第35話 僕達だけがいない街 その1

 試験も無事終わり、一学期も滞りなく終了。今日から夏休みだった。


 児童に生徒に学生、誰もがそうだろうと思うけれども、夏休みの始まりはどことなくウキウキするものだった。僕も昨年までは他の皆と同じ気持ちだった。


 親しい友人と泊りがけで遊びに出かけたり、恵と真剣に何種類もの料理研究をしたり、図書館へ課題の消化に向かったり、ちょっとだけ夜更かししてみたり。


 それが、どうしてこうなった。


 僕は、珈琲館コノハナサクヤにて文香と一緒にアルバイトをしていた。


 紹介元はもちろん犬先輩だった。文香が語るに、小さい頃から犬先輩がお世話になったり逆にお世話をしていた(?)と聞く古鷹店長に口を利いて貰い、さらに学園へは犬先輩の太いパイプでもある桐生の『姫君プリンセス』を通して例外的にアルバイトの許可を得、正式に夏休みの間だけ雇われるよう色々と工作して貰ったのだという。


 古鷹店長は僕を見て、この天使くんがわたしのお店で働いてくれるの? と文香もかくやと目の色を紫色にして即諾した。とても、怖かった。


「ケイ。まあアレや、超頑張れ。着替えは俺の部屋使っていいし基本的にはメイクは俺がしてやろう。珈琲館コノハナサクヤは大学が夏休みになったら、そこのバイトの子達も休みがちに人手が減るんよ。そういうのもあって、しかも自分好みの男の子が来てくれたってんで店長は天にも昇らんと舞い上がってる。……気をつけるんやで、マジで。油断したらアカンでほんまに。なんかあったらすぐ報告な」


 仮にこの手記を読む人がいるとしよう。その方は、きっと犬先輩の申し出や忠告に違和感を持つ方も出てくると思われる。


 夏休みになったら、バイトの子たちも休みたいのは分かる。

 しかし――、

 なぜ、たかが期間限定のアルバイトに激励が入るのか。

 なぜ、犬先輩の部屋を着替え場所にするのか。

 なぜ、僕にメイクを施すのか。


 以前きさらぎ駅の話の合間で紹介したように、古鷹店長は文香と同じ性癖を持った少々難儀な人だった。そんな彼女が、真に舞い上がる理由とは。


 答えは、ああ、文香さん。僕はあなたのことが大好きだけれど、あなたの背負った業はあまりにも深く重すぎはしませんか。……理由は読んで行けばすぐにでも分かるので、本当にすみません、僕の口から直接は語りたくありません。


「いらっしゃいませぇ」


 二十歳前後の、男女学生カップルだった。彼らはこちらに好意的な微笑みを浮かべて五番テーブル席についた。少し間をおいて、僕はグラスに注がれた水を二つと、同数の使い捨ておしぼりをトレンチに乗せて注文伺いに参上する。


 いらっしゃいませ、ご注文をどうぞぉ。中性的で控え目のアルトな声に柔らかい営業スマイルを添えて僕は接客する。男女学生カップルの客はコノハナブレンドコーヒーと、昼過ぎには早々と残りわずかになった、当店一番人気のモーガン船長のひみつバターサンドをそれぞれ注文した。


 どこの喫茶店でもそうだと思うけれども、珈琲館コノハナサクヤにも当然、目玉になる商品があった。それがこのモーガン船長のひみつバターサンドだった。


 このバターサンド、試食させて貰ってあまりの美味しさに愕然としてしまったという、いわくつきのスィーツでもあった。


 大ぶりでしっとりとした食感の手作りビスケット。そこにたっぷりと挟まれた風味高いラムレーズン入りバタークリーム、これも手作り。美味しさの最大の秘密は、モーガン船長の名で気づかれる方もおられるだろうラムレーズンにある。


