第36話 僕達だけがいない街 その2

「……大丈夫?」


 文香が、店長室に、顔を覗き込ませてくる。


 一瞬高まった緊張が、再び弛緩する。


 凛々しい文香も、愛らしいメイド服の店員姿である。スタイルも良く、格好良さと可愛らしさの絶妙なバランス加減が最高だった。


 文香さんに抱きつきたい。文香さんに、抱かれたい。


 僕と、わたしは思った。


 さんざめく僕と、僕の中の恵。


 女性化しつつある肉体と、発現を強めた恵の意思。


 溢れ出る甘えの心に抑えが利かない。不安なのだ。二律する自分に。僕は文香に、こちらへ来て欲しいと懇願した。そして彼女に抱きつき、胸に顔を埋めた。


「ケイちゃん……じゃなかった。メグちゃん、本当に大丈夫?」


「うん、ごめん。さすがに長時間、この姿を衆目に晒すのは自信が持てなくて」


「わたしの王様命令、やっぱり無理があった?」


「ちょっとね、だいぶね。でも、僕とわたしは文香さんと一緒にアルバイトするのが嫌だなんてそんなことないし、むしろ少しでも長く文香さんと一緒にいたい。だって、文香さんのこと、好きだから。だから無理はあっても無茶じゃない」


「メグちゃん、一人称が混同しちゃってる」


「うん、知ってる。だから、ほんの少し、手伝って」


 僕は顔を上げ、抱き合う文香と至近距離で見つめあった。


 彼女は目を細め、小首をかしげる形で顔を下向きに、僕の唇にキスをした。僕は目を閉じて、それを、受けた。


「僕とわたし、わたしと僕。でも、文香さんがキスしてくれたので」


「キスしたので、気持ちは『僕』寄りになった?」


「ええ、おかげさまで。ありがとう。何せ僕は大好きな文香さんの彼氏ですから。今はその、こんな少女趣味全開の恰好をしているとはいえ、根本は男ですし」


「うふふ、男の娘のメイド姿、物凄く滾っちゃう」


「もう……」


 ややあって気持ちを持ち直し、僕は文香とアルバイトに勤しむのだった。なお、僕の女装店員を知るのは、犬先輩と、文香と、古鷹店長の三人だけである。


 一週間が過ぎた8月の初旬。仕事にも慣れ、良いのか悪いのか『架空存在、新人店員のメグ』にも慣れた僕は、本日もミスカトニック大学区に建つ珈琲館コノハナサクヤにて朝早くからアルバイトをしていた。


 その日は文香は家の用事があるからと、兵庫県は神戸の実家に帰っていた。店は古鷹店長と僕と先輩アルバイターの藤波さんの三人で回していた。


 今日まで一週間、結構な人数の高等部の生徒や教師もこの喫茶店を利用しているのが判明した。が、誰も男の僕が女装店員をしている事実に気づかなかった。


 喜んでいいのか、悪いのか、判断に悩む。


 もちろんこれは犬先輩直伝の変装術を駆使した結果でもあり、当然ながら気づかれないという点ではこれ以上なく望ましくはあれど、自分としては男の沽券に関わる複雑な気持ちに頭を抱えるのだった。本当に、判断に悩む。


 まったく人間とはどこまでも自分勝手だ。バレないならそれが一番だろうに。


 頭ではわかってはいるのに恵一と恵の意識の狭間で揺れる自分は、男女どちらの性でもあってどちらでもなく、二人が二人して自分というものを世間に認めて欲しいという承認欲求が見え隠れしていた。僕はわたしで、わたしは僕で、なのだ。


 今は恵一としての意識が強いけれども、ふとした拍子に恵の意識が発露してしまう。ときには小悪魔もかくやと色目も使うサービス精神旺盛さがあった。どちらもが自分。演ずるのは僕自身だから。だけど、何か決定的に、違うような気もする。


 不安だった。このままで大丈夫なのか。夏休み終わりまで僕は一人の男子高校生として男を維持できるのか。二学期から女子の制服を着て登校しているかもしれない。男の娘カミングアウト。日によって自らの中の男子と女子が入れ替わる。


