第48話 アリスのお茶会 その5

 僕は一度紅茶を飲み、口を湿らせた。目を閉じて、当時を回想するように、あの日の出来事を記憶の限り正確に言葉に乗せる。以下はその電話内容である。


『おう、こんにちは。霧島やで。そちらさんはさんの携帯か?』


『いえ、こちらは愛宕ですが』


『あれ? 高雄型重巡で覚えてたんやが。ほんなら摩耶でも鳥海でもない?』


『愛宕です。僕の名前は愛宕恵一。電話、切りますね』


『あっ。ちょい待ち、ちょい待ち。えらくご機嫌斜めやん。どないしたん?』


『あなたには関係ないでしょう』


『まあそうやな。やけど、だからこそ話せると思わん? どうせ誰だか分らんやつや、恥の投げ捨てができる。話をするだけでも解決することもあるし」


『なんなのですかあなたは……』


『わがげんに逆らうなかれ。『支配、愛宕恵一は直近の悩みを打ち明ける』』


『……。双子の妹と喧嘩しました。いつものことでもあるんですが、ちょっと今回は事情が違って。彼女の言うままにするのはもうやめたほうがいいのかなと』


『なるほど、いつもと違う毛色の喧嘩をしたのか。なら、しばらく時間を開けて二人の仲を冷却させたらどうや? 喧嘩ってのは案外冷静に見つめなおせるで』


『というと?』


『少なくとも半日は顔を会わせるなってこと。頭に血が上っているときに相手の顔を見たら、心無いことも口走るかもしれん。キミは妹さんのこと、好きやろ?』


『自分自身のように大切な家族です』


『そうか、すまんな。本当にすまん。俺はキミしか守ってやれん。わがげんに逆らうなかれ。『支配、愛宕恵一はその日、妹の愛宕恵と絶対に外に出かけない』』


『……。わかりました。……えっ、ちょっと待って。なんで妹の名前を?』


『おっと、やっぱし強い繋がりを持つ双子の妹のことになると抵抗値が恐ろしく上がるな。恵一くん、キミが今日を無事に過ごせるよう俺は心の底から願っている。……その記憶は夢幻の如く。『記憶を曇らせる、愛宕恵一はこれまで俺こと南條公平と交わした会話内容と、そもそも電話が来たことも思い出せなくなる。さらにこの電話までの前後一時間ほどの出来事も、記憶があやふやになる』』


 語り終えて僕は犬先輩を見つめた。


 彼は口をぐっと横一文字にして、目を閉じていた。もしかしたらどうかして今の発言を記憶として脳に刷り込んでいるのかもしれない。


 かちゃり、とナイア氏はティーカップを手にして優雅に飲んだ。十三氏は中空を見上げてピクリとも動かない。


 文香は一度席を立ち、僕の座る真横にまで椅子をさらに密着させて座りなおした。そして僕の膝に自らの手をそっと置いた。響は甘えて抱きついたままだった。僕は彼女のさらさらとした銀髪を若干弄びつつ、ゆるゆると頭を撫でた。


「……やばいな、時間がないからって魔術の連発やんけ。マジでごめんな」


 無言だった犬先輩は目を見開き、やがて、眉間にしわを寄せて謝った。


「わずかな時間でも確実にことを成したかったのでしょう。そのおかげで僕は助かったんですし、感謝していますよ。ただ、この方法だと、恵は」


「すまん、アザトースと対抗とかどう足掻いても無理なんや。俺VS宇宙とか。人間はアザトースの夢の産物で、それはかの偉大なる白痴の魔王の一部ということでもある。せやから十三社長みたいに那由他の先のまた先の希望にすがることもできる。まあ今なら恵一くんに泣きついたほうがまだ可能性はあるんやろうが。でもな、恵ちゃんは、そういうのとは次元が違うから。まさに手も足も出ん」


「やはり……そう……なりますか……」


「恵一くんがわがことのように恵ちゃんを大事に想うのは知ってはいるんやけど。そりゃあ世界でたった二人の兄妹なんやし、当たり前っちゃそうなんやが」


 俺にはどうにもできない。すまないが、本当にすまないが、どうか諦めてくれ。言葉を千切って俯いた犬先輩の表情は、重く語っていた。


 この、やり場のない失望感は。犬先輩は、ちっとも悪くない。悪いのは現宇宙のアザトースと無謀運転で事故を起こした犯人なのだった。


 しかしこの失望感が自分のワガママとわかっていても、わが胸に渦巻く昏い気持ちは理屈ではないのだった。お前の願いは叶わない。その願いは叶わない。


 ああ、僕は、孤独だ。片翼になったぼろぼろの鳥。どうしようもない。


 僕の膝に手を乗せる文香は、こちらの左手を取って彼女の膝の上へといざなった。そして両手で左手を包み込んだ。テーブルの下なので他者には見えないが、この世界の彼女なりに僕を慰めてくれているらしい。


