第38話 父と息子。ママになった男の娘。その2

 先ほどからやれ異変だのやれおかしいだのと繰り返しているが、自宅を前にして僕は言葉を失ってしまったのだった。いや、本当に、これはどうしたものなのか。


 なぜなら、あり得ないほど、自宅は荒んでいたから。


 ここは葛城市北部、近鉄南大阪線二上神社口より歩いてすぐの、一戸建て住宅地群。すぐ南にはミスカトニック大学の校舎が臨める位置に、わが家はあった。


 ゴミだらけだった。比喩でもなんでもない、文字通りの。


 庭先にもゴミが詰まったゴミ袋が。花壇は雑草が生え噴きに、好き勝手に背を伸ばしていた。物干し竿にはいつから干して放置しているのか、黄ばんだシーツがかけられたままになっている。玄関もゴミ、得体の知れない粗大ゴミ。


「な、なな……。なんなの、これぇ……?」


 ようやく声を絞りだした僕は、財布からカードキーを取り出して、扉を開けた。すると内玄関の棚に放置されていたらしい郵便物がどさっと床に落ちた。役所からの督促状? ゴミ処理の? 苦情? 僕はざっと目を通す。


 ともかく僕と響は中に入った。むっと、食べ物やその他色々が混じった異様なにおいが熱気となってこちらの帰りを出迎えた。


「足元、気をつけてね。ああ、ちょっと待って。この辺りだけでもどうにか」


 僕は目についたゴミ袋を、玄関から洗面所の中まで、片っ端から外に放り出した。途中で見つけたスリッパを履き、響にも履かせてやる。


「何はともあれシャワーを浴びましょう。さすがに風呂場までゴミ袋はなくてよかった。響ちゃん、一人で脱げる? そう、大丈夫ね。じゃあ僕も脱ぐから」


 衣服籠を取り出し、そこにユニフォームのメイド服、エプロン、ボンネット、ニーソックス、そしてビスチェ型コルセットを脱いでひと息ついた。


 ダブルの緩いおさげにしたロングヘアーウィッグはナノマテリアル製で、髪の毛に完全に擬態しているためにここでは取り外すことはできない。解除には特殊な電磁波を発する専用の機具が必要になる。


 前正面に小さなリボンのついたガールズショーツ姿となった僕は、ウィッグに手櫛を入れて纏め直し、ヘアクリップでアップにした。


 すでに全裸になっている響から、セーラーワンピースと白い女児用レース入りキャミソール、手塚治虫氏タッチのフェニックスアニメプリントの入ったお子様パンツを受け取る。機械洗いが可能か一応確認し、ドラム洗濯機の中の汚れ物をすべて外にぶちまけて彼女の衣服と下着だけ洗濯槽に入れ、洗剤と柔軟剤を投入しスイッチオン。


 ここで再度ひと息ついて、僕はするすると下着を脱ぎ払い、メイド服の入った籠にそれを入れて全裸になった。


『女王様、とても綺麗な体なのに、おちんちんがついてる』


「そりゃあ僕は男だからね。でも同時に恵でもあるの。わかるでしょう?」


『は、はい。わかります。奇跡のバランスで、二重螺旋が見えるから』


「なら、よろしい」


 よろしいと言っている僕が、実はさっぱり意味が分かっていないのだが。


 事実は横に置いて、最強の邪神のはずが僕に恐怖を覚えて失禁し、下半身を汚した響を風呂椅子に座らせる。そしてぬるま湯のシャワーを全身にかけてやる。

 石鹸を泡立て、汚れた体を丁寧にタオルで洗い流す。彼女は、されるがままだった。しかし気持ちは良いらしくうっとりと目を閉じていた。


『女王様、今度はわたしが』


 響の小さくて愛らしい身体を洗い終えると、今度は響が僕の背中を流したいと申し出てきた。せっかくなのでそうして貰おうと思った。お互いに裸を見たり見られた関係である。今更恥ずかしがる必要もなかった。僕は響と交代で風呂椅子に座った。彼女は十分に泡立てた石鹸を手に背中に回り、タオルで――タオルではなかった。


『極東の三愚神が一柱、すべての母なる豊穣とサバトの女王様。黒き女神様。怖い方だとずっと思ってた。でもわたしみたいな出来損ないにも、とても優しかった』


 響は自らの身体で僕の背中を磨き始めた。泡まみれになったその薄い胸をこすりつけ、まるで吸い付くように肢体を動かして磨いていく。


 僕の腕を取って、愛おしそうに、全身を使って洗ってゆく。


 太ももに跨って自らの無毛の股間を挟んで前後に動き、首元は彼女は頬を赤らめて上目遣いにキスをしながら柔らかく腕を回し、石鹸の泡で奇麗にしてゆく。


「あ、ありがとう。もうその辺りで」


 さすがに腰が引けてくる。これは知識だけで知る、泡の風俗嬢の接客テクニックと言うものではないか。


 僕は響に改めて感謝し、まだ物足りなさそうな響の額にキスをして、そうしてお互いにシャワーをかけ合って風呂場から出た。


 ずいぶんと長く洗い合ったみたいだった。洗濯機は少量洗濯にてすでに乾かし工程に入っていた。もう数分で完了するだろう。


 洗面所の入浴用タンスに辛うじて一枚だけ残っていた未使用のバスタオルで互いの身体を拭きあって、服を着る。ふっと息を吐く。汗を洗い流してスッキリした。しかし、それでも僕は思う。この家の現状はどうなっているのかと。