 このバターサンド全般の調理レシピと味わいの核となるラムレーズン作成レシピを持ってきたのは犬先輩で、昨年の12月からの販売となっていた。


 発案者の彼は語る。


「なんかひょんなことで、キャプテンモルガンのわりとレアなラム酒を少なくとも2000回は急性アル中死するだけの数量を知り合いから貰ってな。俺、法的にはまだ酒呑めんし、仕方ないんで科学的に分析して最強にラムレーズンを作ってアイスに混ぜて食ってたんやけど、色々あってコノハナサクヤになぜかこれを卸すようになってもうた。俺自身もわけがわからん。まあ人生そんなもんや」


 発端となる当人も分からないとはいかがなものかと思えど、いずれにせよバターサンド制作のきっかけはそういうことであるらしい。


 兎にも角にも、一個、もう一個と食べたくなるほど美味しいのだった。


 ……ああ。唾液が溢れてくる。自然と舌なめずりしてしまう。

 もう少しだけ、あのバターサンドについて語りたい。

 本当に、美味しくて堪らないのだ。猫まっしぐらならぬ甘党まっしぐら。


 魅惑のラムレーズンは犬先輩の監修の元、最高の配分でバタークリームと融合する。加えてこれまた犬先輩が数科学的理論を以って作った至高のビスケットレシピを打ち立てて、焼き上がった大ぶりのビスケット二枚に最上とされる量のクリームを挟み込む。それはビスケットからはみ出るほど過剰に、だった。


 これが三個セットで、なんとたったの300円。つまり一個、100円。他所で同じものを頼めば一個で300円は取るだろうなのに。手作りで、安くて、最高に美味しくて、コスパ最高で。ちょっとないほどの目玉商品。数量限定50名様!


 ああ、また食べたい……っ。でもお客さんにお出ししないと……っ。


 残念無念……っ。


 ちなみにこの目玉商品は売れば売るほど赤字となる。なので、ぜひコーヒーとセットで注文して頂きたい。これでやっと、一応の利益が出るらしい。


 さて、話の続きを書こう。男女カップルの学生達が、モーガン船長のひみつバターサンドとコーヒーを注文したところからだった。


 注文の間、男子学生客はちょっとどころでなくもはや露骨と言ってもいいほど僕の所作を眺め続けていた。


 ――いや、違う。


 この言い方だと語弊が生じるので、修正を加えたい。厳密には、僕を見ているわけではないのだ。


 学生(特に男子学生)間で評判の当店のユニフォーム、チュール生地を随所にあしらったクラシカルメイド服を着た、ダブルの緩いおさげ髪の新人アルバイト店員『メグ』を眺めているのだった。


 この微妙な言い回しにはちゃんと理由がある。


 僕は珈琲館コノハナサクヤでアルバイトをしているが、僕そのものは『メグ』と名乗る架空の女の子に変装してメイド服の女性店員となっていた。


 それがゆえに――、


『この喫茶店で働く僕という存在は確かに在るが、同時に僕自身は存在していない』


 という、一聞しただけではどうにも理解し難い状況になっている。


 ちなみにユニフォームが単純にメイド服なだけで、別にお帰りなさいませご主人様的なお店ではなく、あくまでメインはコーヒーを出すお店である。


 なのでハートマークを代表とするケチャップデコレートされた萌えオムライスなど出てこないし、風営法に引っかかるイベントなども行なってはいない。


 グレーゾーンを攻める営業は、しばしば行なわれてはいるが……。


 男の視線には好色と好意と好奇が三つ巴に混在し、その目の動きはフリルボンネットを装着した頭から始まって顔へ、胸でワンセンテンスを置き、やがて腰から尻へと無遠慮に移動していくのがわかった。


 わざと視線に気づいたフリをしてふんわりと優しいスマイルを向けると、おお、瞬間的に彼の耳の辺りが赤く染まるのを確認してしまった。


 顔には出さないが、少々気まずい。またやってしまった。


 新人アルバイターなのだから、物珍しさでこちらを観察する客もいて当然だろう。そう考えるべきなのだ。状況を受け入れてスルーすればいい。


 なのに、自分ときたら。


 幸い、当喫茶店ユニフォームのクラシカルメイド服の基本デザインは、紺色主体のスタンダードな長袖ロングワンピースであった。


 上のブラウスは喉元までフリルのついた襟が立ち、細やかな刺繍の入った清潔なエプロンを前垂れに、スカートのすそはくるぶしの辺りまで伸びる形になっている。そして足は、白のガーターつきストッキングと黒のエナメルシューズとくる。


