第41話 ボヘミアンラプソディ その1

「……えっと、それで昨日は突然現れた僕に店は騒然となって、現場にいた矢矧さん自身も色々あってずっと僕が気になっていたと」


「はい。嘘でも誇張でもなく、本当に色々とありました」


 リビングに招かれた文香は一人がけのソファーに座り、その向かい側の三人がけソファーに座る僕と対面していた。


 彼女は出された麦茶をぐっと飲んだ。一気飲みだった。わが家へ突貫を決め込もうとしていたのに、今更になって緊張しているような気配が窺われた。


 そういえば元世界での僕と彼女の事実上の馴れ初めも、僕を屋上で盗み見ることから始まってメールをこちらに寄越し、呼び出してきたわりにいざ会いに行くと緊張を彼女は募らせていた。勢いはあるけど後に続かない。竜頭蛇尾。羊頭狗肉。アントライオン。微妙にヘタレで可愛い。それが僕の知る文香だった。


 ただ、わかってはいても物悲しいことに、彼女の口ぶりは本当に他人行儀なのだった。そりゃあそうだろう。この世界の僕と文香は同じ学校に通う同学年にして恋人同士でもなく、そもそも知り合いですらないのだから。


 そんな彼女が、わざわざ朝早くから僕に会いに来る。チャイムを連打し家に突貫しようとしてまで。これはよっぽどである。


 父は二人のメイド服の男女に辟易した顔で、黙ってキッチンのチェアーに移動してくれていた。邪神幼女の響と二匹の猫達は、当然のように僕の傍に侍っていた。スカートの中を狙う黒猫姉妹に、僕は膝を手をやる形でそっとガードした。


「で、今日もコノハナサクヤでアルバイトがあったのに、犬先輩からメールを受けてからというもの、店長に無理を頼んで着替えもせずにこっちへ来たのですか」


「はい。犬先輩とは入学式の次の日に起きたとある出来事からの縁で、何かと相談に乗ってくれる友人――と言うよりは、二つ名の通り立ち位置は先輩となるでしょうか。ともかく良くしてもらっています」


「その出来事とは、表向きは『ミスカトニック高等学校ガス漏洩事件』で、実は犬先輩が編入の挨拶時にうっかり壇上で口にした『魔導書暗唱事件』ですね?」


「まさに。あの日、一年生で無事だったのはわたしだけだったので、彼が関心を持ちまして。それが縁で色々と便宜を図って貰ったり、なんだかよく分からないヘンテコに巻き込まれたり、神戸の伯母と知り合いとかでこっちが面倒事に巻き込んだり」


「神戸の伯母というと、能代弓枝さん、でしたっけ」


「えっ。知ってる……の?」


「まあ、ええ。例えるなら三島由紀夫の潮騒みたいなものでしたね」


「……?」


 その火を飛び越して来い、ってね。元世界の文香は僕に覚悟を期待した。


「ときに魔導書事件の最中、犬先輩とのカップリングの男の子はどなたになりました? どちらが攻めか受けかまでは聞きませんけれど」


「えっ。そ、それは、その。なぜそれを。えっ、えっと。その、えぇ……」


「あ、ごめんなさい。意地悪で言ったのではなく純粋に知りたくて。矢矧さんには素晴らしい特性があって、あなたの趣味嗜好に沿った内容で『集中しているとき』や『関心がそちらに向いているとき』は『一切の精神的被害を無効化する』と知っているためなんです。スキル名は『それはそれ、これはこれ』でしたっけ」


「あうう……」


 文香は顔をこれ以上なく紅潮させて下を向いた。やっぱり可愛いなぁと思った。


 そんな僕を見て何かを感じたのだろう。いや、そもそもこの子は神としての視座で人の思考が読めるのだったか。隣で侍る響が少し不満げに口を尖らせて、まるで自己顕示するかのようにこちらの膝に上半身を被せてきた。


「昨日、文字通り突如店に現れたあなたは、わたしにキスをして、さらにある言葉を残して逃走してしまいました」


『ええーっ、ママってば、あいつとキスしたの?』


「……ママ?」


「ああ、いえ、こちらにも色々と深い事情がありまして。お気になさらず」


 膝上の響が上半身を持ち上げて声を張り上げるのだった。昨晩の寝言で僕を母親呼ばわいしていたのが、まさかの現在も継続中である。男なのにママとは如何ともし難い。もっとも、男で女王様呼ばわいもたいがいだと思うけれども。


 僕は甘える子猫みたいな邪神幼女の、輝くような銀髪の頭を撫でてやった。


 彼女はくるりと身体を反転させて膝枕の態勢を取り、足をパタパタさせながら撫でる手を取って人差し指を口に含んだ。甘噛みしながらじっとこちらだけを見つめている。僕はされるがままに、それでいて口に含まれない指でぷにぷにのほっぺを添わせつつ優しく諭すように、響ちゃんちょっとだけ静かにお願いねと囁いた。


