第28話 きさらぎ駅と撤饌の巫女 その2

「――おいおいマジかよ。どうなってんだこりゃ?」


 犬先輩は苦々しく呻いた。


 朝だったはずが、窓を見れば外は闇夜に覆われていた。煌々と光に照らされるのは車内のみ。タタンタタンと車輪が駆動する小気味よいリズム。


 どこへ向かっているのか、列車は揺るぎなく走っている。


 今一度、犬先輩は窓の外を眺めた。別世界を見るように、後ほど判明するにそこは本当に別世界だけれども、闇の底が広がっていた。


 まず犬先輩が最初に行なったのは、深呼吸だった。


 思わぬ事態に陥ったときほど落ち着かねばならない。深呼吸の他に素数を数えるのも悪くない。冷静に状況を受け入れ、次に取るべき行動を思案する。


 先ほど書いたように、彼がいる車両には、彼と愛犬以外に乗客はいなかった。


 足元の柴犬のセトが彼を見上げて不安げに鼻を鳴らした。


 しゃがみ込んで頭を撫でてやる。大丈夫だ、と言葉を添えて。


 おやつの犬用クッキーをひとかけ食べさせてやる。セトはぺろりと食べてしまい、犬先輩の指を何度も舐めた。どうやら落ち着いたらしかった。


 持ち物の確認をする。彼の持ち物は――。


一、魔導書『けものがうなる』その真作の贋作。

二、犬先輩執筆の各種論文入りフラッシュメモリが二個。

三、スマートフォン。演算機、前世代のハナコ一世。

四、筆記用具。犬用クッキー。ティッシュとビニール袋。

五、珈琲館コノハナサクヤのコーヒー回数券。

六、恵から貰った髪留め。

七、軽度人体修復ナノマシンアンプルが三本と浸透圧注射器。


「――たぶん気になっていると思うだろうから先に言うとだな。俺はキミの妹の恵ちゃんとは帰国してわりとすぐに友達になっててん」


 さっそく中座。ここは探索部部室である。


「そうなんですか?」


「ミスカトニック大学校区内に珈琲館コノハナサクヤってのがあるやろ? 俺、あすこの現店長とは幼稚園のチビだったころから親交があってな。あ、見るか俺の幼稚園時の写真。自分で言うのもなんやが可愛いぞ。ふふふ」


 犬先輩は写真を取り出す。話の中座から脱線へのコンボ。が、興味が先立つ。人間、可愛らしさで言えば幼年期が一番だろう。そんな犬先輩がどんな姿か、見てみたい。今現在でこんな美少年なら、おチビな彼は一体どのような容姿なのか。


 僕と文香は頭を揃えて写真を覗き込む。


 そこには葛城市立幼稚園のスモックを着た、スカート姿の女児が写っていた。


 マッシュボブの異質なまでに愛らしい幼女である。むすっとした不機嫌そうな表情。しかし、それが却って微笑ましさを醸している。


 隣には、葛城市立白鳳中学校指定のセーラー服を着たミドルヘアの少女が。彼女はしゃがみ込んで、何やら感無量の笑顔で幼女の小さな肩を抱いている。


「……犬先輩って、本当は女の子だったんですね?」


「野郎だ、野郎。幼女っぽい中身の股間部はちんちんぶらぶらポークビッツや。写真のセーラー服の女の子は今のコノハナサクヤの店長で古鷹香織さんと言ってな、スゲェ良い笑顔してるやろ。この人に女児用園児服を着せられたんやで」


「うわぁ……」


 つまり女装少年が大好物の、文香と同じ業を背負った人なのか。


「恵ちゃんは『D'ARK+ダルク・プログレス』っていう男装ビジュアル系バンドのファンやった。そのヴォーカルのナギサってヤツがコノハナサクヤの店長の従妹で、しかもミスカトニックの現役女子大学生でな、昔はオフのときはこの喫茶店でよく駄弁ってたんや」


