第32話 きさらぎ駅と撤饌の巫女 その6

 絶叫。


 クロエは頭を抱えてしゃがみ込んだ。


 それにも耐えられず崩れ伏した。叫びながら痙攣を始めた。低い声。晩秋の肌寒い夜のはずが薄暗いさ中でもわかる凄まじい発汗だった。


 もうひとつ絶叫が。


 嘘つきジョージだった。


 なんと彼はすでに駅にたどり着いていたのだった。茂みの中から飛び出して、喉を押さえていた。呼吸ができないらしかった。


 ジョージは爪を立て、自らの喉をひっかいた。


 すると顔が真っ二つに裂け、中から別な顔が表れた。ラバーフェイスを使った特殊メイクだった。中身は発狂してさえいなければ精悍な顔立ちの黄色人種に見えた。彼はスーツを脱ぎ払い、シャツを破り捨て、体をひっかきだした。


 するとぶよぶよしたものが崩れ始めた。特殊処理を施したシリコンの、いわゆる肉襦袢だった。彼はそれも脱ぎ払う。鍛え抜かれた鉄芯の如き肉体が表れた。


 嘘つきジョージ。それはあだ名の如く、自らの実体すら嘘で飾っていた。


「三つの炎を噴きだす瞳! 黒い翼! 漆黒のファラオ! なんだ、なんなのだそいつは! どうなっているんだ! 俺は、俺は諜報部局のエリート様だぞ! 数ある任務をこなし、われらが合衆国の繁栄のために働いてきた! ああ、ああッ! 俺を見るな! 俺を見ないでくれ! そんな知識はいらん! やめてくれ! やめろ! 俺はその道化顔のガキの監視をしていただけだ! それがわが国のため! しかし、それでも、これはなんだ! やめてくれ! やめてくれ! ああッ、目の前に、黒き太陽が! 目の前に、目の前に! タイヨウガ! やぁめぇてくれええええっ!」


 嘘つきジョージは米国が放った、犬先輩を監視するためのエージェントだった。


 優秀な科学者は特に世界に影響を及ぼすものなのだった。ときには国の命令で移動規制がかかる場合もある。その人物こそが国家機密そのものとなるためだ。


 犬先輩などは数学的に反論の余地も与えない画期的な論文を書き、さらには最新の科学知識を自在に操り、最高の演算機で人類の発展に少なからず揺さぶりをかけるだろう恐るべき研究を進める天才だった。


 彼に各国の諜報部による監視がつくのは当然の成り行きであった。その代表格がアメリカ合衆国自慢のCIA諜報部員だった。犬先輩に備わる人的価値と影響力は、単純な数値では表現しきれないある種の国家戦略脅威にすらなっている。そして、通常なら暗殺対象となる。だが殺すには、あまりにも世界に対して惜しい。


 地獄の責め苦もかくや、二つの絶叫。


 幾度も紹介するに、嘘つきジョージの正体はアメリカの諜報機関、CIAのエリートにして最暗部とも言われる準軍事部隊員だった。


 それが、このざま。


 この異界へ迷い込んでから、犬先輩がまるで個人情報の閲覧でもするように目視対象の詳細なデータを読み取れるようになったのは以前語った通りだった。


 この特殊能力、彼だけに与えられたものではなかった。


 当然ながら他の三人、能代も、人喰いクロエも、嘘つきジョージにも、目視対象を客観的データとして読み取れる能力を授かっていたのだ。


 ただ、この異常なきさらぎ駅での一件。


 前振りなく与えられた特殊能力を莫迦正直に即席の探索仲間に開示するのは、慎重さのない、文字通りの思慮に欠ける行動だった。


 能ある鷹は爪を隠すという。彼らはそのことわざに倣ったわけである。


 とはいえ人喰いクロエは性急な愛憎の果てに邪神ナイアルラトホテップそのものを読み取り、発狂してしまった。


 嘘つきジョージは、優秀な諜報部員がゆえに邪神の真の姿だけでなく、さらには人間如きではとても耐えられない禁断の知識の渦まで読み取っていた。


「だから俺は、それはやめろと言ったんや……」


 犬先輩はため息交じりに呟いた。


 二人は、知ってはならない神の真理に呑まれ、あまりの負荷に脳と脳に付随する精神は完全に破壊され、目や鼻や耳など、穴という穴から血を流し、医療用修復ナノマシンですら処置できないほど体を異形に変えて絶命してしまっていた。


「能代さんは、俺の忠告通り読まずにいてくれたんやな」


「まあ、そうなるな」


 もはやただの骸となった二人に犬先輩は背を向け、巫女姿の幼き邪神を抱きかかえて駅へ向かおうとする。


 能代は彼から少し離れた位置で腕を組み、佇んでいた。さらに離れたところに、ボロボロの制服の水無月が散弾銃を背に、薄く目を開けて立っていた。


「キミヒラ少年、お前だけだったからな」


「俺だけ? 俺だけって、何かしましたっけ」


「対象人物の、数値化した客観的評価を読み取れる能力だよ」


「いわゆるステータス表ですか」


「うむ、それだ。基本的に読み取りにくい能力ではあれど、お前だけは自己紹介時に一切嘘を交えず正直に身分を明かした。わたしですら隠していたのに」


「兵庫県は神戸に居を持つ武闘派集団、阿賀野一家。並の兵隊百人よりも、一人の阿賀野の手強さよ。その首魁の奥方さんでしたっけ」


「そうだ。しかしお前は正直だった。だからわたしはお前を信じた。最初からな」


 四人と一匹は駅構内に侵入する。いや、厳密には抱っこされた一柱と三人と一匹なのだがそれはともかく。


 列車の乗り場へ立つ。そこにはすでに、音もなく、列車は待ち構えていた。


「キミヒラ少年よ、これに乗れば元の世界に戻れるか?」


「この異界での俺らを縛るものは大元から叩き潰してますんで。チャウグナー・フォーン辺りがこの世界を構築してたら、むしろ褒美が出るかも」


「そうか。では乗るか」


「ああ、一つだけ注意を。もしかしたらこの異界の主観時間と元いた世界の実際時間にズレが起きているかもしれへんので、そこだけ気をつけてください」


「キミヒラさん、能代さん。助けてくれて、ありがとう」


「水無月さん、あんたも元気でな。その銃は乗車する前に捨てときや。銃だからではなく、この世界で手に入れた物品を元世界に持ち込むのは良くなさそうや」


「響さまは、このままあなたが保護してくれるの?」


「この子は一種の神さんなんやけど、まあ任せとけ。なんか俺に懐いてるしな。ああ、そうそう。今着てる巫女服はあとで責任もって処分しとくわ」


 全員乗り込んで席に着く。ややあって、列車は静かに動き出した。不意に、強い眠気を感じて、犬先輩は二度ほどまばたきをした。


「……むう?」


 彼は桐生グループが厚意で用意してくれた、ほとんど何かの冗談みたいな軽装甲セダンの後部座席に座っていた。


 足元には愛犬のセトが侍っている。


 そして隣にはしなだれかかって眠る、巫女服の幼女邪神が。


 セダンは何ごともない風に大阪府は千早赤阪村にある、桐生先端医療ミスカトニック大学病院の関係者入り口まで行きついた。


 車内時計を確認する。いつも通っている時間のままだった。


「……マジかよ。ズレというよりいっこも動いてなかった」


 犬先輩は足元の愛犬と、彼に全身を預け、安心しきって眠る幼女姿の邪神ナイアルラトホテップの顕現体を前に、そう、呟いた。

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