第40話 父と息子。ママになった男の娘。その4

 時刻は17時を少し回っていた。


 巡回する宇宙を跨いでからというもの、ただ移動しただけのようで――、


一、珈琲館コノハナサクヤからの一時的転進。文香が怖かった。

二、薔薇の温室にて響との邂逅。お漏らし邪神幼女を風呂に入れてやる。

三、やさぐれた父との再会。理由を知って思わず泣いちゃった。

四、電話を通してこの世界の犬先輩と連絡を取り合う。また泣いた。

五、そして業者による自宅の清掃への応対。メイドが参ります。


 なんだかんだとするうちに、夕刻になっていた。


 夏場なので外はまだ昼間とさして変わらず、おまけに勘違いしてしまいそうだが実際のところここは異世界であり、僕は単独での探索者なのだった。


 行動はすべからく慎重であるべきなのは言うまでもなく、拙速ではなく熟考に重きを置き、絶対に無理はしないよう改めて胸に決めた。


 まあ、女性化が進んだといってもAカップ程度の胸での決心は今は横に置いておこうと思う。もっと下、腹が無性に空腹を訴えてくるのだった。でもまだ夕食には早いよねと逡巡していると、考えを後押しするように響の腹がくうと鳴いた。


「じゃあ、夕飯を作ろっかな。献立は何にしよう?」


 僕は綺麗に清掃された台所へ向かう。が、果たして冷蔵庫は見事に空っぽだった。そうか、キミも空腹か。思わずハードボイルド調に冷蔵庫に語りかける。


「もう、お父さん、一体どうやってこれまで生きて来れたの?」


「えっ、まあ、主にコンビニとか……」


 息子に申しわけなさそうにする父の図。ただし息子は男の娘メイド姿です。


 この構図、本当にありがとうございました。空の冷蔵庫を前に僕は半分やけっぱちでカーテシーなど決めて見せる。


「これは本格的に食料品を買い出しに行ってくるしかないようね……」


「いや、ケイ。それはやめてくれ」


「どうして?」


「お前が出かけたらそのままいなくなりそうで、その、怖いんだ」


「それなら一緒に来ればいいんじゃないかな。荷物持ちさんも必要になるし」


「お、おう」


『女王様、わたしウナギが食べたい。土用の日は過ぎちゃったけど』


「あー。今年の土用の日は7月28日だっけ。でもそのアイデアいいね。お父さん、土曜の日は過ぎちゃってるけど、ウナギとかどう? 精がつくよ」


「なら出前を取るか。国道168号線を柏原方面へ少しばかり行ったところにゴルゴっぽいコワモテ大将のいるウナギ飯屋があるだろ。そこの特上うな重を」


「わあ、嬉しいなぁ。さっそく電話するね」


 そういえば、とスマートフォンを耳に僕は思い出した。


 この世界の響ではなく、元いた世界の響改めヴェールヌィが引き起こした『放課後の殺人鬼』事件で、捜査の進展に行き詰った僕と犬先輩はモチベーションへのカンフル剤代わりに事件の推理勝負をしたのだった。あの勝敗は一応僕に軍配が上がったが、あるいはもし、彼が勝利していれば。


「いいかケイ、ウナギを喰うだろ? そうしたらこう言うんだ。『スゲェ! このウナギ、アナゴみたい!』ってな。わははっ」


 ここにも似たような発想する人が約一名。呆れてものが言えない。


 しかし冗談を言える程度の元気を取り戻してきたようなので、これはこれで良しとする。子としては親が低調なのは不安でしかないものだ。


 せっかくなので僕は父に無精髭を剃って顔を洗うよう提案してみた。父は、おっ、そうだな、と洗面台に向かい、鼻歌と電気シェーバーの音とざばざばと水を出す音を立て、小ざっぱりして戻ってきた。


 その後、出前が来るまで特にすることもないので、二人と一柱と二匹の黒猫はそろってリビングでテレビを見た。ふと、僕は部屋の隣の和室に目をやった。その部屋には元いた世界と同じく仏壇が設置されていた。壇上には在りし日の母の写真と双子の妹の恵の写真、そして僕の写真が並べられていた。


 何度目だろう。僕はこの世界では死んでいるのだと認識させられるのは。


 しかし思う。


 何がこの世界と、元いた世界の、自分の生死を分けたのか。


 いや、僕が生きていられるのは、恵が一人で買い物に出かけ、自分は出かけなかったためなのはすでに知っての通りだった。が、この世界では違う。


 この世界の僕は恵と買い物に出かけ、そして二人して交通事故で死亡した。


 逆を言えば、どういう経緯で『この僕』は恵と出かけるのを拒んだのか。


 そこが、気になる。


 眉間に指を当て、思い返そうと努力する。


 あの日、確かに恵は食料品の買い出しに出かけたはずなのだ。それが証拠に、この世界の自分達は買い物途中で交通事故に遭い、亡くなっていた。


 そもそも買い物は兄妹揃って出かけるのが日常だった。二人いないと荷物が大変だというのもある。が、僕ら双子兄妹の繋がりはそういった合理的理由ではなく、母を亡くした幼少のころから生活を協力し合い、喧嘩しながらも結局は二人で一つの翼――少々意味合いが違うが比翼連理のようにやってきたのが大きかった。


