第46話 アリスのお茶会 その3

 ナイア氏は語りだした。

 曰く、女神シュブ=ニグラスとは外なる神の一柱で、アザトース、ヨグ=ソトースに次ぐ存在であるとのこと。


『千匹の仔を孕みし森の黒山羊』

『千の雄羊をつれた雄羊』

『黒き豊穣の女神』

『万物の母』

『始まりの闇』

『魔女どもの女王』


 などなど、様々な異名を持つ、原初の大地母神であった。


 それは、豊穣の概念そのもの。生命力を象徴する神。ゆえに多産慈愛の母性と同時に、森の強い生命力の象徴の男性神としての側面を持つ宇宙的存在。


 しかし多産慈愛の母性といえば聞こえは良いが、一歩視点を変えれば淫蕩な女神とも言い換えられるのだった。


 遥か旧き大地母神にしてヘブライ神族によって堕とされたリリス。

 メソポタミアの地母神、聖なる娼婦でもあるイシュタル。

 猫の多産からの繁栄の印、エジプトのバステト。

 愛と豊穣と享楽のハトホル。

 移り気なインドの女神ラクシュミー。

 北欧神話におけるオーディンの愛人兼実兄ともヤッちゃう近親相姦のフレイヤ。


 ごく一部の例になるけれども、大体が、性的にフリーダム。


 そして、元祖セックスフリーとなる始まりの女神が、シュブ=ニグラス。


 と、ここまで書いて思うことがある。わが妹の、恵について。


 女神シュブ=ニグラスはヨグ=ソトースを夫としながら旧支配者ハスターに浮気していた。女神の別側面としての男性神では、混沌邪神ナイアルラトホテップの従妹のマイノグーラと性関係を持っている。愛人に、蛇神のイグがいる。行きずりに寝てみた様々な神性、怪物、知性の有無も頓着せず交わって子を産んでいる。となれば、当然性魔術を司る女神の側面も持ち、魔女どもの女王としても君臨している。


 それを踏まえて恵がシュブ=ニグラスだったというのが……色んな意味で兄としてショックを隠せなくて困る。確かによそで聞くリアル妹像とはどこか違うな、とは思っていたのだけれども。儀式とはいえキスを兄妹で交わしているし、僕を裸に剥いて人のパンツを彼女が履いたり。肉親として妹を愛してはいるのだが……。


 うん、シュブ=ニグラス御本尊はそうであっても、わが妹は違うと思おう。


 それに女神的に性欲を持て余した際の発散は、現在進行形で僕が担当を受け持っているようなものだった。元の世界に戻ったら、文香と滅茶苦茶セックスしよう。


 兎にも角にも。


 信仰の幅は、大地母神の祖であるために非常に広い。何せ豊穣の神で遡ればすべからくかの女神に行きつくのだから。信者達は崇め奉る本質が何であるか理解せず、ただ、世界中で大地の母として崇め奉られ、また慰撫されているのだった。


「正直、言葉に困りますね」


「そうかしらー? だって混沌の顕現たる、ぼくの上役だよ?」


「しかしそんな偉大な大地母神なのに、なぜ、恵が、こうもあっさりと」


「人間状態のシュブ=ニグラスは、基本的に『人間とほぼ同質の思考形態』を持ち、その気がない限り『振るう力も人間準拠』なのよ。何より恵ちゃんは自分の本質には頓着しなかった。理由の一つに、自分とそっくりのもう一人がいたから」


「僕が、いたから?」


「それだけあなたを愛していたってこと。あなたと、同じで、いたかった」


「……」


「でも、それも長く続かない。新たなる世界、宇宙の中心、来たるべき目覚めしアザトースが気に入らない、現アザトースから嫌がらせの事象干渉を受けてアリスちゃんの言うようにあっさり殺された。もちろん自己蘇生くらい簡単にできるのよ。人の肉体が滅んだからといって神性そのものが滅ぶわけないもの。でも、蘇らなかった。これは推測になるけれど、生き残ったあなたに害が及ぶのを恐れたためだとぼくは見ている。一緒に死んだときは、あなたを取り込んで共に本体へ還っていた。今回は49日まで守護神として憑いていた。そしてあなたが、シュブ=ニグラスとなった」