 それでも、僕は。双子の妹への想いとその思い出が捨てられない。


「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりでしょうかぁ?」


 お昼過ぎのこと。僕は物腰の柔らかいアルトの女性声で、席についた客にグラスに注がれた水と使い捨てのお手拭きを用意して注文伺いに向かっていた。


 客は珍しくも外部の人間らしかった。


 年嵩は三十路前後という感じか。夏の強い日差しに肌を焼いた、小麦色のいかにも精悍なスーツ姿の男性だった。加えて素晴らしくハンサムな男でもあった。


 僕はこの一週間で夏季の大体の客層と時間帯における傾向、そして来店するすべての客の顔を覚えつつあった。ここだけの話、写真記憶の才能が僕にはある。高等部か大学部かは知らないが、まず学園に関わりのある納入業者なのだろう。


「ふむ、この店のお勧めは何かな?」


「お勧めとなりますと、やはりモーガン船長のひみつバターサンドでしょうか。濃厚なラムレーズンとバタークリームのビスケットサンドです。手作り、大きい、安い、美味しいと四つ揃って大変ご好評をいただいています。数量限定品で、本日の分はあと数セットで終了となります。コーヒーと合わせて、ぜひ、お楽しみください」


「なるほどなるほど。それはとてもいい組み合わせですなぁ。しかし俺としては、もう一人のキミと、何よりキミの心と魂が欲しいのですよ」


「えっ?」


 小麦色の精悍な男性は手を伸ばし、僕の腕に軽く添えるようにして、妙にセクシャルでチャーミングなウィンクをこちらに飛ばした。


 めまい。


「それはどういう――」


 僕は男に問いかけようとした。が、僕は腕など掴まれていなかったし、男もそこにはいなかった。意味不明だった。とりあえずSAN値チェックでもすべきだろうか。


 背後でガラスの砕ける音が。誰かがグラスを床に落としたらしかった。


「き、急に現れた……?」


 振り返ると文香がいた。珈琲館コノハナサクヤ指定のメイド服を着たイケメン美人の彼女が。何かに驚いてグラスを割っていた。


 だが、おかしい――。


 今日は、文香は兵庫県神戸の実家に帰っているはずではなかったか。


 店内は異様にざわついていた。誰もがこちらを向いていた。注目の対象は、僕だった。まさかメイド服の店員の中身が男だとバレたか。


 一瞬危惧するも、どうやら違うらしい。


 口々に漏れる内容が異口同音の疑問符ばかりで、列挙すればこのようになる。


『なんだ?』

『何か放電したよな?』

『急に現れた?』

『イリュージョン?』

『まさか、どういうことなの?』

『彼女は何者?』

『テレポーテーション?』


 やがて来店客の全員が一斉にスマートフォンをこちらに向けた。そして、アルバイトの女の子達の身の安全を守るためいかなる理由であれ店内では撮影を禁じているにもかかわらず、僕をフラッシュつきで次々と撮り始めたのだった。


 けれども残念、などと皮肉を言うべきだろうか。

 それは無意味である。


 ユニフォームのエプロンには、フラッシュへの過剰光反射する対パパラッチ用特殊生地『ISHU』を使っていた。撮影画面が焼きついたようになるだけだった。


 おまけにメイド服は微弱な妨害電磁波を発し、半径十メートル以内のカメラやビデオのデジタル機能を狂わせ、ピントが絶対に合わないよう操作されていた。


 これらの機能はコノハヤサクヤで働く女の子のための防衛策。無断撮影で彼女達の姿をネットに流出させる、ともすれば犯罪に巻き込まれかねない行為への科学の勝利だった。インスタ? そんなもの知らない。自慰行為オナニーは孤独にやるものだ。


 文香はするりと僕に近寄って、初めて出会った時のようにこちらの左腕を掴んだ。それは単純に掴んでいるのではなく、てこの原理を利用した捕縛術だった。


「文香さん。その掴み方だと、わたし、動けなくなっちゃうんだけど」


「……」


 彼女は無言だった。肉食獣を体現するような鋭い目つきで僕を逃すまいとしていた。涼しい店内にも関わらずその手はしっとりと汗ばんでいた。


 確固とした意志。あなたを絶対に逃がさない、と。


 一体、僕が何をした? 彼女の獰猛な気配に僕は圧倒される。また何かが砕ける音がした。今度はコーヒーカップのようだ。発生源はキッチンからだった。


「そんな、恵ちゃん? どういうこと? あなたと双子のお兄さんはすでに」


 騒ぎを聞きつけた古鷹店長がキッチンから出てきた。顔が青ざめていた。店長は僕を恵と判別していた。確かに僕は恵でもある。もう一人の自分。二人は一つ。双子の同一性を謳う。兄妹で男女の入れ替わりができるほどに。