「あ、あの。愛宕くんは、男の人、ですよね?」


「ええ。僕は男です」


「こんなことを聞くのは失礼とわかっても、なお重ねて尋ねたいです。それは、本当ですか? 優しい母親みたいで、もちろん声も女性。その姿は間違いなく女の子。その、と、とても可愛いし。わたしの女としての矜持が粉砕されるというか」


「そんなに簡単に粉砕しないで。矢矧さんはとっても素敵な女の子ですよ」


「あ、ありがとうございます。それでその、昨日出会ってからずっと気になっていて。あなたのことが頭から離れなくて。あと、そう、ゆ、指輪とか!」


「指輪」


「愛宕くんが左の薬指につけている、銀の指輪、です」


「ええ、はい」


 僕は自らの左手に視線を落とした。


 彼女の言う通り僕の左手の薬指には、以前、橿原にあるショッピングモールに遊びに行った際に買い求めた、あの銀の指輪が嵌められていた。


 それは女性であっても若干細めの七号サイズだった。指輪は二つで一つのデザインで、重ねるとハートマークが浮き上がる気恥ずかしいギミックが施されていた。あの日、僕は買い求めたその片割れを、元世界の文香にプレゼントしたのだった。


「実は、わたしも、しています」


 文香は左手をこちらに差し向けた。見れば彼女の薬指には銀の指輪が嵌っているではないか。それは僕が文香にプレゼントした片割れとまったく同じものだった。


 一瞬、僕は動揺して心臓が変に脈打つ感覚を受けた。


 螺旋のように巡り来る世界、巡回宇宙。見捨てられた可能性世界ではなく、アザトースの観測世界もまたぐるぐると巡っているのだった。


 元世界との差異を埋めるが如く文香の指に嵌められた銀の指輪。


 合わせ鏡のようにも延々と連なる世界群は、まるで磁石の極を交互に並べでもしたように相互に干渉しあっているのだろうか? 宇宙レベルのマクロ思考や因果律の法則、宇宙科学理論の知識などがあれば多少の答えは導き出せそうだが、しかしその直観的な推察もあながち間違っていないような気がした。


 僕は、動揺から素早く復帰して何事もなかったように冷静に口を開く。


「確かに僕の指輪と同一のようです。でもこれ、ニコイチなんですよね。……どなたか、親しい方からの贈り物でしょうか?」


「こ、恋人などは……」


「っと、すみません。あまりプライバシーには踏み込まないほうがいいですよね。ただ、この指輪に限ってはどうしてもそういう考えになってしまいます」


「橿原のモールへ一人で買い物に行ったときに見かけました。それで、この指輪。買わなきゃと強く駆られたんです。わたしは一人身なのに」


「そうなんですか……」


 浅ましいかもしれないが、僕はそっと胸を撫で降ろしていた。この世界の文香には僕以外の誰か想い人がいるわけではないらしい。正直、安堵感と言えば計り知れなかった。危うくひずみのような嫉妬心が生まれそうになっていた。


 それもそのはず、僕は文香から独特の性癖によるいささか過剰なボディーコミュニケーションを受けているとはいえ、逆に言えば僕自身も彼女に存分にボディコミュニケートしているというわけで。好きな人と、ちょっとえっちな感じに一次接触している。それはとても好ましく、要するに僕は文香にぞっこんなのだった。


 あえてひと言でいうなら、バカップル。恋愛とは一種の狂気である。


 ああ、文香と触れ合いつつ口づけを交わしたい。文香に優しく体を弄ばれたい。彼女が攻めうえで、僕は受けした。そして指輪のように二人で一つになりたい。


「……くっつけてみましょうか」


「えっ」


「これらを合わせるとハートマークが浮かび上がるのは知ってますよね。それから僕の話を聞いてもらえませんか。聞く間、犬先輩と僕があなたの嗜好に沿った意味で『仲良くしている』場面でも思い浮かべてください。そうです。『それはそれ、これはこれ』です。話す内容は、それくらいの衝撃はあるはずなので」


「わたしの男の子への腐女子な妄想、あなたは嫌じゃないの?」


「別に、もう慣れました。この僕の格好からもお察しください。これは、あなた (の同一存在)が望んだ姿でもあるんですよ。王様ゲームの勝利者としてね」


「えぇ……」


 僕は左手の薬指から銀の指輪を抜き取った。文香も同じようにした。


 二つを合わせてみる。


 かちっと収まるように、それらは結合した。


 そうしてただのデザイン線から浮かび上がるハートマーク。これがこの指輪に仕込まれたギミックだった。本来はサイズ違いでも合わさるように工夫がなされているらしいのだが、僕と文香の薬指サイズは、同じ七号だった。