 要は肌の露出を極端に減らした古典的なデザインが基本形になっているため、女性ならではの繊細な身体の線を一見しても見通せないようになっている。


 ユニフォームの内側に美容コルセットおよび胸パッド、丸みを帯びた線を創出する腰パッドでがっちり固められた窮屈な体があるなどは、好色と好意と好奇で念入りにメイド服の新人店員に視線を這わせた彼としては夢にも思わないだろう。


 僕はカップルの片割れの女子学生が、相手の男の脛を爪先で蹴りつけるのを目の端で捉えた。しかし、同情する気持ちは微塵も湧いてこない。


「オーダー入りまーす」


 キッチンに向かって宣言しつつ、僕は注文端末を赤外線センサーにあてがう。


 液晶パネルが注文受領のサインを出すのを目で確認する。

 初めにも書いたように、珈琲館コノハナサクヤは大学の敷地内に店舗を持つ、コーヒーを前面に推した喫茶店だった。


 客層は店長曰く、大多数は学生達で、あとは教授以下講師陣、その他の職員、たまに連結された付属高等学校の生徒達がちらほらと。外部の人間が当店を利用するのはほとんどなくて、ごく稀に出入りの業者が休憩に利用する程度であるらしい。


 大学側からは潤沢な補助金が出ているため、熾烈な争いで生存権を獲得しようとする他の喫茶店と比べればかなりゆるい商売と言えよう。


 ならばそれなりに、注文自体を食券かタッチパネル制御に任せて、店員は運ぶだけにすれば良い気がする。むしろ管理者を一人だけ置いたセミセルフでも良い。


 いやもう、これは単純に僕の泣きごとである。すまない。平に謝る。店員が注文を取って給仕するのが店にとっても客にとっても一番良いに決まっている。


 ただ、この様式美にあたり、店長の古鷹さんは熱く語るのだった。


「メイド服のウエイトレスが甲斐甲斐しく給仕する姿とか最高でしょう? しかもキミって16歳やん。ミドルティーンのメイドさんとか夢の国やないの。千葉県の東京ナントカランドよ? もはやハイエースでダンケダンケ事案よ? わが館に連れ去り事案よ? まあこのお店、珈琲『館』なんだけど!」


 申しわけないが僕には微塵も理解できない。古鷹店長は当年27歳の、外見は目元の涼しい姐さん気質で頼れる才女風なのに、この思考の落差は残念過ぎる。


 カラコンロン、と客の来店を告げる扉のベルが鳴った。


 僕はほとんど条件反射で愛想の良い営業スマイルをそちらに向け、いらっしゃいませとお出迎えの態勢をとった。


 まず、茶色いコロコロとした柴犬が入店し、僕を見上げて尻尾を振った。次いで中背痩躯の、満月の夜の海を見つめるような美しい瞳の少年が入ってくる。


「よう、元気にやってる? メグちゃん」


 瞬間、僕の笑顔はきっと凍りついたように固まったはず。にこにこと物腰の柔らかな表情のまま近寄って、ガッと来店した美少年の腕を関節技よろしく捕まえる。


 たぶん僕の目はちっとも笑ってはいない。


 ちょうど店内を覗いていた店長に少しだけフロアをお願いしてバックルームへ移動する。あえて表現するなら、それは拉致である。


 更衣のため、特別に入室許可をもらっている無人の店長室に二人して入ると同時に、情けないかな、僕はその場にへたり込んでしまった。


「お、おい。大丈夫かケイ……やなくて、その、メグちゃん?」


「……ゃ……ぃ」


「え? え? なんて?」


「大丈夫じゃない……大問題だ……」


 本音を吐露した瞬間、胸の中でわだかまっていた不安が大量に口を突いた。


「犬先輩いいっ。さすがにこれを毎日とか人生の上級者過ぎると思うんです! 絶対にボロが出ます! バレます! 超、バレます! もしかしたら既にバレてて、陰でクスクス笑われてるかも! というかバレる以前に僕がSAN値直葬です!」