 しかし、何か、決定的におかしい。いや、違う。そうではない。


 おかしいのは、あるいは僕かもしれない。なぜ? 僕が元凶とは? 現れたとは? 撮られる写真。向けられる異質な視線。あり得ないものを見るような。


 この切迫した店内、自分ならどうするのが最上か。


 そんなものは決まっている。逃げるのだ。もちろん、単純に逃走を図るのではない。戦略的転進、そして現状を分析して改めて行動に移る。


「……ねえ、文香さん」


 僕は彼女の名を呼んだ。媚の入った表情を見せ、ふっと身を寄せる。


 やおら彼女の唇を僕は奪う。外見だけなら百合キスである。


 推測するに『この文香』は僕を知らないらしい。まったく現状に理解が及ばないが、そういうものだと仮定して行動する。しかし本質は自分の良く知る文香ときっと同じはずだった。ならばそこに活路を見出すのは道理だった。


「んんっ」


 彼女からしてみれば、知らない女の子に突然唇を奪われる構図となろう。戸惑う文香。完全に隙をついた。すかさず僕は彼女の耳元に低い声を作って囁きかける。


「僕は、男です。大好きなあなたの」


「ええっ?」


 よほど衝撃的だったと見える。まあこの姿で男とか、信じられないよね。でもこれ女装だから。文香は、僕の腕にかける重心とてこのバランスを崩してしまった。


 この瞬間を狙っていた。


 僕はぐっと彼女の胸元まで掴まれた腕を持ち上げ、捻り、捕縛から逃れた。阿賀野流戦国太刀の対捕縛術である。この、文香直伝の逐電術と僕の対文香動揺戦術を組み合わせ、戦闘面での絶対的格上の彼女から見事抜け出した。


 そして全力で店から遁走する。


「ま、待って!」


 待てと言われて待つ逃走者などいない。


 くるぶしまである長いスカートを両手でつまみ上げ、僕はそのまま駆けて行く。背中に感じる気配から判断するに、おそらく文香は追ってきていない。


 どれほど走っただろうか、少なくとも10分は学園内をひた駆けたと思う。


 僕は走りから歩きに転じ、やがてはふうと息をついて立ち止まった。周りをよく見る。改めて、追跡者はいないと確認する。ときおり感じた視線はメイド服の人物=僕が駆ける姿を眼で追ってのもので、それ以上でも以下でもない。このメイドユニフォームは、店外ではいささか目立ち過ぎた。


 8月の初旬。真夏。真ッ昼間。猛烈な熱気に次ぐ熱気。


 吸い込まれそうな群青の大空と、めきめきと広がる入道雲。どこで鳴いているのかセミの大合唱が。照りつける太陽。目の底でギラギラと眩しい。


 冷却機能付コルセットを着こんでいるとはいえ、やはり暑い。長手のスカートはズボンより熱が籠る。額から顎に向けて汗が一筋、ぽとりと地面に染みを作った。


「どうしようか、恵」


「そうね……」


「まずは現状の把握に努めるとして、僕はその後どう行動すべきだろう」


 僕はもう一人の自分に問いかける。


 肉体の女性化が進行した最近に至っては女の子に変装時は特に、まるで天秤のように恵一と恵の間で意識が揺らぐのだった。それを悪用したのがこれから始まる意識の二陣羽織。医学的には統合失調症。邪神ナイアルラトホテップの憑依体、ヴェールヌィの言葉を借りれば、ハーフジェミニ状態である。


「ケイは何にまして冷静さを保たなきゃいけないと思う。そして、いつからこのような事態に陥ったのか、順に思い返していくべき」


「恵の言う通りだね。パニックになっても自滅エンドしか見えないし。じゃあさっそく思い返してみる。えっと……今日のシフトは朝の開店からのフルタイム。メンバーは古鷹店長と藤波さんと自分の三人。文香さんは実家に用事で休みだった」