「……犯人は、現宇宙のアザトース?」


「そうなるわね。でも実質的にやらかしたのは、人間。そうでしょう犬ちゃん?」


「ああ、そうや。十三さんと量子コンピューターの新ロジックの試運転に、内緒やけど葛城市中に配備された防犯カメラをハッキングして映像記録してたんや」


「そこ、詳しくお願いします。一体、いつ、ハッキングしていたんですか?」


「この世界の恵一くんと恵ちゃんが交通事故に遭い、暴走スポーツカーの犯人が逃走した、まさにそのときや。リアルタイムで、俺らはキミたちが事故に遭う現場をハックしたカメラを通して見ていた。もちろん証拠はすべて保存してあるぞ。ところがポリ助は、防犯カメラの映像を証拠に持っていながら内々に破棄しているんやな、これが。なぜなのか。犯行者は、超のつく高級警察官僚の息子やったから。いわゆる自称上級国民ってやつ。親が特権を駆使して揉み消しを図ったわけや」


 犬先輩は紅茶をぐっとあおった。


「それが自己保身のためかそいつの出来の悪いクソ息子のためかは知らん。どっちがどっちかなど重要ではない。いずれにせよ揉み消し工作はことのほか上手くいったらしい。そっちの俺は、恵一くんにこの辺こと何か言わなかったか?」


「いえ、何も」


「……ふむ。そういや恵一くんの世界の俺は、恵ちゃんの49日の次の日にキミに会いに来たんやったな。俺が思うに、そっちの俺は証拠となる映像と、桐生をバックにした腕利きの弁護士などの手配を申し出に来たんやないかと見るんやが……どうやろか。なんせテメエの絶対死の運命を解決する、唯一の希望となるキミが生き残ってるんやで。俺なら全能力に全財産をもぶち込んで、必死で守ろうとするが」


 あの日、犬先輩がわが家を訪れてくれたのは、タブレットに書き込まれた授業データをコピーさせてくれるためではなかった?


 本当は、恵を殺した犯人をすでに知っていて、僕に話を持ってきていた? 


「恵一くんの知る俺は、恵一くんに何か尋ねなかったか? 絶対に特定の意図をもってその手の質問をしているはず。ゆっくりでいいから、思い出してみ?」


「……はい」


 犬先輩の言う通り、僕は問題の日の、彼のセリフを一つずつ思い返す。


 そして、思い当たった。


 あの日、自分と恵の想いと女装について犬先輩に僕は語っていた。その後、用向きとして彼から授業データをコピーさせてもらった。でもそれは、いかにもな付け足しだったのだ。ソファーから立ち上がって背伸びをする彼は、こう、尋ねた。


『仮に、の話やけどな。もし、恵ちゃんを害して逃げたやつがどこの誰か、警察よりも早くわかったら恵一くんはどうしたい?』


 この質問に過日の僕は、言葉に詰まった。やがて、こう、答えた。


『殺します』


 犬先輩は、そうかと応えた。それで、終了した。


 僕はあの日の出来事をすべて語った。この場の犬先輩も、そうかと頷いた。


「その気になれば、恵一くん。キミは間違いなくその通りにできる。生まれ変わったキミは、もはやシュブ=ニグラスそのものやから。つまるところ、一巡後の俺は、キミに事故の真相とその犯人を教えたくても教えられなかったわけやな……」


 犬先輩の嘆息交じりの言葉を革切りに、場は沈黙した。


 空気を読む能力など持ち合わせていない響きですら、お菓子をむさぼる手を止めて口の周りをひと舐めし、するすると椅子ごと僕が座る真横まで寄せてきて心配そうに抱きついた。彼女の顔と手は蜂蜜とクリームと砂糖まみれではあったけれど、彼女の瞳は、驚くほど人間的な優しさに満ちていた。