「お、おう。いやいや、大丈夫やって。めっさ可愛いから。股間にやな、こう、ぐっと来るから。野郎とかに下手に微笑むと誤解の元になるくらいやから。堂々としてたら親御さんですら気づかへん。ましてクラスメイトの奴等など。んふふふっ」


 犬先輩は含み笑いを浮かべつつ太鼓判を押すのだが、その笑みが余計に信憑性を失わせていることに彼は気づいていないのだろうか。


 ここで少しだけ、混沌の邪神か何かが悪ノリで与えたもうた僕へのロクでもない試練としか思えない現在の境遇について、その経緯を語っていこうと思う。


 期末テストを利用した王様ゲームの前哨戦は文香の勝利で終わった。


 その王様たる彼女の命令は、仮にこの手記に読者がいればもう大体の事情はお察しかと思われるがあえて文章に書き下すと――。


「夏休みの間、ケイちゃんと一緒にアルバイトがしたい! 可愛いメイド服で親しまれている大学校区内の珈琲館コノハナサクヤで! もちろんケイちゃんにはメイド服を着て貰います。恋人が毎日メイドの男の娘。バンザーイ、バンザーイ!」


 結果はこれまでの経緯を読んでの通りである。


 僕には常に女装が巷間にバレる心配があり、しかし僕を知る周囲は絶対に男だとバレないと太鼓判を押す。でも、当人からすれば不安要素でしかないわけで。


 文香はその独特の性癖への願望が叶って大変ご満悦の様子で、王様命令を下してからというものずっと上機嫌だった。そんな状態が極まり夏休みの解放感も相まってか、僕と文香は男女の役を入れ替えた大人の関係にまで発展していた。


 上に乗られて逆レ風。めちゃくちゃセックスする。


 これがまた、バリアントな部分を除外しても気持ちが良いのなんのって。女の子の気持ちが却って快感になるとは、自分でも驚きだった。


 さらに加えて、この能動的な女装の影響でぼくと妹との境界線が曖昧になりつつあった。肉体を外面とすれば、内面の精神が外面に引っ張られていくような。


 哲学者ニーチェ曰く、

 精神は、肉体の、玩具に過ぎない。

 肉体があってこそ、そこに精神が宿るのである。脳という触媒を介して。


 となれば。


「絶対にイケるって保証するんでしたら、その証拠に僕とキスしてみてください」


「えっ。マジでいいの? 俺は可愛かったら誰でも喰っちゃう雑食主義やで。下は幼稚園児から上は白寿まで。男女両方対応。それでは、いっただきまーす」


「ダメに決まってるじゃないですか、このお調子者ぉ!」


「キスしろと言いながら直後にダメとのたまうこの理不尽。切ない俺のベーゼの行く先は、いずこなるや。ええやん、ぶちゅっとしようぜ。心開いていこうぜ?」


「うるさいですよ、もう」


「ふふふ、この辺りの呼吸がいかにもオンナノコやね。ケイが演ずる『源氏名、メグちゃん』も速攻で板につきつつあるなぁー」


「切羽詰る僕で楽しまないでくださいよ。ほんと、良い空気吸い過ぎなんだから」


「そりゃもうアレよ。俺は二つ名で曰く、『ミスカトニックの悪戯者』やし」


「――あっ」


 へたり込む僕の体をスルスルと手繰るように抱き寄せ、犬先輩はこちらの頬に軽く唇を当てた。


 熱い息がかかる。


 混沌とした、痺れるような心地の吐息だった。僕は、されるがままだった。


 否、僕の中の、双子の妹、恵がされるがままを望んだ。


「これもキスのうちやね。ご納得いただけましたか『失われた半身ハーフジェミニ』の女神様?」


「う、うん……」


 返事もそこそこに僕は沈黙した。


 目を閉じて頬に当てられた唇の感覚をリフレインさせる。本当に痺れるような心地よさが頬から全身に駆け巡るのだった。断っておくが僕には同性愛の気はない。ただ、僕の中の恵がこれを良しと受け入れるのだった。


