愛情表現は魔球とは、僕を弄び過ぎです」


「ああ、ああ。どうか勘違いを召されるな。弄んでいるように見えて『そうあってのモノ』なのです。ひらにご容赦と、ご理解のほどを。現在の事象の流れは、あなた様がそこの笑う道化から電話を受け取るためのプロセスに過ぎないのです。この春にかの者の電話を受け取るには、必ずここへ飛ばねばならなかった」


「因果律に組み込まれていると?」


「はい、まさに」


「しかしこれまでの僕は、恵のオマケ扱いで死亡を」


「死を回避した時点でわれらが偉大なる盲目白痴の王は、自己の意思に依らず、自動的に観測結果を打ち出します。それは『そういう現象』なのです」


「その頃、まだただの人間だったときの僕は、かの宇宙神アザトースの一部キャストなので多少の変遷は許されていた、とでも?」


「はい、左様のほどに。その結果こそが、あなたさまを偉大なる女神へと昇華させる原動力となり、現在に至らしめているのです」


「ふむ……」


「さて、ご納得頂いた上で、再度わが願いを言上仕る。俺を――いや、わたくしめに三愚神の一柱への機会をお与えください。この世界には三愚神としてのシュブ=ニグラスの席は不在。しかしあなた様は、ここに。ナイアルラトホテップの席はそこの半陰陽が。ならばわたくしが三愚神となるために、決闘の許可を、是非とも」


「僕はこの世界を去り、元の世界へ戻るつもりですが」


「座標はお分かりで?」


「ご心配なく、何とか探して見せます」


「向かう先は一巡後の宇宙とわかっているとはいえ、それから先、実質的に無限にある可能性世界からどうやってただ一つの正解へと? 近似の世界へ行っても、それは帰還したことにはなりません。ふむ、意中の世界へは果たして何年、何十年、何百年、あるいは何千年何万年かかることやら」


「それは……」


「ここで三愚神を全うすれば良いのです。自らをかたどる人形ヒトガタを造り、仮の精神を宿させ、それをわたくしめが元の世界へとお送りしましょう。なんなら人形を意識の中継点代わりに同時生活をなさるのも良いかと。あなた様なら簡単にできますゆえ」


 さすがに混沌の邪神、言いくるめと説得の能力が半端なく高い。あやうく首肯しそうになった。しかし、ここで負けるわけにはいかない。


 僕は考えを巡らせた。すべての目がこちらに集まる中で、一つ決断をした。


「ナイアさん」


「んー?」


「始まりの大地母神、三愚神シュブ=ニグラスとして命じます。あなたが持つ三愚神の立場を賭け、彼と戦いなさい。そして、打ち勝ちなさい」


「……」


「返事はどうしました?」


「うーん、オッケー」


「そしてあなた、名前は?」


わたくしは現在、鈴谷孫七郎と名乗っています。魔界のピンボール事件での、鈴谷ありさの叔父という立ち位置にて。実際はそういう設定を組み込んだだけですが」


「結構。三愚神シュブ=ニグラスとして命じます。鈴谷孫七郎、そこにいるナーセル・トート・ナイアと戦いなさい。勝てばあなたの願いを聞き届けましょう。負ければ僕の帰還のための正確な座標をすべて寄越しなさい。いいですね?」


「ありがたき幸せ」


「とはいえ神々の余興をこの地で行なうわけにもいきません。葛城の街どころか日本全体が、下手をすれば地球そのものが滅びかねませんので」


 するとナイア氏が人差し指を天に向け、それならと言う。


「太陽系には人類がまだ正式に公表していない九番目の惑星があるわ。その星とはユゴス。環境は少々暗い以外、地球とほぼ変わらず。宇宙服もいらないわ」


「星間移動するんですか? って、僕は一巡後から宇宙を跨いでいるのでした」


「恵一くん、念のために言っておくけど、2019年現在、まだ人類の宇宙開拓事業は稚拙で、独力では火星へすら有人ではたどり着けてないからな?」


「採算の見込みが取れれば今すぐにでも開拓されそうですけれど」


 まあ、それはいいとする。所詮は人間のやることである。


 僕はナイア氏よりユゴス星の宇宙座標を聞き、試験的に自ら意識してシュブ=ニグラスの力を一片を振るう、いわゆる神の奇跡なるものを試してみた。


 が、実のところ神の奇跡などとのたまうに、わかったことといえば奇跡や魔法、魔術に至るまで、結局は科学と同じく数学だという結果に落ち着くのだった。


 ただ、人間にはとても扱えない巨大演算項目が十二次元の球状になっていて、そこで使われる神性文字の一つ一つに億や兆や京の意味が付帯され、一つ間違うと全然違う結果になるのが問題ではあるのだが。


 この手記を読んだ人が仮にいて、もしこの描写が理解できなくても心配はいらない。量子コンピューターの性能が宇宙規模まで上がれば、その演算機に任せてしまえばすぐ解決できるようになる、その程度の問題に過ぎなかった。

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