第45話 アリスのお茶会 その2

「……まさか」


「そのまさかや。だがすまん、口には出さないでくれ。手記とか日記とか、もはやキミが書く以上それは魔導書と同義なんやが、もしそういうのを書いているのなら俺の正体の直接記載はやめてくれ。俺は『住人としての血』と『それ』の力でもって、気の遠くなる回数に渡り『人を辞めさせられた、人としての俺』を事実上繰り返している。違う。三愚神ヨグ=ソトースに殺されるために繰り返させられている。だから記載はやめてくれ。キミの書く事実に、俺が、押し、潰される……」


「わ、わかりました。よく気をつけて手記に取ると約束しましょう」


 僕は震える手で紅茶に口をつけた。ベルガモットの良い香りがする。少々ぬるくなっていたが、それがかえって喉を柔らかく潤してくれた。そっと息をついた。


 フードを目深に被ったメイドのアルスカリたちは卑屈なまでに頭を垂れ、まるで僕に捧げ持つように三段プレートよりスコーンを取り分けてジャムと蜂蜜を用意した。腹はまだ十分に満腹だったけれど、せっかくなので頂くことにした。


 二つに割って蜂蜜を塗り、口に運ぶ。さっくりとおいしかった。

 ふと見れば、響がこちらに向いて口を開けていた。


「甘えん坊さん、ね?」


 スコーンをちぎって口に入れて欲しいらしかった。なのでそのようにしてやった。彼女は嬉しそうにそれを食べ、まるで幼い子どもそのままに朗らかな笑みを浮かべた。だがこの子は陰秘学でいう混沌の邪神ナイアルラトホテップだった。


 真向いのナイア氏は僕と響のやりとりを眺め、深みのあるなんとも不可思議な笑みアルカイックスマイルを見せた。彼 (彼女かも?)も邪神ナイアルラトホテップだった。そして、犬先輩。僕は目を閉じた。まさか……まさか、犬先輩も。いや、書くまい。


「それで、犬先輩は僕にどうしてほしいのでしょうか」


「――その前に、少々お時間を頂戴いたしたく思います。始まりの女神様」


 十三氏が口を挟んだ。髪をオールバックにした眼鏡の、線の細い三十路男性である。桐生系列のすべての端末OSを一手に引き受ける先進気鋭の、カオスシード社のCEO。地球上でもっとも演算力のある量子コンピューターを組んだ天才。


 そういえばなぜ彼はここにいるのだろうか。


 社長という立場ならまず忙し過ぎて、いや、失礼ながらそれ以前に、このような邪神の顕現体達が集まるお茶会に出るいわれはないように思われるのだが。


「実は、わたしも南條くんと同様の悩みを抱えています。なのでここからの話には大いに関心を寄せているのです。あるいは不躾な質問をするかもしれません。わが命がかかっているので、前もってこの無礼なわたしを許して頂きたいのです」


「あ、はい。ええと、わかりました。疑問なり意見があれば構わないのでどんどん僕に聞いてください。十三さんの期待に応えられるか自信はありませんけれど」


宇宙そらの如く寛大な御心に感謝します」


 彼の話はそれだけだった。深々と頭を下げる十三氏に、それがどんな悩みなのか、命がかかっている理由とは何なのか、とても聞けそうになく承諾だけする羽目になった。この間合いの取り方、さすがである。ただ……彼の隣に座るナイア氏がほんのわずかな間ではあれど、混沌の邪神顕現体とは思えないほど寂しげな眼をして、僕は遠慮していたサンドイッチを三段プレートから鷲掴みに一口で食べていた。