 僕は、ゆっくりと息を吸い、吸った時間の二倍をかけて、息を吐いた。


 なんとか気持ちを平常に戻さねば。いつもの僕に。


 なぜなら自分こそ現行の女神シュブ=ニグラスであり、恵の遺伝子を持った恵自身であり、同時に恵一でもあるためだった。


 あまり不安定な気持ちに陥れば、僕の中で育まれたもう一人の恵と入れ替わりかねない。それは決して悪いことではないと思う。彼女も本人ぼくだから。でも、それでも。まだ僕は自己の意思を放棄するつもりはなかった。復活が無理だというなら、せめて僕の中で二人は一つとして、二人三脚で愛する妹と人生を送りたかった。


「文香さん」


「はい」


「ありがとう、もう大丈夫。手、放しますね」


「……はい、恵一くん」


 こういうときこそ強くあらねばならない。僕は無理やり気持ちを切り替えるために文香の優しい手を放した。それは効果があったらしく、少しの罪悪感を残していつもの自分に限りなく近い心境になれた。胸の内で、文香にごめんと呟いた。


 目を閉じて冷静さに立ち返り、感情を加味せず、今一度僕と恵について考える。


『恵こそ外なる神、シュブ=ニグラス。分御霊とはいえその能力は本体と同等』

『シュブ=ニグラスたる恵は自己蘇生ができた。が、あえて蘇生しなかった』

『僕が恵を愛するように恵も僕を愛していた。死後は僕の守護神となっていた』

『現在、僕こと愛宕恵一は、同時に双子の妹、愛宕恵となっている』

『僕は恵を蘇らせたい。恵は何を考えている? 恵は僕に何を求めている?』


 僕は目をかっと見開いた。胸の内で、そういうことか、と呟いた。


 と、同時にこの瞬間にはっきりと僕は恵と重なるのを感じた。どう表現すればいいだろう、欠けていたパズルのピースを思わぬところで見つけた、みたいな。双子の自我が、僕が僕でありながら恵となり、完全に混ざりあったような。


「恵。僕らのあるべき姿とは。だから、蘇生しなかったのか?」


「えっ。恵一くん、どないしたんや」


 気づいてしまった。


 僕はわたし。わたしは僕。実質的な男女合一。両性の、本来的なシュブ=ニグラス。かの偉大なる原初の大地母神は、女神でありながら、男性的な神性も持ち合わせている。これは非常に重要なので繰り返して書き込んでおく。


 女神シュブ=ニグラスは、女神でありながら『千の雄羊を連れし雄羊』意味合いでの、男性神の側面も併せ持っている。


 恵は僕になり、僕は恵になることを望んだ。


 ゆえに、今の『僕達』がいる。


 混沌の邪神ナイアルラトホテップの従妹の黒女神マイノグーラとは、シュブ=ニグラスは男性神として交わり、ヘルハウンドをもうけた。その地獄の猟犬は世代を重ねるうちに劣化し、ティンダロスの猟犬を作ることになる。


 余談になるが、だからこそ犬先輩に憑くイヌガミ、猟犬のセトは、太祖である僕に愛想を振りまくのだった。


 しかし、それにしても。まさかこれが。


 ああ、完成された、本当の意味でのシュブ=ニグラスぼくたちふたごだとは。


 僕は再びゆっくりと深く息を吸い、静かに息を吐いた。


 わかったよ、恵。お前の願いは僕の願い。二人で、一緒に、生きて行こう。


 声に出さず、内なる妹に頷く。そして、僕は心配気な周りに微笑みを向けた。


「皆さん、ご安心ください。もう大丈夫です。僕が恵であり、恵が僕で良かったのです。彼女が求めたのは、次世代宇宙への、完全な男女合一の女神。今表に出ている相は、恵一ですが、割合を変えることによって恵の相にもなれるわけです」


「お、おう?」


「犬先輩。シュブ=ニグラスの、性別的特性を言ってみてください」


「力強き大地の母でありながら男性神の側面も持つ、か? まさか、そんな?」


「ええ、そういうことですね」


「マジか。確かに、これまでと違い、今の恵一くんかが発する神気はもはや別格」


「これでも漂う原子粒の一つを指で優しく摘まむくらい抑えているのですが」


「力んでくしゃみしたらあかんで。銀河が10や20、軽く飛ぶからな」


「あはは」


「いや、そこ、笑うところとは違うんやけど……」


 アリスのお茶会もどうやら終わりが近づいているようだった。


 今後のタスクは、僕は原初の大地母神として、それも三愚神の分御霊たるヨグ=ソトースに『妻』の立場にて邂逅し、犬先輩の助命嘆願、および十三氏の目覚めたアザトース対策を伺わねばならなかった。


 何より、この世界の――、


いわゆる『合わせ鏡で連なる巡回宇宙』、または『螺旋状になった巡回宇宙』の座標を知り、さらには元いた一巡先の宇宙の座標を知らねばならなかった。

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