 もちろん細かいところでは、いくら同一性を高めた双子であっても差異は出る。


 代表的なものを上げるなら恵の音楽趣味があげられるだろう。『D'ARK+ダルク・プログレス』というビジュアル系インディーズバンド。


 五人の女性メンバーは全員男装で、それは男の僕から見ても格好よく、併せて演奏力も歌唱力も上々、いずれはメジャーデビューするだろう新進のアーティストだった。これまで幾度も記したように、恵はこのバンドの大ファンだった。


 その熱意は理解するし、同時に買いもする。目的のために一生懸命な恵を僕は決して悪く受け取らない。たとえそれが僕への女装の強要であっても。


 しかし、女装がどうかなどはともかくとして、あの日の僕と恵には何があったのか。それがまったく思い出せない。喧嘩でもしたのか。僕ら兄妹はしょっちゅう喧嘩しては、すぐに仲直りしていた。少し激し目のコミュニケーションと思っていただきたい。まして生活に関わる部分ではその手の感情を一切干渉させなかった。


 何かがあったのはわかる。ただ記憶を曇らされたようにあやふやなのだ。かろうじて思い出せるのは、不安、だった。


 頼んでいたうな重の出前がやってきた。


 応対に出たメイド服姿の僕に、出前のお兄さんは少し驚いておまけに顔を赤らめた。響はうっなぎうっなぎと無邪気に飛び跳ねて喜んでいた。


 リビングのテーブルに特上のうな重を三つ並べ、肝吸いを椀に注ぎ、お茶を用意して喫食に移るとする。先に猫用缶詰で満腹にさせたはずの黒猫姉妹がその香ばしい匂いに誘われて僕の膝上に乗り、おこぼれを狙ってきた。猫の小さな身体に味の濃いものを与えるのは良くないと聞くが、ほんの少しだけおすそ分けしてやる。


 二人と一柱と猫二匹は、美味しく特上のうな重をたいらげた。器は軽く水洗いして、店が用意した保管用の箱に収めて玄関先に置いておく。やがて皆して何をするでなくソファーに身を預けてテレビを見た。


 父は僕の右隣で足を崩して座っている。落ち着いた雰囲気だった。響は左隣で僕に甘えて密着し、二匹の猫姉妹は隙あらばスカートの中に潜り込もうと狙っている。恵もかつてはこの黒猫達の奇癖に苦労していたなぁと思い出す。


 時間だけが静かに過ぎて行く。


 夜も更けてきたので、父の提案でリビング横の仏壇のある和室に布団を三つ敷いた。父はどうにも僕から目を離したくないらしかった。気持ちはわからないでもないが、あまり良くない兆候だった。


 それはともかく、響が切に求めるので再び一緒にお風呂に入り、泡姫よろしく一人と一柱は体を使って互いを洗い合い、シャワーで汗を流し取った。


 この世界でも恵の部屋には僕のためのナイトブラとユニセックスショーツを用意してくれていたのでそれらを装着し、そうしていつものように恵のパジャマを借りることにする。父はそこまで徹底するのかと心配そうにしていたが、もはや僕にとってこれは欠かせない大切な習慣なのだった。