 その後しばらく、全員が無言を通した。


 まるで互いの出方を見定めようとするが如くに。


 犬先輩は普段見慣れた道化顔ではなく、いつになく真剣な表情になっていた。

 美の悪魔か芸術の神にでも祝福されたような美少年ぶりが輝くように露呈するのである。僕は男のくせに、恋に恋する少女のような胸の高鳴りを覚えた。


 僕の中の、恵が、疼く。彼女は、僕だ。もう一人の僕の側面。

 思わず僕は、助けを求めて左に座る文香へ振り向いた。

 文香は小首をかしげ、しかし腕を伸ばして僕の肩に優しく手を添えてくれた。


「わたしにはついていけない話が恵一くんを中心に台風みたいに渦巻いている。でも大丈夫。台風の目は、凪の世界。落ち着いて、自分を見失わないで」


「ありがとう、文香さん」


 やはりどの世界であっても文香は強く優しく、頼りになる女の子だった。僕には持ち得ない素晴らしい魅力を持つ彼女。だからこそ僕は文香が好きになったのだ。


「すまん、間を取らせたな。俺の願いは、というか質問になるんやが、こうや」


 また無言が続いて、やがて犬先輩は頃合いを見計らうように口を開いた。それは、簡単には表現しきれない凄まじい事実を伴っていた。


「俺の42億回繰り返す記憶のうち、まあ多少は忘却もすれば勘違いもあるんやが、それは人の身ゆえの仕方のないものや。けどな、恵一くん。俺の圧倒的生と死の数々で『16歳を迎えられた恵一くん』を見るのは、今回が初めてなんや。大事なことやから、もう一度言う。俺の42億回の人生で『キミだけが唯一、16歳を迎えられている』んや。この全宇宙規模の特異性、わかってもらえるか?」


 僕は言葉を失った。身体が硬直し、そのくせ頭はぐわんっと揺れる衝撃を受けていた。僕の肩に手を置く文香はぐっと手に力を込めて身体を支えてくれた。むなしく空回る思考の末、なんとか言葉をひねり出す。しかし無残な形に留まった。


「ど、どういう……? え、恵は? 僕だけ? 恵はどうなって?」


「残念ながら、これは断言できる。恵ちゃんは『キミが望むような死の回避も、蘇生も』どうあってもできないと」


「……」


「恵一くん、教えてくれ。どうやって生き延びた? どうやって、嫉妬深いアザトースに対抗できた? あの事故の当日、一体何が起きたんや?」


「……」


「少し話を変えようか。元来、恵一くんはアザトースに狙われる立場ではなかったんや。キミはただの人間キャストやったから。本当のターゲットは、恵ちゃん。そう、キミは巻き込まれただけなんや。なぜか? 恵ちゃんの正体は、人としての『シュブ=ニグラス』やで。分御霊のマジモンであり、例えるなら神社に祭られた神を分霊して他社に祭るみたいな、本体と変わらぬ神力を持った宇宙的存在やった。うかつに力んでくしゃみでもしたら、銀河の10や20、まるっと消し飛ばせるレベルやで」


「じ、じゃあ、僕が三愚神扱いされるのは?」


「ナイア、お前の出番や。極東の三愚神については、俺が話すよりも当事者のお前が話したほうがいいやろ」


 犬先輩はナイア氏に話を振った。ナイア氏は頷き、まるで聞き分けのない子どもに言って聞かせるような優しい声で僕に語りかけた。


「それはねアリスちゃん。。二卵性とはいえ、それでも双子ってところかしらね? 遺伝子も普通の双子兄妹よりもずっと酷似していて変性は楽だったと思うわ。今のあなたは、肉体は元より遺伝子的にも恵ちゃん。その身体は、今のところ男性的な器官を残す染色体モザイクだけれど、その気になれば睾丸や精巣を子宮と卵巣を創り変えて子どもも産めるわよ」


「いやそんな、遺伝子改変どころか染色体の型の変更だなんて。染色体の男女区分は卵子が受精した瞬間に決まるのに。それだとまるで――」


「まるで、生まれ変わったかのよう? そうよアリスちゃん。まったくもって、その通りなの。三愚神として保証するわ。あなたは、言葉通り、生まれ変わっている。ぼくら外なる神には魂があるのは知ってるわよね? 日本人の生死感は、死後49日の間、霊魂は地上に留まるんでしたっけ。今から、まるで実際に見てきたかのようなことを言うけれど、それを聞く覚悟はあるかしら?」


「え、ええ。怖いけど、聞きたいです。お願いします」


「わかったわ。では……あの日、49日の法事を終えた次の日のことね。あなたは恵ちゃんになることを望んだわ。もしくは、それに近いことを願った。実はシュブ=ニグラスの恵ちゃんは日本の通念に従って地上に留まっていたの。人としての肉体が滅んだ程度で、外なる神の何がどうなるわけもなし。しかし、そろそろ再受肉のために本体にでも還ろうかと彼女が思った矢先、愛しい兄の切なる願いを知って、その内容に大いに喜び、全力で叶えてしまった」


「あ、あの。僕は恵の存在にちっとも気づかなかったのですけれど……」


「そりゃそうよ。だってアリスちゃんの守護神として常に背後にいたんだし。あなたのような可愛くて内気な男の子が、つつがなく学園生活を送れたのは恵ちゃんたる始まりの女神シュブ=ニグラスの守護によるもの。ちょっかいをかけてくるお莫迦な男子は死にはせずとも全員が呪われた。それはもう、おはようからおやすみまでしっかりとセキュリティ。よっぽど愛していたのね。それはもう、自分自身を見るが如くに」


