第37話 父と息子。ママになった男の娘。その1

 探索時の単独行動は極力避けたい。今、僕はCPクライシスポイントの際にいる。探索は複数人数と組んで行なうものであり、単独行動は自殺行為とほぼ同意義だった。


 邪神の悪戯により迷い込んだこの可能性世界では、どうやら妹の恵だけでなく僕自身も事故か病気か何かで亡くなっていると推測される。


 ただ、それでも。犬先輩ならなんとかしてくれる気がした。


 いささか盲目的だろうか。しかし彼は微分子工学の博士号だけでなく陰秘学の博士号も併せ持つ科学と魔術の熟達者であり、信頼のおける友人でもあった。


 繰り返すに、いささか盲目的だろうか。そんなことは、ないと思うのだが。


 南條公平。絶世の美少年にして、比類なき道化。ミスカトニックの悪戯者。僕の友人。ただし謎の多き友人。しかし僕を大切に考えてもくれる親友。頼れる人。


 まだ会ったことはないが化身タイプの混沌邪神顕現体の知己がいて、さらには憑依タイプの混沌邪神幼女ヴェールヌィを義妹とする。しかも彼女と同居している。


「うん、ごちゃごちゃ考えるより行動しよう」


 自分がすでに死去した世界で、果たして僕のスマートフォンは使えるのか。わからないが自らの悪運に挑戦する意味合いも込めて、犬先輩に連絡を繋げる。


 コール、コール、コール。


 出ない。この世界では僕の電話は使えないのか。あるいは父が解約してしまったのか。今持っているスマートフォンの契約をしたのは一年と少し前。妹の恵と機種はお揃いだった。元世界では妹の端末はまだ解約していないのだが……。


 出た。少し違った。留守番電話サービスだった。


 僕は逡巡した。そして決断した。留守番サービスのガイダンスに従って、なるべく簡潔にメッセージを残しておくことにした。


「――こんにちは。初めまして、と言うべきでしょうか。僕は愛宕恵の双子の兄、愛宕恵一です。犬先輩、単刀直入に言います。助けてください。僕はこの世界の住人ではありません。ご存知かと思いますが、この世界の僕と恵はすでに亡くなっているようです。僕をこの世界に飛ばしたのは褐色肌の精悍な男。おそらくは邪神ナイアルラトホテップの顕現体。重ねてお願いします。助けてください。ひとまずミスカトニック高校の敷地内にある薔薇の温室へと向かおうと考えています。連絡を待ちます」


 伝える内容はこれで十分なはず。吹き込んだ留守電サービスメッセージの通り、僕は高等部へと足を向けた。もしかしたらこの可能世界でも、薔薇の温室にはヴェールヌィがいるかもしれない。そう希望を見込んでの行動だった。


 犬先輩に恋い焦がれるコミュ障でボッチ体質の邪神幼女。元の世界では、彼女と僕は友人関係だった。つまり邪神とはいえ神様に気に入られたのだった。ならば、あるいは、この世界でも僕は彼女に気に入られるかもしれなかった。


 歩くこと約30分。桐生学園ミスカトニック校の規模には本当に辟易だった。無料の巡回バスを利用するにしても今の僕には身分を証明する手段がない。バス利用には制服に埋め込まれた電子チップか、もしくは生徒手帳、または学園から支給されるノートタブレットが必要だった。そのどれもを、僕は持っていなかった。


 身体はコルセットの冷却機能で体温調節されてはいれど、それに増して照りつける獰猛な太陽は一切の容赦のない熱波を送り、とめどなく汗をかかせた。念のため強力なUVカット成分の入った日焼け止めを塗っておいて本当に正解だった。肌にシミを作る真夏の太陽とは決して仲良くなりたくなかった。