 自分が家にいる間は、せめて、恵が生きていることにする。


 僕は丁寧に自分の心境について説得と言いくるめをかけて父を納得させ、やがて家人全員で寝床についた。


 寝床は川の字になっていた。右が父で、真ん中が僕、その頭元には黒猫のケイトとラゴが寝そべり、左は混沌の邪神たる幼い響が大の字になっていた。


 響は恵が幼少期に使っていたピンクのパジャマを着ていた。ディフォルメされた白山羊と黒山羊が手紙を口に仲良く飛び跳ねる図柄が特徴的だった。


 エアコンで整えられた部屋の中、軽くて薄い夏蒲団を腹にかけ、二人と一柱と猫二匹は横になっている。ふと、もそりもそりと左で蠢く気配がした。


 響が僕の布団まで這い寄ってひしと抱き着いた。


 この混沌の邪神顕現体は本当に甘えん坊である。僕は響の肩から腰に腕を回し、彼女が寝やすいように体勢を整えてやった。


「ケイ」


 明かりを落とした薄闇の中、父は僕を呼んだ。


「どうしたの、お父さん」


 僕は目を薄く開けて、あえてゆったりと返事をする。


「ここに、ずっといてくれないか」


 ああ、と僕は思った。そろそろそんな提案がなされるだろうと予想はしていた。


「お前がこの世界の存在でなくてもいい。お前にはここにいて欲しい」


 僕は何も答えない。


「亡くなってしまった家族に再び会える。どうあっても起こりえない、まごうことなき奇跡。しかし、お前は確かにここにいる」


 僕は何も――否、僕は口を開いた。


「お父さん」


「うん?」


「仮に僕がこの世界に残ったとして、元いた世界のお父さんはどうなるの?」


「……」


 父は黙った。僕は胸の内で自分を叱責した。その質問は、ズルすぎると。


 それでも、この世界の父の想いを満たしたとして、元いた世界の父はどうなるのか問いたい。それはとても簡単な未来予想だった。


 元世界の父は、すぐにダメになるだろう。


 この世界の父と同じように、荒れて、呑んだくれて、すべてを投げ出して、セルフネグレクトになるのは目に見えている。


「僕は元の世界に帰らなくちゃいけないんです」


「……」


「だけど、お父さん」


「……ああ」


「この世界の、いわゆる宇宙の座標がわかれば、たまに会いに行くのは可能だと思います。原因となる存在にコラッと叱って、その彼に送迎させれば、ね」


「できるのか? それもすでに奇跡の類だと思うのだが。宇宙が一巡する、だったか。絶対的な世界の壁を跨いで俺に会いに来る、と言ったのと同じだぞ」


「僕がここに飛ばされてきた以上は可能でしょう。上手くすればそうするように命令もできるはず。あまり口にすべきではないのですが、僕の中にいる親しみの深い名伏し難き存在は、ここで眠る混沌の邪神ちゃんよりずっと格が上らしいのです」


『ママぁ……』


「ふふっ、この子、寝言で男の僕にママ、ですって。うわ、どうしよう。この子の太陽とミルクが混じったような体臭を嗅ぐと、むくむくと保護欲がもたげてくる」


「なんだか気が変になりそうだ……」


「あはは。それ、正常な感想だと思いますよ。だってお父さんはまともな人間だもの。そんなお父さんに、僕は、心から安心できます」


「お、おう」


「だからこの話はもうおしまい。明日、犬先輩と相談して対策を考えます。色々と出かけるはずです。もし帰還の算段がついても必ずお父さんに挨拶に行きますので。もしかしたらもう一泊させてとお願いするかもしれませんけれど」


「もう一泊どころか、いつまでもいてくれていいんだ」


「お父さん」


「うん?」


「僕は、自分の親が、お父さんで本当に良かった」


「……ケイ」


 父は黙った。僕はあえて気づかないふりをする。父は、泣いていた。


 夜も更け、やがては朝が来る。明けない夜はないと誰かは語るが、人によっては明けない夜もままあるもので、しかし僕ら家族にはちゃんと朝が巡っていた。


 二人と一柱はそろって歯を磨き、服を着替えた。冷蔵庫が例によって空っぽなので、皆で歩いて近所のコンビニへ朝食を買いに行った。


 メイド服の男の娘と銀髪碧眼の稀なる美少女、昨日に比べればずいぶんマシになったとはいえ未だやつれた顔の父である。当然ながら非常に人の目を引いた。むしろ人から見れば父は不審者にもとられかねないが、これは黙っておく。


 パンと飲み物とサラダ、その他お菓子などを購入して自宅へ戻り、これを頂く。響が食べっこしたいと言うのでそのようにしてやる。一見すれば微笑ましい光景だが忘れてはならない。この子の正体は混沌の邪神、憑依顕現体の響である。


 ピンポーン、と来客のチャイムが鳴った。


 僕と父は顔を見合わせた。


 時刻はまだNHKの朝の連続ドラマを見終えた8時15分だった。ピンポーン、ピンポーン。二度連打された。


 仮に公的機関からの用向きであったとしてもこの時間にやってくることはちょっと考えにくい。お役所仕事など、あれは基本的に朝の9時から動くものだった。父に尋ねてみても心当たりはないと言う。となれば、僕なのか。犬先輩は朝一に帰って昼過ぎに会おうと約束していたけれども。


 逡巡している間もチャイムは連打を続けている。どうしたものか。


 ピンポーンピンポーン、ピンポーン。


 かなりしつこい。


 ピンポーン、ピンポーン……。


 ピィィィンンンッッポォオオオオオオオオオオンッッ!!!!!


 チャイムが爆発した。否、二人と一柱と二匹が思わず飛び上がるほどの気迫を感じ取ったのだ。可哀そうに、黒猫姉妹の毛並みが総毛立っていた。


 ガチャガチャと門扉を開く音がする。強硬策に出たらしい。玄関に鍵はかけていない。次いでバンッと扉が開け放たれる音が続く。僕は玄関口に急いだ。


 果たしてそこには――。


「文、じゃなかった。矢矧、さん?」


「えっと。お、おはようございますくん」


「あ、はい。おはようございます」


 珈琲館コノハナサクヤのユニフォーム、クラシカルメイド服姿の文香が、猫科の大型肉食獣の気配をまといつつも顔を紅潮させて、そこに立っていた。

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