第31話 きさらぎ駅と撤饌の巫女 その5
ずいぶん時間をかけて、犬先輩一行は神社の近辺までやってきた。
車を一度停止させ、建物の影から神社近辺を慎重に様子を窺う。笛と太鼓の単調な音色が相変わらず続いていた。生臭い潮の匂いでむせ返りそうだ。そういえばこの近くに、村の漁港があるはずだった。
神社本殿へは、参道への林と幾つも続く大鳥居の最奥にあった。
人影は見当たらなかった。水無月が言うに、よほどの事情がない限り村人は全員神社に集結しているという。人数は概算で30人ほど。
四人と一匹は、しばらく無言で神社への道を睨みつけた。
犬先輩は、小さく息を吐いた。片時も離れない愛犬の頭を撫でてやる。
能代は組んだ手の指をぼきぼきと鳴らした。
人喰いクロエはぶつぶつと何かを呟いていた。
水無月は、新たな装備、猟銃の子細を確認していた。
弾丸はぼろぼろになったブレザーのポケットに入るだけ入れていた。
能代は、エンジンを再起動させた。アクセルを勢いよく吹かす。
「征くぞ!」
急発進し、大鳥居を抜け、神社参道を一直線に突き抜ける。
見えた。神社本殿が。石階段を登った先に。スピードをつけて突進する。
これまで貯めていた速度を味方に、車は強引に階段を登ってゆく。シャーシー部分が石段にぶつかり悲鳴を上げた。登り切った。
吹っ飛ぶ勢いで車は神社本殿、祭祀の場に行きついた。
驚き困惑する村人。男女問わず、車で一気呵成に跳ね飛ばした。
ぐるりとハンドルを切り、この騒ぎの中で未だ正座している村人たちのど真ん中に車を突っ込ませる。彼らはなすすべもなく車に跳ね飛ばされた。
「――とある人間賛歌をテーマにした有名漫画で、作中の物凄い力を持った吸血鬼が乗車中にこう言ったんや。歩道が広いではないか……行け。ああ、まさにそんな感じやった。デカい肉がぶつかるってな、意外と重くて柔らかい衝撃なんやで」
当時の衝撃を、犬先輩はやや興奮気味に語った。
話を続けよう。四人と一匹は車から飛び降りた。村人の大半は能代のハンドルさばきの前に無力化されていた。
辛うじて軽症で残っていた村人は水無月の猟銃によって足を撃ち抜かれた。土中から外に放り出された芋虫のようにのたうち回る村人。
「あははっ。見てよ、このクソッタレ村人共。まるでゴミのようだ!」
祭場に掲げられた松明の揺れる光源を背に、水無月は陰影の濃い凄絶な笑みを浮かべてそう叫んだ。復讐に燃える少女の姿が、そこにあった。
「目指すは祭殿や、行くで! 水無月さんや、アンタは好きなようにしな!」
「ええ、すべてを根切りにするわ……ッ!」
殺意を滾らせる彼女を残し、犬先輩を先頭に三人と一匹は駆ける。
丹塗りの祭殿の中央に着飾られた巫女服の小さな女の子が鎮座していた。
祭壇には直径一メートルはある丸く大きな鏡と、人と魚と軟体生物を混ぜて悪意の限りをもって造形したおぞましい像が祀られている。
左右には掛け軸が。巨大な蛸の化け物が津波と共に顕現する図だった。間違いない。邪神クトゥルー信仰だった。
ただ、犬先輩にとってこの時点で邪神信仰など些細な問題にすり替わっていた。それよりも、遥かに恐ろしいモノが、そこに。
「この巫女! お前ら人の皮を被った悪鬼がこんな恐ろしいモノを!」
愛犬のセトが唸り声をあげていた。現在の僕達なら知っていることに、響さまと呼ばれた巫女服の幼女の存在性は、それほど巨大かつ異常なものだった。
「インスマスは100年近く昔に滅び、ただ一人異端として蔑視されていた者だけが地上に残った。その者は自らをギルマンからサハギンへと身を立て直し、戦後の混乱期の日本へ移住する。彼は今もなお邪神信仰者や。それでも彼は土地の人間と上手くやっていた。地域に溶け込み、貢献して。なのにお前らときたら。たかが人間のくせに、なぜかつての魚人どもの真似をする。しかも恐るべき混沌まで……」
犬先輩は息巻いた。背後で猟銃の発射音が定期的に轟いていた。
宣言通り、水無月は男女を問わず股間を一人一人撃ち抜いていた。彼はそれを当然の報いと見て目をそらした。
助けを呼ぶ声、銃声。呻き、銃声、悲鳴。
命乞いする声、銃声。嗚咽、間を置いて銃声、悲鳴。
せせら嗤う水無月。くはは、くははははっ。銃声、銃声、悲鳴。
祭祀を執り行なう主催らしき神主姿の老人が憤怒の形相で現れた。
手勢に四人の屈強な男を連れている。しかもこの男ども、全員が魚と人を足して2で割ったような奇怪な面をかぶり、さらには巨大な斧を装備していた。なるほどこいつら四人は生贄の首狩り人でもあるらしい。