「ありがとう、響ちゃん。あなたはとっても優しい子」


『うん、ママ』


 自らの気持ちを落ち着かせるためにも、せっかくなので僕は響の甘ったるく汚れた口の周りをテーブルナプキンで清めてやり、さらに手を拭ってやった。響ははにかんで、今度は胸元に顔をうずめて抱きついた。


 まるでわが子でも見るような、ほの温かい感情がじんわりと身体の奥から湧き出てくる。男なのにこの母性溢れる保護欲はどうだ。恵の、シュブ=ニグラスとしての感情だろうか。僕は彼女の背に腕を回して、ぽん、ぽんと穏やかに叩いていた。


「……可能なら、その証拠データの数々、僕にいただけませんか?」


「恵一くん。キミの主観で、あの日から数か月たち、キミの家族を不幸に叩き落した犯人に対して、今は何を想う? まだ、みっちりと復讐したいか?」


「父に」


「ん?」


「この世界の父にその証拠データを渡します。僕はこの世界から元の世界に戻るつもりでいますので。自分が偉大なる神性を受け継いでいるならば、例え宇宙を跨ぐにしてもそれは容易くできるでしょう。週に一度こちらの父の顔を見に行くのもわけありません。が、それだけではこの世界の父が心配です。父は、僕と同じく、弱い。ならば何か人生に活を入れるものが欲しい。と、なれば……」


「なるほど、そういう話なら大丈夫やな。よし、桐生グループをバックにした超切れ者弁護士もつけてやろうやんけ。費用も全部こっちで面倒見たるわ」


「ありがとうございます。そして、よろしくお願いします」


「よし、じゃあ、最後に俺にとって一番大事な話題に移ろうか」


「僕の世界でのあの日の出来事。一体、僕に何があって恵と買い物に出かけるのをやめたか、ですね?」


「せや」


「……」


「ど、どないした?」


 話したい。あの日何があったのかを。


 犬先輩がそれを知ることで助かるのなら、なおさら。しかし僕は思い出せなかった。響が教えてくれるに、記憶を曇らされているのだ。


「実は、事故の当日、特に恵が出かけて行った辺りの記憶が、僕にはありません」


「んなアホな」


「響ちゃんによると、何者かの魔術を受けているそうです。記憶を曇らせる、という魔術を。まだ人間だった僕は、ほとんど抵抗なく効いたんだと思われます」


「ふむ。……んん? つまりそういうことか? 恵一くんも人が悪い。いや、これは恵ちゃんの小悪魔テイストか。考えるまでもなく犯人はアイツやんけ」


「そうですね。意地の悪い言い方でごめんなさい」


「よし、犯人ぶっちゃけてやれ」


「僕の推測では、犬先輩の仕業です。もちろん僕の世界での、ですが」


「そういうこっちゃな。謝罪の意味も込めて、理由を俺に語らせてもらえるか」


「是非、お願いします」


「一巡後の俺は、一巡前の自身の記憶を引き継いで、世界そのものを一時的に騙そうとしたんや。キミら双子の死の運命はアザトースせかいの介入によるもの。とはいえ、や。恵一くんは、本来狙われるべき存在ではなかった。なんせホラ、この時点ではまだキミはただの人間キャストやったから。で、それこそが明確な弱点になるんやな」


「僕が、弱点に」


「しつこいかもしれんが、結局のところアザトースのターゲットはシュブ=ニグラスたる恵ちゃんであって、人間の恵一くんではないってことや。かの宇宙神は盲目白痴の魔王とも称される。が、それは眠っているがゆえのもの。宇宙には親宇宙があり、子宇宙孫宇宙と世代を繋げて膨張しているのは科学的にも知っての通り。『極東の三愚神』とは新たな、しかも今回は特別にも『目覚めたアザトース』をお迎えし、彼女の力によって子宇宙を創生、新天地へ向かう原初の神々となる存在。というか次世代のアザトースは目覚めているから盲目でも白痴でもないし、となると彼女に仕える神々を三愚神と称するのはなんか違う気もしないではない」