 この二面性、精神の汚染具合。もしかしたら自分はすでに発狂していて、精神強度、すなわちSAN値は底をついているのかもしれなかった。


 さらに良くない事案がある。


 先ほど触れた自身の『身体そのもの』についてだった。


 僕の身体は、目に見えて女性化が進行していた。


 主な変化は肩と腰回りだった。薄い肩がさらに華奢に感じられるようになり、腰はぎゅっと引き締まり、背中の、臀部へかけるラインは肉づいて桃尻曲線を結ぶようになっていた。胸にも変化が。わずかにしろ乳房の膨らみが見られるのだ。


 普段、女性声を出す際にはメラニー法とハイトーンを併用しているが、今となってはそれも必要なくなっていた。


 身体が慣れ切ったゆえの結果かと思っていたら違ったのだ。最近はむしろ地声のキーが上がってしまい、声を低く出すには結構な努力を伴った。


 なぜ、そうなるまで、自覚できなかったのか。


 恥ずかしい話、毎日当たり前に自己の肉体と向き合っていると、その緩やかに進行する身体の変化は、他者に指摘されるまで非常に気づきにくいものだった。


 この変化を最初に指摘したのは僕にべったりと愉しむ文香ではなかった。もっとも彼女の場合、毎日が目くるめく欲望のさ中にいるので、ある意味で思考放棄の節穴になっているきらいがある。彼女はあらゆる怪異に対して平然としていられる代償に、その業染みた欲望には決して勝てなかった。


 それはともかく、初めに僕の身体について指摘したのは『幸運ラッキーガール』女史の百合カップル、ファッションリーダーのハルアキさんだった。


 こう書いていくと、あるいはしつこいかもしれないが仮に僕の手記に読み手がいたとして、こんな風に感じる方もおられるのではないか。


 肉体が精神に影響を及ぼしたのではなく、精神が肉体に影響を及ぼしたのでは?


 確かに精神と肉体は密接な関係にあるため、精神のフィードバックを経て肉体に影響を及ぼす可能性も否定はしない。


 しかし僕が肉体からと考えるには理由があった。


 それは犬先輩の書いた、あの世界中に物議をかもした『生命全般における魂の在り処、量子的数学証明』で、人間には魂が存在しないゆえに、その内面から肉体への直接的干渉は不可能と証明されているためだった。


 まず肉体があり、そして脳を介して精神が宿り、意志が生まれ、見聞き行動する。執拗に言及するが、精神は、肉体の、玩具に過ぎないのだった。


 だが、もし仮に、僕に魂があれば?


 ナイアルラトホテップの憑依体、ヴェールヌィは僕に三愚神に関わる存在だとほのめかした。あるいは、僕も、千ある貌の一側面だとしたら?


 とまれ、僕がギチギチの美容コルセットを装着するのは男性としての最後の矜持からだった。なくてもほっそりと柔らかい女性的な肢体に変貌しつつあるのだから。


 付属機能として、このコルセットは夏季仕様であり、ナノマテリアル技術の粋を凝らした冷却効果で装着中は真夏の熱気さえ比較的快適に過ごせるようになっているのも、着用する理由の一つではあるのだが……。


 僕は、ゆっくりと目を開けた。犬先輩と彼の愛犬のセトはもう部屋にはいなかった。キスを受けて一分と経っていないはずがずいぶん時間が過ぎたような、いつの間にか僕は古鷹店長のデスクチェアーにぺたんと座らされていた。


「もっと、いてくれてもいいのに」


 僕の中の恵が不満を漏らすのを感じたので、彼女のために口に出してみる。


 しかし同時に思う。それは本当なのかと。いわんや妹の恵をダシにして、本当は自分でも気づいていない同性愛的な感情の吐露ではないのかと。


 鏡に映る恵そっくりの自分にやや自嘲気味の笑みを向け、僕は腰を引いて店長の出クスチェアーから立ち上がった。と、同時にドアにノックが入った。


 店長室に引き籠ったのを心配して誰かが様子を見に来てくれたらしい。僕は心配させじと、とっさに中性的な控え目のアルト声ではぁいと愛想よく返事した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る