第42話 ボヘミアンラプソディ その2
『ママ、おしっこ』
邪神幼女は、空気なんて読まない。空気は吸うものであると。
「えぇ……。じゃあしてきなさい。トイレの場所は、わかるよね?」
『ママも一緒に来て。早く、早く。漏れちゃうのっ』
「えっ、あっ、ちょっと」
ぴょんと膝から飛び降りた響は、素早く僕の手を取って構わずトイレへと引っ張っていった。そして響はなぜか僕までトイレに押し込んできた。大変狭い。
「響ちゃん、おしっこは一人でしてほしいのだけど。狭いし、それに響ちゃんは女の子でしょう? 女の子はね、意識して恥じらいを持たないとダメなのよ?」
『ママ、約束して』
「うん?」
『わたしを捨てないで』
「僕が、響ちゃんを捨てる?」
『わたしはママと一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。ずーっと、ずーっと一緒にいたい。ママの言う犬先輩――キミヒラお兄ちゃんのことは大好きだけど、お兄ちゃんは今回の出来事で、きっと死の運命を打ち破ると思うの』
「ごめんね響ちゃん。もう少しだけ筋道だって話してくれると嬉しいかな」
『うん、ママ。あのね、キミヒラお兄ちゃんは人間年齢で28のときに、最古にしてもっとも新しい目覚めたわれらがアザトースに目通りもできず、死ぬの。それは、呪い。死の運命。われらが主はそのころ6歳の女の子になっている。これはとっても大事なことだから、もう少し詳しく、同じ内容を繰り返すね』
「かなり衝撃的なのだけど……」
『あのね、あのね。キミヒラお兄ちゃんは28歳のとき、われらが目覚めし主の福音を享受できず、さらには副王たるヨグ=ソトースから受けた呪いのために、橿原の病院で、葛城山と同じ規模と量の銀紗を全身から噴き出して、死ぬの。これは絶対的なもの。死の運命。でね、それは宇宙の巡回の内に42億回繰り返されている』
「42億回……? どこかで聞いたような。なんだったっけ。ああ、そうか。それも響ちゃんが言ったんだっけ。きさらぎ駅の一件で、囚われていた響ちゃんは助けられた犬先輩にこう言った。『繰り返される42億の夜と絶望を』それは、犬先輩の繰り返される生と死について語っていたのね? そっか、外なる神だものね」
『うん。そしてその呪いを解くためキーとなる存在は、人の子の目線からすれば途方もない42憶回の生と死のトライアンドエラーの末に、最重要点は『ママ』にあるとお兄ちゃんは突きとめたの。厳密には『ママ達』に、かなー』
「というと?」
『……おしっこ、していい? なんだか本当にしたくなってきちゃったの』
「えぇ……。まあトイレだし、僕は外に出てるから」
『にゃあ。服脱ぐからわたしを抱え上げて、しーしーって、させて欲しいなあ』
「もうお姉ちゃんなのだから、一人で座ってしなさいね?」
僕はトイレの前で響が用を足すのを待った。頭の中はぐるぐると凄まじい勢いで思考が巡っていた。得られた情報は濃密で、衝撃を伴うものばかりだった。
はたと、僕は不吉な解を弾き出してしまった。
今明らかになった情報がすべて真実として、響の、突飛なようであの子にとっては地続きの会話の流れを汲み取れば。
それだとすべての黒幕は、犬先輩になってしまうのではないか、と。
彼が僕の記憶を、得体の知れない魔術で封をかけた。なぜ? どうして?
僕は犬先輩を親友だと思っているし、頼りになる人生の先輩でもあり、愉快なクラスの同輩だとも思っている。
その培われた信頼は、僕を騙すための布石だとしたら。
「いや、そんなはずは。犬先輩に限って」
声に出してみる。か細く、恵そっくりの柔らかな女性声は、震えていた。
急に怖くなって自分自身に腕を回し、抱きしめた。
僕は、犬先輩を信じている。
信頼もしている。
そのはず――そのはず、なのに。
しかし彼は毎回命がけで自らの死を回避しようとしていたとすれば。42億回とは僕には想像だにしない生と死の繰り返しである。仮に犬先輩が超人的精神力を有していて、かつ、決して諦めず自らに背負わされた
こんな話を聞いたことがある。命に関わるサバイバル状況下において、人は他者を出し抜いてでも、生き延びる権利を有するのか、どうか。
この問題は、カルネデアスの板、と呼ばれている。
古代ギリシャの哲学者、カルネデアスが提起した倫理学的思考実験だった。
難破して海上を漂流する者が、一人しか捕まることのできない浮き板を見つけたが、すでに他者によって使われていた。ならば、その他者から奪ってでも生き延びるのは、是か非か。生きるとはそれ自体が生命として正しい。しかし自分が生き延びようとすると他者は死ぬ。他者を優先すると自分は死ぬ。さて、これの是非は。
「ケイ、落ち着いて。深呼吸をするの。短慮はダメ」
僕の中の恵が、僕の口を借りて喋った。
あっ、と思った。
僕は恵を演じて話すことはあっても、完全に自立した人格として、僕の中で培われた恵の人格と会話するような危険な行為は避けていた。