 宇宙まで突き抜ける群青の空の下、夏休みの人気のまばらな高等部をひた歩き、薔薇の温室へやっとたどり着く。僕は荒く息を吐いた。まったく、暑い。


 温室は、かつては自然洞穴だった奥深い地下倉庫より冷気を汲み上げて側面のガラスパネルを全開に、熱された空気を室内に留めないよう解放されている。


 僕は中をそっと覗き込んだ。人の気配は欠片もなかった。


 整備された温室内、園芸部兼パティシエ部のあの四人組も今日は姿を見ない。薔薇はとても繊細なので毎日の世話は欠かせないものだが、さすがに夏休みになるとそうそう細やかなケアは出来ないらしかった。地下から通気口を通して無尽蔵に汲み上げられてくる風には冷気が混じっていて、とても心地が良いものだった。


「ヴェールヌィさん、います?」


 温室内に侵入し、僕は天井に向けて呼びかけた。


「この世界では響ちゃんって呼んだほうがいいのかな、いますかー?」


 反応がない。この可能性世界では、ヴェールヌィこと邪神幼女のナイアルラトホテップ憑依体はいないのかもしれなかった。


 となれば、彼女と交渉するプランAを手直してプランBに――。


『……ぃ……ぇ……』


 何か聞こえた。あるいはこれは、かの邪神幼女が近くにいるのかもしれない。


 少し強気で行くべきか、どうするか。


 畏れと敬意をもって、たとえ邪がついても基本的に彼女は外なる神なのだった。


 なので平に目通り願いを立てたいところではあれど、僕の知るあの寂しがりのコミュ障銀髪幼女には、あまり尊崇の念は意味をなさない気がしないでもない。


 しばし逡巡し、思い切ってガツンと行くことに。


「早く出てきなさい! そんなだから公平きみひらお兄ちゃんにボッチ扱いされるのよ!」


『――ボ、ボッチじゃないし!』


「やっぱりいたのね」


『ひぃ、ごめんなさいっ。ごめんなさいっ。いじめないでぇ』


「いじめない、いじめない。だから降りておいで」


『だって、あなたさまは、わたしの上役の。『極東の三愚神』計画は、もちろんわたしもお手伝いしています。サボってません。だからお仕置きはやめてぇ』


「邪神の上役って誰なのよ。まだるっこしい。さっさと降りてくる!」


『は、はいぃ』


 震えながら怯え切った視線をこちらに向けつつ、ナイアルラトホテップの憑依体が僕のすぐそばに姿を現した。


 彼女は裸足に白の女児用セーラーワンピースを着ていた。パジャマ姿の彼女しか知らないが、記憶に沿った、僕の知るままの愛らしい幼女の姿であった。


 ああ、この庇護欲をかき立てる姿はどうだ。思わず撫でてやりたくなる。世の紳士達がYESロリータ! と奇声を上げそうだった。その後、NOタッチで済むかGOファックになるかは、場の勢いを含む賽の目次第となりそうではある。


 さらさらと長い髪の毛。碧眼、黄金比に祝福されたような、美の限界に挑戦する可愛らしくも狂おしい、そんな混沌の顕現体。


「まったく、しようのない子ね」


 一歩、僕は近づいた。すると幼女姿の邪神は怯えた目で嫌々と首を横に振りつつ一歩あとじさった。僕は小首をかしげた。


 一歩、彼女に近づく。邪神幼女は一歩下がった。一歩進む、一歩下がる。僕が一歩進むと彼女は一歩下がる。わけがわからない。僕はさらに一歩進む。邪神は一歩下がろうとして、しかし下がれなかった。彼女の背中には壁があった。


「捕まえた」


『あっ、あああ……』


 僕は幼女の姿をした邪神の左肩を軽く掴んだ。彼女は怯え切った目で捕らわれて、変な声を上げた。下方から、しょわあああっと放水する音がした。


 あまりにも様子がおかしいので彼女の肩に手を置いたまま体を引いてみた。うわ、と僕は呻いた。彼女は、恐怖のあまりにか、失禁していた。しかもボロボロと大粒の涙を浮かべて、その場にしゃがみ込んでしまった。