能代は走った。狙うは神主姿の老人である。
彼女の動きは人間のそれを大きく逸脱した――否、すべては人間が持つ力の最善を駆使した結果、目に残像が残る勢いで神主の男に接敵したのだった。
腹部に零距離強打、間髪入れず蛇が絡みつくように背後に回り首に腕を、ぐるりとその老体を回転させた。みしっ、と生々しい骨のきしむ音が。
唖然とする取り巻きの男ども。その場で回転しながら崩れ落ちる神主の男。
「能代さんっ、クロエっ、耳を手で押さえて目をつむってくれ!」
犬先輩の手には『けものがうなる』が。柴犬のセトはその彼を守るように前面に出て牙をむいていた。能代もクロエも、発作的に犬先輩の言葉に従った。
そして彼は――、
切り札、魔導書、キタフ・アル・アジフの朗読を始めた。
約1300年前に書かれた魔導書。狂える詩編。大いなる混沌の書。
狂気の詩人、アヴドッラー・アル=ハズラッドによって著された、人類が知るにはあまりにも重すぎる宇宙への真理の
この書は真作にして贋作。
古代アラビア文字で書かれた原著書と同一存在である。その冒涜的な真理と事実の前に、言語の壁は存在しない。さあ、存分に智を深めよ。
四人の屈強な男どもは、詩を聞くや否や、びくりと体を硬直させ、それぞれが頭を抱えて激しく悶えた。面からたれ流れる汗と涎。
一人は盛大に胃の内容物を吐瀉し、痙攣して動かなくなった。
一人は奇声を上げて駆け出し、祭殿の柱に全力で頭をぶつけて失神した。
酷いのは三人目で、自分の肉体に歯を立てて、食べ始めたことか。
指を喰い千切り、飽き足らず二の腕の肉に歯を立てて血まみれになっていた。
最後の一人は股間を勃起させ、あり得ない量の射精をした。
テクノブレイク。濁った呻き声と共に背中からばたりと倒れて動かなくなった。
「なんだ? キミヒラ少年よ、何をした?」
朗読を終了した犬先輩に能代は訝った。四人の屈強な男が、それぞれ完膚なきまでに無力化されていたためだった。
犬先輩は質問に答える前にまずは祭壇に駆け上がり、クトゥルーの邪神像を床に叩きつけて破壊した。ついで、掛け軸を破り捨て、一メートル近くある異形の鏡を蹴り割った。諸悪の大本となる邪神信仰の偶像は、完全に破壊された。
「俺は考古学の一分野の陰秘学でも博士号を貰ってるんです。研究対象はこの呪われた本。人類が読むには早すぎる書物。その内容を彼らに聞かせてやりました」
「その結果がこれか。わたしが言うのも何だが、こう、誰よりもえげつないな」
「まあ、こいつらはそれだけの悪事を重ねてますし」
「それもそうだな。いや、そこの巫女も聞いていたはずだが、大丈夫なのか」
「そいつは巫女ではないです。立場が逆。彼女のほうが存在としてずっと上位。
「……何を、知っているんだ?」
「聞かないほうが幸せかと。それでも聞きたいなら、後で嫌というほど詳しく」
「ふむ。ならば見もしないし、聞かないでおこう。この先もずっとな」
犬先輩は、巫女服の幼女――響さまを抱き上げた。
彼女は虚ろな目のまま犬先輩を眺めた。
涙が一筋こぼれ落ちるのを、彼は見た。指先で涙をぬぐってやる。
そして祭殿より立ち去った。
途中水無月とすれ違い、背後の祭殿で銃声が五つ轟いた。村のすべての男の部分を破壊する。男も女も破壊する。彼女は目的を貫徹しようとしていた。
神社は小高い土地に建てられていた。
遠くで火の手が上がっているのが見えた。
嘘つきジョージが簡易焼夷剤で放火作業に従事しているらしかった。
犬先輩は抱き上げていた巫女服の幼女を車の後部座席にそっと座らせた。
すると、幼女は彼の服を掴んできた。
「心配すんな、ナイアルラトホテップの憑依体よ。お前がやられた屈辱は、俺らがきっちり落とし前つけてやる。何もかも破壊し、混沌に還す。約束しよう」
「……」
外なる神ナイアルラトテップは、無貌であるがゆえに千の貌を持つという。
その千のうちにはこのように幼女の態を取り、神としての力はあれど他方に比べて明らかに弱い個体が出来上がる場合がある。
幼女は服の裾をか弱い力で引っ張って、犬先輩に顔を寄せるよう求めた。彼はそのようにしてやった。幼女は顔を起こし、犬先輩と、長い接吻を交わした。
「ずっと、待ってた……」
幼女は、感極まったように犬先輩に囁く。
「繰り返される、42億の夜と、絶望。大好きだよ、わたしの、お兄ちゃん」