「少なくとも僕のいた世界では、いつ来客があってもいいように小綺麗にはしていたつもりだけど……お父さん、どうしてしまったんだろう」


 男一匹になったら、途端にこんな風になってしまうものなのだろうか。


『女王様、奥の部屋から人間の生体反応が一つ。あと、女王様の使い魔が二つ』


「つまりリビングに誰かいるってわけね。たぶんお父さんと黒猫姉妹のケイトとラゴだと思うけれど、僕らがお風呂を使ってそれに気づかないってどういうこと?」


『空気中の分子に強いアルコール反応があるの』


「えぇ……」


 昼間から父が酒を呑んでいる? あの真面目なバス乗務員の父が? アルコールを摂取したら路線バスの運転ができなくなってしまうではないか。


 僕は奥のリビングへ、ゴミの詰まったゴミ袋をまたぎつつ進んだ。


 ずぼりずぼりと歩を進めていくうちに、確かに異臭の中にアルコールの饐えたニオイが混じっているのを鼻に感じた。


「お父さん!」


 部屋に入って大喝する。リビングはエアコンがついていて、室温だけを見ればとても快適だった。しかし、ゴミだらけである。


 ゴミ満載のゴミ袋、ゴミ袋、ゴミ袋。さらにゴミ満載のゴミ袋。


 むき出しのゴミ、空の缶詰。呑み尽くし横倒しになった酒瓶が多数。食べ散らかしたコンビニ弁当。たかる人類の敵――ゴキブリども。読み捨てられた雑誌、破れた新聞紙と汚れたタオル。何かを拭いた残骸のトイレットペーパーがロールのままだらしなく転がっている。脱ぎ捨てられたカッターシャツとズボン、そして下着類。


「お父さん……」


 父はどこにも見当たらなかった。僕の声を聞きつけて顔を上げたのは、可愛そうに、毛並みの荒れた黒い二匹の姉妹猫だった。


 黒猫のケイトとラゴは、助けを求めるようににゃあにゃあ鳴きながらこちらへ擦り寄ってきた。僕は猫達を抱き上げた。二匹はすっかり痩せ細っていた。


『女王様、あそこ見て。誰か倒れてるの』


「えっ」


 黒猫姉妹を抱いたまま響が指さすほうへ急いだ。


 父は、いた。度数の強い蒸留酒の空瓶に囲まれて、伸び生やした髭の、やつれ切った父が床に直接横たわり、眠っていた。


「お父さん、お父さん!」


 眠る父の肩をゆすってみた。反応はなかった。眠り続けている。


 僕は父の頬をはたいてみた。起きた。薄く目を開いた。


 僕は父の背に回り、上半身を起こしてやった。響に頼んで転がっていたグラスに水を注がせ、僕は父の口にあてがってそれを飲ませる。


「め、恵……? そ、そうか……俺は、死んだのか……」


「こんな格好だけど恵一です。何よりお父さんは生きています」


「何言ってんだ。いくら女顔でも恵一は……ああ、違う。そう、そうだ、そうだった……。この雰囲気は確かに恵一。また兄妹で入れ替わっているのか……。この悪戯者の双子なかよしめ、仕方のないやつらだなぁ……」


「僕達がたまに入れ替わっていることに、お父さんは気づいていたの?」


「そりゃあ俺はお前らの父親からな……。どうせアレだろ? 恵のわがままにつき合わされたのだろう……? お前は恵とほぼ同じ顔と身体つきで、こう言ってはなんだが、恵の胸はその……母親そっくりに慎ましかったからなぁ。その上で、お前は女の子でも通用するほどの美人さんとくれば……」


 今知った衝撃の事実。父は僕ら双子の入れ替わりに気づきながらも黙っていた。父は再び目を閉じた。力なく閉じられた彼の双眸。見てないようでやはり親。ちゃんとわが子を把握していた。それなのにこの現状は。僕は涙が溢れてきた。