「そ、そうですね」


「おうよ。で、その子宇宙となる新しきアザトース。目覚めているだけあって、あらゆる面でダンチの能力を持っている。ここからは俺個人の考えやが、現アザトースは眠っているにもかかわらず俺に暗殺命令を下したのは、次世代の子宇宙にある種の危機感を感じたからやと思う。曰く、自分が喰われるんちゃうか、みたいな原初的恐怖やな。で、付随して、や。坊主憎けりゃなんとやらで、次世代へついていく『極東の三愚神』にも危機感を覚え、結果的には一番隙の大きかった恵ちゃんに事象介入してしまった。まあ、神レベルでは人の生死とかどうでもよくて、彼女に対するちょっとした嫌がらせ程度なんやけどな。それはいいとして、神としてはそれで良くても人間だった恵一くんには堪ったものではない。こんなもん完全にとばっちりやんけ。ならばどうする? ヒントは俺や。俺は、巡回する記憶を引き継いでいるで」


「僕が犬先輩なら、入れ知恵しますね」


「イグザクトリィ。俺なら知恵を仕込んで今後の行動を制限させる。ただそれだけの話やが、最高の防御となる。加えて、アザトースの事象干渉に不備が出ないよう、それは予測不能の干渉を避けるためにって意味やが、情報を恵一くんの潜在意識にも刷り込んで、さらに表面上の忘却手段があれば、どうや?」


「ふむ……対象が僕ではないなら、ああ、理解しました。なるほど、世界を騙す、ね。ある一点を除けば、いや、だからこその悪魔染みた発想でしょうか」


「すまん、だからこその『天才悪魔』の二つ名やねん。これが真の意味や。ラプラスだなんて、笑わせるぜ。この方法やと、キミしか助けられんからな。そしてそれが俺の限界でもある。最近調べて分かったんやが、死んで持っていける情報は一ペタバイトまでや。一聞すればなかなかの容量と思うかもしれん。しかしちょっと考えてみてくれ。42億回の繰り返しの経験、生き抜くための情報は、その容量やと小さすぎるとは思わんか。しかも俺の『本体』は、俺の記憶そのものを娯楽感覚で弄ってきたりする。一番デカい記憶の損傷は、義妹の響との邂逅についてや。きさらぎ駅の出来事は後のキミと関わる重要なイベントにもなるんやが。ああ、人とはかくも矮小か」


「想像を絶する情報の取捨選択であるのはわかります。しかし……」


「待ってくれ恵一くん。それを言われたら、俺はもうお手上げやねん。頼むから、話を続けさせてくれ。後生やで」


 やはり僕は、僕と一緒に恵も助かる道を模索したい。愛するわが片翼。たとえ異常者呼ばわいされようとも。そしてその情報を犬先輩持たせたい。だが彼はそのようなつもりはないかの如く、話の続きをさせるよう願い込んでくる。


「恵一くんが記憶を曇らされた時点では、まだキミは人間やった。ゆえに魔術使用時は俺のほうが格上で、精神対抗に勝っていた。やけど今は違う。愛宕恵一、シュブ=ニグラス。今のキミは、ここにいる誰よりも神格が上や。つまり――」


「……つまり、かけられた魔術と精神対抗すれば、それを打ち破れる」


「せや。そう願ってみ。記憶を曇らせる魔術を解除ってな」


「申しわけない。待ったをかけさせていただきます。話に、口出しを、希望します」


 これまで話の動向を黙って見守っていた十三氏がストップをかけてきた。


 封じられた記憶の中身が早く知りたい犬先輩は、珍しくムッとした顔になった。併せて彼の愛犬もうなり声をあげた。


 しかしそんな様子にも怯まず、十三氏は質問を投げかけてくる。

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