「そしてアルバイトに従事。夏休みの影響だろう、見知った女子寮の面々がちらほらとバターサンド目当てに店にやってきていた。まあ、この辺は見慣れた光景よね。あれ、とっても美味しいものね。手作りで、安くて、大きくて、コスパが良くて。……それはともかく、お昼過ぎまで特に変わったことは起きてないわ」


「うん。おかしくなったのはお勧めを訊いてきたあの男の人からだと思う」


「ケイに同意。あのときわたしと僕は店で注文伺いをした。客は三十路前後の、陽に焼けた小麦色の肌をした精悍な男だった。出入りの業者だろうと思った」


「その人はお勧めを聞いてきた。なので答えた。しかし彼が言ったのは?」


「わたしと僕が欲しいと」


「そうだね、僕とわたしが欲しいと言った。次の瞬間、めまいを覚えた。以前にも似たようなものを受けた覚えがある。そう、ヴェールヌィの一件で」


「そしてグラスが割れる音がした」


「振り返ると……」


「兵庫県は神戸の実家に帰ったはずの文香さんが、水を入れたグラスを落としていた。彼女はこう言った。『き、急に現れた……?』と。つまり、これは?」


「と、同時に。店内はざわめき立っていたよね」


「ええ。禁止されている写真を撮るほどに。対象は、わたしと僕」


「あり得ないような、異様なものを見る視線だった」


「ええ、その通り。怪物にでも出くわしたような反応だったわ。失礼よね」


「文香さんはかつて屋上でしたように僕とわたしの腕を掴み取った。狙いえものを定めた虎を連想させる鋭い視線。知らない人間を捕まえようとする意志を感じた」


「悪戯でも冗談でもなく、彼女は本気でわたしと僕を知らないみたいだった」


「しかし僕らは文香さんをよく知っている。なので彼女の隙をつけた」


「わたし達の逃走はひとまず成功した。10分は走ったかしら。さて、ケイ。現状を把握できた? 次の行動へ移すための目的や指針は思いついた?」


「そうですね……では把握から。まず、あの褐色肌のハンサム男は、邪神ナイアルラトホテップの一顕現体ではないかと推察します」


「どうして?」


「今し方でも触れましたが、先立ての異常事態に至る瞬間に感じた独特の『めまい』には覚えがあります。おそらくは『放課後の殺人鬼事件』で、混沌邪神の千ある顕現体の一柱たるヴェールヌィが使った空間転移と同種の何か。あんな大技を気軽に使える存在など、そうそういるわけがありませんからね」


「続けて、どうぞ」


「加えてその姿。褐色肌、やたらとハンサムな伊達男。どこかで聞いたような人物像。あるいは『魔界のピンボール事件』で暗躍した彼かもしれない。もちろん、あくまで仮定の話。しかしかの混沌の神は無貌がゆえに千の貌を持つ。幼女タイプもいれば、ハンサム伊達男もいるはず。可能性としては、決して低くない」


「……うん、確かに。わたしと僕もそれに同意するわ」


「これらの観点からこの世界は、以前の経験も踏まえて推測するに、『アザトースに選ばれなかった可能性世界の一つ』ではないかと思うのです」


「なるほど。これを以って、現状の把握は終了かな?」


「とりあえずは、ですが」


「それじゃあ最終目的戦略行動指針作戦実際行動戦術、を箇条書き風にお願い」


「探索者としては当然を語るだけになりますが、このような感じですね」


一、最終目的。元の観測世界への帰還。

二、行動指針。急がば回れ。可能な限り、安全な探索方法を選ぶこと。

三、実際行動。すでに二つほど思いついている。後ほど実行予定。


「ああ、そうだ恵。古鷹店長の反応から、一つだけ確定している事項があるよね」


「『わたし』が言ってもいいの?」


「もちろんだよ」


「この街では、わたしと僕、僕とわたしは確かに存在はしていた。でも『わたし達はすでに死んでいる』と見たほうがいいわね。本当に、残念だけど」


「僕と恵のいない街」


「わたしと恵一のいない街」


「「僕達だけがいない街」」


 意識の二陣羽織による話し合いは終了した。僕はスマートフォンを取り出す。指紋認証でロックを解除し、アドレスを開く。犬先輩の電話番号をタップする。

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