 もちろん予想はしていたのだろう。しかし文香は口を押えて驚いていた。僕は小さく頷いて、膝の上で少々ご機嫌斜めの響をあやすように頬を撫でた。


「準備は、出来ましたか?」


「えっ、あ、はい。まさかこの場で妄想を勧められるとは思ってもいなくて」


「使えるスキルは有効に使っちゃいましょう」


 頃合いを見て僕は語りだした。まず、自分はこの世界の存在ではなく、宇宙を跨いだいわゆる異世界人であるところから。


 突飛な話の切り口ではあれど、事実なのだから仕方がない。さらには連れてこられた際の見解を詳しく述べて、混沌の邪神ナイアルラトホテップの名を提示する。そしてかの神の目的は未だ分かっていないと言葉を添える。


 この世界における同一存在の愛宕恵一と双子の妹、愛宕恵はすでに亡くなっている。だが僕も愛宕恵一であり、同時に愛宕恵でもあった。なのでこの世界の父に頼み、この家に一時的に居させてもらっている。


 僕は一人にして、双子の兄妹。恵一にして恵。この存在性は説明なしには文香を混乱させてしまうので、特に詳しく、至った経緯を語って聞かせる。


「ただ、僕にはどうしてもわからないんです」


「というと?」


「この世界での恵一と恵は、二人で揃って買い物に出かけて事故に遭い、亡くなりました。しかし僕の世界では恵だけが出かけて事故に遭い、亡くなっています。買い物は荷物の量からも、そして何事も協力し合ってきた自分達としては当然、一緒に出かけていなければおかしいんです。なのに、僕は行かず、恵は一人で」


「たまたまそうなったとか、そういう単純な問題ではないと?」


「です。なぜならその事故当日全般、特に『恵が事故に遭うまで』のピンポイントな記憶が、まるで曇らされたように、あやふやなんです」


「……」


「それ以外の記憶は、ビデオ録画でもしたように覚えているのに。これに気づいたのはこの世界に飛ばされて、自分達兄妹が亡くなっている現実に触れてからで、それまでは何の疑問にも感じていませんでした」


 文香は、ふむ、と右手を自らの頬に当てた。


 手はするすると形のいい唇を撫で、顎を撫で、また右頬に戻す。これは彼女が集中して思考を巡らせる際に見せる手癖だった。


「犬先輩は、微分子工学だけでなく陰秘学の博士課程も修めていますよね」


「そうですね。いわゆるオカルト学という、多岐にわたる考古学の一つ。時代の風俗とそれにかかわる魔術、世界の真理への探究が目的だったと聞いています」


「犬先輩からの又聞きで、しかも専門ではないのでイマイチ正確性に欠けると思いますが、愛宕くん、わたしの考えを聞いてみますか?」


「是非、お願いします」


「陰秘学を受講する学生はすべからく強力な魔術師なのだそうです。なぜなら魔道を究明し、それを行使できる人だけがその学科を受けられるから。そんな中、犬先輩は飛び抜けて優秀で、魔術師界では人では到底たどり着けない領域へ至った者として、彼は『イプシシマス』の称号を授けられたと聞いています」


「最強万能魔術師の二つ名は自称ではなかったのですね……」


「ええ、そうなんです。彼はどこから持ち寄ったのか『けものがうなる』とあだ名される底抜けに邪悪で強力な魔導書を持っています。その中には人が知るべきではない冒涜的な真理と、多数の魔術が書き込まれているとのことで」


「アラビアの狂える詩人アヴドッラー・アル=ハズラッドの『キタフ・アル・アジフ』ですね。訳本、写本、草稿、数ある中で犬先輩が持つのは際立って胡散臭い、真作の贋作と呼ばれる、古代アラビア文字で書かれたある意味での原書だとか」


「その辺りは愛宕くんのほうが詳しそうですね。前振りが長くなって申しわけありませんが、その中に書き込まれた魔術の内にこんなものが記されているんです」


「と言うと?」


「記憶を、曇らせる」


「……はい?」


「記憶を、曇らせる、です。この魔術はその名の通り行使後に対象と精神対抗し、対象に打ち勝てばその記憶を任意であやふやにすることが出来るとか」


「その魔術を、僕が受けているかもしれないと?」


『うん、ママは受けてるよ。故意に出来事を忘れさせられているの』


「響ちゃん?」


 べっとりと密着する響に、僕と文香は注目した。


 幼き姿の彼女は半身を上げて僕の鎖骨辺りに顔をうずめ、体臭を嗅ぎ取ってはそれを堪能するように顔をこすりつけていた。まるで甘える猫のようだがさにあらず、彼女の正体は、外なる神の一顕現体、混沌の邪神なのだった。


 僕と文香は、響の言葉を待った。ごくり、と生つばを飲み込んだ。


 しかし――、

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る