「……恵」


「何も気づいていないアリスちゃんは、亡くした愛する妹を想うあまり、本来なら恵ちゃんが袖を通すはずの彼女の制服を着て、それでどうかして気持ちを静めていたんだっけ。むしろ自分が恵になろうだなんて。可愛い男の子が女装とか、ぼく得だわ。うふふふ。この記憶は保存しないとね。とっても大好物よ」


「おい、ナイア、調子に乗んな。恵一くんが困ってるやろ」


「だって可愛いんだもの。犬ちゃんもきっと同じことをするわよ?」


「いやまあ、ううむ。確かに可愛いは正義やな。すまんかった」


「でしょう? ああ、アリスちゃんごめんね。ほーんの少し、あなたの記憶を見させてもらっているだけだから。そもそも宇宙せかいが違うので、ここにいるぼくがその場にいるはずもないし。あの日あそこにいた外なる神は、人間を卒業した恵ちゃんの魂、つまり女神シュブ=ニグラスの分御霊だけよ」


 ナイア氏は手で口元を隠してクスクス笑って見せた。言動の一つ一つが、まるで粘っこく僕の身体をまさぐっている感覚を受けた。


 僕は思わず身震いした。彼(彼女)の視線におぞけが疾った。

 十三氏はハラハラとした表情で僕とナイア氏を交互に見ている。

 犬先輩はテーブルに肘をついて顎を乗せ――、

 恵一くんと恵ちゃんか……と、感慨深そうに目を細めて僕を眺めていた。

 文香は変わらず僕を手で支えてくれている。

 響は出された御茶請けを片っ端から口に運んではモグモグしていた。


「ときに、話を戻して。恵ちゃんの制服に袖を通したそのすぐ後、あなたは強烈に眠気を感じたわよね。記憶ではうとうとしただけと受け取っているみたいだけど。実はね、あのときこそ『守護神の恵ちゃんに殺された瞬間』だったりするの。魂なき空っぽのマトリョーシカ。つまりあなたの身体に恵ちゃんの魂が備われるように、構造を改変するために。そうして遺伝子レベルから恵ちゃんとして生まれ変わり、シュブ=ニグラスの分御霊は、あなたに宿った。真に、永遠に、共にあるようにと……」


「恵の席でうとうとした、あのときに僕は死んでいた……?」


「同時に、奇しくもアリスちゃんは人の身でありながら、もう一つ人格を作ろうとしていた。そう、『双子の同一性を謳ったもう一人の自分』ではなく『記憶の中から生み出した、もう一人の自分』としての恵ちゃん。はキミとシュブ=ニグラスとの融合の瞬間から火と息と霊の存在へと昇華し、結果、あなたでありながら本当の恵ちゃんになっていた。大事にしてあげてね。お兄ちゃんだもの、できるわよね?」


「じ、じゃあ、あの日。犬先輩がやってきて、寝ぼけて――本当は恵に殺されて蘇った直後になるんですか? 来客のチャイムに飛び起きてバタバタと応対した、あのときの犬先輩の第一声が『どっちだ?』と訊いてきたのは……」


「見た目の問題だけではないのは知っての通りよ。何せ、愛宕恵一のはずが中身は愛宕恵。つまりシュブ=ニグラスが、あなたの中にいる。むしろあなたが女神シュブ=ニグラスになっている。だからそう聞かざるを得なかった。そうよね、犬ちゃん?」


「……まあ、その場にいたら、俺もそう言うやろうなぁ」


 これまで部活などで異形と呼ばれるモノや異常な現象に遭遇しても僕の心は揺らがなかった。僕には文香と同じくらいの怪異への抵抗力があると思っていた。


 が、今回のこれはどうだ。


 ガリガリと精神強度が、明らかに削られていくのを感じる。僕が遺伝子レベルで恵? それはもう恵一ではなく僕が恵ということ。『』は二つで一つのつもりでこれまでやってきた。それが実は『』は、二つで一つだと。


 僕自身が、いつの間にか、添え物になっていた。


 そうして、恵たる、シュブ=ニグラス。その分御霊。内包する力は、その気になればくしゃみで銀河が消滅するという。どれほどの存在なのか想像もつかない。


「そ、そもそもシュブ=ニグラスとは、一体どのような神性でしょうか……」


「あらあら。恵ちゃんって意外と照れ屋さんなのかしら? 自分について、双子のお兄ちゃんに何も教えなかったのかな?」


「ナイアさん、教えてもらえます?」


「もちろん喜んで。迷える男の娘アリスちゃんの望むがままに」


 ナイア氏は妖しく舌なめずりして僕を見つめた。ああこれは肉食獣の、獲物を見つめる目だ。僕は思う。つくづく混沌の邪神に好かれる運命にあるらしい。

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