そうして今一度唇を交わした。垂れた唾液が顎を伝って糸を引いた。
やがて邪神幼女は満足し、静かに目を閉じた。大好き、大好き。お兄ちゃん。背後で人喰いクロエが、じっと、一連のすべてを目の当たりにしていた。
邪神クトゥルー信仰の悪辣な祭をことごとく破壊した四人と一匹は、響を乗せた車に次々と乗り込んだ。
響さまこと幼い姿のナイアルラトホテップは犬先輩の膝の上を切に望み、彼に抱きついていた。探索者達と巫女服の幼女を乗せた車は、静かに神社を去ってゆく。ちょうど社務所への運搬用側道を発見できたのでそちらから小山を降って行った。
闇夜の中、放火された家々が篝火のように燃え上がっていた。
何もかもを灰に還される村と『根切り』された村人、対する自分達探索者のコントラストは滑稽であり喜悦、犬先輩の言葉を借りれば、ざまぁねえぜのひと言で済ますには惜しい小気味良さがあった。
一行を乗せた車は、北に位置するきさらぎ駅へと向かう。
駅にはまだ嘘つきジョージは到着していないようだった。
四人と一匹と一柱は、車から慎重に降りた。
犬先輩は幼体姿の巫女服の邪神をいわゆるお姫様抱っこにしてやっていた。
「……愛は、いつも、わたしから遠ざかる」
誰かが呟いた。恐ろしく低い、男の声だった。
一同は互いを見回した。人喰いクロエは下を向いていた。
彼女が、今の呟きの主らしかった。
「ねえ、どうして?」
人喰いクロエは響を横抱きにする犬先輩に詰め寄った。男の野太い声だった。
「いや、どうしてって、何がやねん?」
犬先輩にはわけが分からない。それにしても女性の姿で男の声の迫力よ。
「わたしはそのぽっと出の幼女に劣るの?」
「俺は誰も人を比べたりした覚えはないんやが……?」
「あなたなら、もしかしたらと思っていた」
「言ってる意味がさっぱりわからん。何が言いたいねん」
人喰いクロエはぼろぼろと涙を流し始めた。化粧が溶けていく。それでも止まりそうになかった。この猟奇殺人者の情緒は極めて一方的で、不安定なものだった。
今、犬先輩の探索話を聞く僕なら何となく理由がわかる。
都市伝説になっているきさらぎ駅は、邪神信仰の村に繋がっていた。
悪鬼が人の皮を被ったような村人は、迷い人を生贄として殺して邪神に捧げ、見目麗しい女性は性的な奴隷とする。魔界の住人が夢見るような危険な土地の探索だった。吊り橋効果は存分に伴っているのだろう。
ゆえに、
犬先輩の人喰いクロエに行なった対症療法的な処置行動を、より好意的に、極めれば恋愛的にと。残念なまでに真摯、勝手すぎて的外れな。
「わたしはただ、自分を愛してくれる人が欲しかった。わたしはなぜこんなにも
人喰いクロエは犬先輩に肉薄し、ぐったりとした巫女服の邪神を奪い取った。般若面のような表情の劇的変化、凄まじい力だった。
「お、おい!」
人喰いクロエ。通称、クロエ=クロエ。本名、ヨシロウ・シャルンホルスト。
28歳の元男性。現在は性別適合化手術を受け戸籍上は女性。
特記事項、彼女は重度の小児性愛を患っている。
気に入った十歳未満の幼女を誘拐し、一方的に愛する。
やがては、殺し、死姦し、その肉をも喰らい――、
剥いだ人皮で少女の剥製を作る、サイコパス食人系猟奇殺人鬼だった。
被害者の少女の数は30をくだらない。
今しがたのクロエの発言から推測するに、幼少時から性別の違和感に相当のストレスを感じていたのだろう。女として生まれるはずが、どこを間違えたか、男だった。その精神は女性りそれなのに、肉体は男性だった。
彼女を擁護するつもりは毛ほどもない。が、それでも一端の悲哀すら感じる発言には、これまでの悪行への弁護の余地は欠片ほどにはあるのかもしれなかった。
「わたしは許さない。どうしてこうなるの? 響さま? 撤饌の巫女? いいや、違う。お前は誰だ。この淫売め。お前の正体を、わたしに、見せろ!」
「やめろ! それだけは!」
制止を聞かず、人喰いクロエは巫女服の邪神を凝視した。
そして、動きを止めた。つうっと鼻血が。
彼女の、幼き邪神を胸に抱く力がみるみる失われていくのがわかった。犬先輩は彼女から幼き姿の邪神を奪い返した。クロエは目を見開いたまま天を見上げた。
この異界に拉致されてから相も変わらず夜の空は低い雲に覆われていた。遠くの火事の炎に照らされてか、若干オレンジがかっているようにも見えた。
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