「どうしておしっこなんて漏らすの……。僕が、そんなに、怖いの?」


『う、うん。怖い、です。とっても怖いぃ……』


「えぇ……」


 顔をしかめ、涙ながらも返事をする邪神幼女。


 以前、かの『放課後の殺人鬼』事件の首謀者として出会った際には、彼女は僕をちっとも怖がったりしなかった。むしろ何か含みを持たせるように僕をハーフジェミニなどと、ある種の親しみさえ込めていたというのに。


 それが、この可能性世界での、10歳にも満たぬ幼女の姿をしたナイアルラトホテップの憑依体は。僕の何がそんなにも怖いのか。


 ふと、考えがよぎった。


 彼女は、犬先輩から散々ボッチとからかわれていた。


 話術を始めとする対人能力はほぼ皆無で、もちろん空気など一切読めず、会話の流れを微塵も気にせず好きなときに好きなように喋りまくる。そもそも外なる神と畏れられる存在のくせに他者との接触を怖がる節さえあった。


 それを踏まえて、以前の出会いは、犬先輩と文香と自分の三人が事件の真相を解明すべく、学内を散々右往左往した末のものだったのを思い出した。


 首謀者のこの幼女は『極東の三愚神』と名づけられた、人が関わるには狂気に満ち満ちた計画の一環として『静かに人間の精神強度を破壊し、SAN値ゼロにて日常生活を送らせる』予備的実験をミスカトニック高等学校区内で行なっていた。


 はた迷惑なのはお察しの通りである。しかしそれはあえて横に置くとして、実は彼女にはもう一つ大きな目的があった。


 この混沌の邪神顕現体。ヴェールヌィ。もしくは響。


 彼女はきさらぎ駅で邂逅した犬先輩に絶大な好意を寄せていた。恋焦がれる邪神幼女は、ただ、犬先輩に構って欲しかった。ゆえに犬先輩だけにわかるヒントを事件に織り込んで、あえて彼に見つけて貰うよう画策していた。


 今回、僕のいきなりの訪問で、しかも単独行動を強行している最悪の状況。


 かの『放課後の殺人鬼』事件では、このお漏らし邪神幼女は犬先輩を中心に僕達をずっと観察していたはずだった。大好きな公平お兄ちゃんである。その中で、僕に害意がないことを確認し、さらには思考まで読んで安全マージンを取った結果が、あの妙な馴れ馴れしさと得体の知れない含みを持たせた態度なのかもしれなかった。


 とはいえ、それでなぜ僕が怖いのかちっとも理由になっていなかった。いっそすっぱりと尋ねてみたい衝動に駆られるも、しかし気の毒なお漏らし邪神幼女の大粒の涙を前にその問いかけは無慈悲が過ぎて、二の足を踏ませるには余りがあった。


「そう、なんだかごめんね。僕はキミに害意なんてない。怖くないよ。大丈夫だから、ね? ただ、ちょっと協力して欲しかっただけ。……とりあえず、僕の手を取ろっか。はい、立っちしましょうねー。失敗しちゃったおしっこは、拭いておきましょうか。汚れたショーツはここで脱いじゃって。後で水で濯いであげるから」


『に、にゃあ……そ、それじゃあ、脱ぐの……』


 僕は自分でも驚くほど甲斐甲斐しく、小水を盛大に漏らした邪神幼女の後始末を始める。ハンカチを水で濡らして、丁寧に内股と太ももを拭ってやる。園芸用の散水ホースから水を出し、汚れたショーツを軽く揉んですすいでやる。


 その頃になると彼女も落ち着いてきたのか、僕に対してそれほど恐怖で怯える目を向けることもなくなってきていた。


「うーん。やっぱりこれは一度お風呂に入ったほうがいいかな。今から僕の家に行こっか。そうそう、名前、どう呼んでほしい? 響ちゃん? ヴェールヌィ?」


『響で、お願いします。始まりの女神、原初の闇、豊穣とサバトと万物の女王様』


「豊穣? サバト? まあいいか。じゃあ響ちゃん、僕の家の住所を教えるから空間を曲げるなりしてそっちへ移動ね。神なんだから、それくらいできるよね?」


『は、はい。もちろんできます……』


 僕は邪神幼女の響と手を繋ぎ、自宅へ一気に移動するのだった。

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