「お父さん、眠らないで。僕達をわかってくれていながら、どうしてこんな」


「俺が死んでいないのなら、どうせこれは夢なんだろう?」


「お願い、質問に答えて。これは現実。死後でも夢でもないの」


 僕は父の頬をぎゅっとつねった。父は、痛がった。


「……これは嘘だ。実は自分で頬をつねっているってオチが見える」


「もう一度ぎゅっと行きましょうか。今度は二か所です」


「……頼む」


 そのようにしてあげた。父はとても痛がった。


「そうか、現実か……。これでまだ夢だったら、いや、それはもういいか。恵一、恵。俺の可愛い息子と娘。ああ、ああ。なんでこうなったかって、それは……」


「それは?」


 父は目を閉じて荒く息を吐いた。アルコールの重い口臭がした。


「――お前達が、亡くなったからだ」


 すでに分かっていた。この可能性世界では僕ら兄妹はすでに亡くなっていると。


 しかし実際問題として、わが親からこの世界における現実を突きつけられると、胸中に深く刺さるものがあった。


 僕達だけがいない街。


 容赦のない現実。父は、唾を一度飲んで、言葉を続けた。


沙織かあさんを亡くしたときは俺はまだ耐えられた。あいつ心臓が少し弱かったし、最悪の可能性も夫婦共々覚悟を決めていた。何より、俺には幼い恵一と恵の二人がいたのでヘタレるわけにはいかなかった。俺はお前達が不自由なく食べていけるようにしゃにむに働いた。もっとも、仕事に力を入れ過ぎて家庭への気回しが疎かになっちまったのだが、それはすまない、俺はそんなに器用な男じゃあないんだ……」


「いいよ。僕ら兄妹が力を合わせて、お父さんに代わって家を守ってきたもの」


「そうだな。恵一も恵も、本当に俺にはもったいないくらいよく出来た息子と娘。しかし忘れもしない今年の3月22日。お前達が揃って志望校に合格し、4月の入学を待つばかりのあの日。二人していつもの買い物へ出かける途中のこと。信号を無視して突っ込んできたメタリックシルバーの暴走スポーツカーに」


「もしかして僕も恵もそこで交通事故に遭って?」


「即死だった。犯人は逃走し、未だ捕まっちゃあいない。目撃者や多数の遺留品もあるというのに。せめて捕まれば、たとえ何も還ってこないとわかっていても」


 そう言って父は起こした上半身をずり落としていった。ちょうど僕に膝枕される形で頭を止める。何かに必死で耐えるような険しい顔つきだった。しかし僕を見上げると微笑むように頬を弛緩させた。逃げ場のない諦念を滲ませた、ため息のような笑みだった。子として、これ以上つらい親の表情はないと思った。


 父は右手を僕の顔にやり、おずおずと触れてきた。頬に当たるのは、硬く荒れた手だった。僕は父の手を両手で包み込んだ。目頭が熱くなる。自然と涙が伝い、父の鼻もとに落ちた。この世界の父をここまで苦しめたのは、僕と恵の二人だった。


「親が子を亡くすとそのショックは計り知れないと聞くが、あれは本当だった。特に二人を同時に亡くしたときなんて、もう。最悪なのは警察が無能すぎて犯人がチラとも出てこないところにある。遊んでんのか、この税金泥棒どもが。俺はすべてに嫌気がさした。だから、呑んだ。呑みまくった。もっと頑張れるだろうと気軽にヌかす野郎はいる。じゃあ俺と同じ目に遭ってみろってんだクソッタレが」


「うん……」


「会社は休職した。本当は辞めてやろうと退職届を叩きつけたんだ。しかし所長のやつが言うんだ。家族を亡くした気持ちはわかるが、団塊世代が定年退職しまくってベテランのバスの乗り手が足りない。頼むから、休職にしておいてくれって」


「うん……」


 僕は父の頭を胸に抱きとめた。涙はとめどなく流れてどうしようもない。


 この世界の僕達が死に、父はセルフネグレクトになっていた。この症状、親しい人間の死去を受けた人が一番なりやすいと聞く。


 父を擁護させてもらえば、男はフィジカルには強いがメンタルは驚くほど脆いとどこかで耳にした覚えがある。そもそも僕自身も半身たる双子の妹、恵を亡くしてから、兄の僕が妹の恵を演じるという醜態を晒していた。


 僕には父を責める資格なんてない。父はもう十分過ぎるほど頑張った。


 すり寄る黒猫のケイトとラゴ。父親を抱きしめる息子。あふれる涙。その上で、伝えねばならない残酷な現実。


「でも恵一は帰ってきた。恵はどこだ? あいつはちょっと猫っぽく意地悪なところがあるからな。どうせまた隠れて様子でも見ているんだろう?」


 なんて悲しい。希望を見せて、再び絶望に突き落とす真似をしなければならないなんて。でも伝えねば。自分はこの世界の住人ではない、と。


 僕は、涙をぬぐった。


「お父さん、ごめん。僕が元いた世界では、恵は、妹は亡くなっているの」


「元いた世界? ん、ん……? すまん、全然わからん。詳しく、話してくれ」


「原因となる存在は一応把握しているけれど、その意図は皆目分かりません。ただその存在、混沌の神に『世界を飛ばされて』僕はここにいます。いずれどうあれ、理屈や理論の証明よりも、自身がここにいるという事実に揺らぎはありません。ただし、僕にとってこの世界は、観測者に選ばれなかった未選択な――」


『偉大なる女王様、それは違います。この世界は御身の知る、われらが観測者あるじから外れてしまった可能性世界ではありません』


 不意を打たれた僕と父は、えっ、と驚きの表情になった。


 これまでじっと黙って、僕の横で行儀よく座っていた響が口を挟んだのだった。

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