一つの肉体。その中で振り子のように揺れる僕達双子の意識。
コノハナサクヤでアルバイトする際に時折発露する愛想のよい恵とは、結局は僕の意識があの子ならきっとこうすると、想いが引っ張られて幻の如く発現したものに過ぎなかった。悲しいことにあれも僕なのだ。この世界に飛ばされた直後の、コノハナサクヤからの転進中の会話。二陣羽織みたいな自問自答も根本は同じであった。
それが、これは。
「大丈夫だから。彼を、犬先輩を信じてあげて」
また自然と口から言葉が漏れた。大丈夫、彼を信じろと。
強烈な言霊だった。
今僕を励まし、忠告する彼女は、実在した双子の恵との同一性を謳った『もう一人の自分』ではなく、僕の中で培った『もう一人の自分』としての恵に過ぎない。
それが、そのはずなのに。
僕は幻視した。いや、実際それが果たして幻なのか、何ひとつわからない。しかし僕はトイレの扉前で見ていた。
遥かな大地の恵を約束した広大な森、その地下奥深くを。
泡立ち爛れた雲のような肉塊。のたうつ黒い触手。黒い蹄を持つ短い足。粘液を滴らす巨大な口。その頂上で全裸の恵が下半身を異形にうずめている。
「わたしはあなた、あなたはわたし」
ずるり、びちゃりと生物的で粘性の強い独特の音を立てて恵は爛れた雲から降り立った。全裸のまま、粘液を足に滴らせつつ、裸足のままひたひたとこちらへ向かってくる。ああ、失われた片翼が、親しみの笑顔を浮かべて、こちらに。
彼女は僕のすぐ手前で立ち止まった。いつの間にか僕と同じメイド服を着こんでいた。鏡を見るようにそっくりな僕達。彼女は悪戯っぽくウインクしてみせた。
フリルのボンネット、清楚なブラウスに、チュールをふんだんに使った清楚で愛らしい長袖ロングのメイド服。奥ゆかしげに膨らむ胸には、細やかな刺繍の入ったエプロンが。ミドルティーンらしい未発達なその少女の肢体を、衣装が綺麗に包んでいる。その光景に、僕は、全身が高鳴るのを感じた。
そうか、自分は他者からはこのように。
感心するには余りある、気恥ずかしいこの気持ち。それはナルシズムの感覚だった。僕とこの恵は、完全に同一なのだから。
恵は僕の首に両腕を通してきた。体と体が密着する。彼女の体温、覚えている。意外と高めなのだ。懐かしい彼女の体臭まで感じた。ああ、ずっと嗅いでいたい。それにしても、顔が近い。僕は気恥ずかしさに負けて目をそらした。
「ダメ。ケイ、わたしを見て。あなたはわたしなんだからちっとも恥ずかしくないよ。ね? ほら、わたしをもっとよく見て」
「頭ではわかっているんだけど、やっぱり、ちょっと、照れくさいよ」
「じゃあ、そうね。恥ずかしさに慣れるためにも入れ替わっちゃう? それでわたしに後の行動をお任せしちゃう? 契約のキス、交わしちゃう?」
「悪くない提案だと、その、僕は思うよ」
これは兄妹の倫理に関わる問題で今まで書き込まなかったのだが、僕と生前の恵が『兄妹としてその立場を入れ替える』際、必ず唇を交わして互いの唾液を飲み合っていた。ついばむどころではない。舌と舌を絡め合う、いわゆるディープキス。
僕が恵となり、恵が僕となる。自分自身と、深くキスを交わす。ただし性的なものではない。それは自分達の同一性を謳う、双子独自の契約の儀式だった。
しかし第三者から見れば近親相姦の一歩手前であり、いや、半歩手前かもしれない非常に危うい行為でもあった。
とはいえそれは『生前の恵と儀式をすれば』という前提があってのものだ。
繰り返して言うに、この凄まじい神性を内包する彼女は、双子の恵との同一性を謳った『もう一人の自分』ではない。
僕の中で培った『もう一人の自分としての恵』だった。
「だけど――」
だからこそ、毅然と断らねば。この、もう一人の僕は厚意で提案してくれているのだろう。同時に、この『彼女』こそ、邪神幼女の響が見通した『重なり合う二重螺旋』の片割れであり、真の意味での『女王様』にあたるはずだった。
「だけど大丈夫。入れ替わらなくてもやっていける。犬先輩を信じるためにも、お昼には会う予定なので、そのときにまずは詳しく話を聞いてみるよ」
「うん、そっか」
「心配してくれてありがとう、恵。大好きだよ」
「うんっ。わたしもケイのこと大好きっ!」
唇から漏れる吐息が当たるほどの近さで、兄妹は語り合う。恵は微笑んで、ふっと消えた。あまりの素直さで、僕はほんの少しだけ、罪悪感を覚えた。
トイレから響が出てきた。主観ではずいぶん時間が経ったように思われたが、客観的には一分と経っていなかった。
小首を傾げ、銀髪の幼女はこちらを見上げた。響に話の続きをさせるつもりはもうなかった。どうやらかの混沌の神をして、僕と恵の内々の会話を知ることはできないらしかった。僕は、愛らしい幼女姿の邪神に柔らかく微笑みを返した。
そうして一人と一柱は仲良く手を繋いで、リビングで待つ文香の元へ戻った。
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