「話の流れからして、恵はナギサさんに会うため学園に忍び込んでいたと」


「そういうこっちゃ。恵ちゃん、潜入スキルが伝説の傭兵スネークレベルやし」


 ふと、右隣に座る文香を見た。いつも部活動ではほぼ僕と犬先輩の会話で詳細を詰めていき、彼女はそれに従うというスタンスを保っていた。


 だが、今日は少々静かすぎた。嫌な予感がする。


 文香は犬先輩が見せた、彼が幼稚園児時代の写真を喰い入るように見つめていた。嫌な予感、的中である。なので見なかったことにした……かった。


「ケイちゃん、お願い。わたしのオンナノコになって」


「わたしのって。そのお願いの仕方は、色々と誤解が……」


「お願い、わかって。今すぐ男の娘成分を補給しないと、わたし死んじゃう」


「えぇ……」


 どうにも対処なしである。このままでは一向に話が進まないので、文香の要望を呑んだ僕は女生徒の姿に着替えることにした。


 悲しいかな手慣れたもので、着替えからメイク完了までたったの十数分。


 文香は満足そうに僕の腰に腕を回し、ぎゅっと抱き寄せて肩口から匂いを嗅いでいた。最近、彼女の特殊性癖に磨きがかかっているように思えてならない。


「よし、続きやろか」


 こちらも慣れたもので、犬先輩は『きさらぎ駅』探索の続きを語り出した。


 朝、送迎車に乗って千早赤阪村にある桐生先端医療ミスカトニック大学病院へ出勤途中、一瞬の出来事で夜の列車に一人と一匹が座席に座っていたところからだった。


 その車両には犬先輩と柴犬のセト以外、誰もいなかった。


 煌々と明るいのは列車内だけで、外の風景は闇夜に完全に溶け込んでしまって何も見えない。列車は、何処かへとひた走っていた。


 まず彼はスマートフォンを取り出した。しかし電子機能そのものにバグでも起きているのかスワイプもタップも受けつけない。画面は真っ暗なままだった。


 舌打ちして端末をしまう。


 なんとなく足元のセトに目をやる。そして、あれっ、と思う。


「なんや、脳裏にセトの……ステータスみたいな一覧表が浮かび上がる?」


 さすがの犬先輩も困惑しているようでわかりにくいが、つまるところ『自己や他者の能力値を客観的に、数値を交えて読み取れる』ようになっていたのだ。


 テレビゲームで例えるなら、プレイヤーキャラのステータス画面を呼び出して能力値を確認するようなものだった。最近はオンラインセッションが主流のТRPGテーブルトークで表現するなら、ちょうどキャラシートの閲覧がそれに該当する。


 悪い冗談のようで、現実だった。


 実例に柴犬のセトのステータスを見るとする。意識して見つめるだけでいい。するとセトの生年月日や性別、力強さや美醜や運勢、特技や好悪などが数値化もしくは文章化され、さらにセト独特の特記事項まで読み取れてしまう。


 もちろん単純にすべてが見通せるわけではない。


 後で分かることに、本当に知られたくないものや隠したいものに対しては、精神対抗を経てこれに勝利しないと決して読み取れなかった。


 セトは犬先輩に心を開いているのですべて読み取れる。が、他人のデータを覗こうとしても、それは必ずしもつまびらかにできるわけではないのだった。


 犬先輩は愛犬の頭を撫で、逡巡したのち、別の車両へ移動しようと決めた。


 進行方向側に向かうか、逆方向へ行くか。


 彼は目星を立てて自らの立つ場所よりガラス越しに次の車両へと目を細める。目星の主な目的は、他の誰かがいるかどうかだった。


 状況クリティカル。


 進行方向側の座席に、誰かいる。クリティカル特典でより詳しくわかる。髪の長いスーツ姿の女性らしき人物が、腕を組んで俯いて座っている、と。


 彼と愛犬は、慎重に進行方向へ、移動する。

 なるべく音を消して連結扉を開ける。

 と、女性は顔を上げた。音に反応したらしい。大した聴覚だった。


 女性は組んだ腕の右手をそっと懐に忍ばせる不可解な動きを見せた。犬先輩はこれに気づきながらも、まずはその女性に視線を当ててステータスを読み取った。


 能代弓枝のしろゆみえ。1967年5月1日生まれ。女性。国籍、日本。


「――少年か。質問だが、ここがどこだかわかるか? 携帯電話は使えるか?」


 向かってくる人物は希少宝石アレキサンドライトのような美少年で、彼が連れているのはまったく害意のなさそうな柴犬である。能代は懐に腕を突っ込んだまま尋ねた。


「それがさっぱり。記憶では車に乗っていたんやけど。あと、スマホはバグってもうてウンともスンとも言わへん。これはアカンね」


「……関西弁にしてはアクが強すぎる。わざとか? お前はなんなのだ?」


 女性は質問するばかりで自分について何も答えない。実はこの時点で犬先輩は彼女のステータスをすべて読み終えているのだが、それは置いて話を進める。


「俺は南條公平なんじょうきみひら。見たままの日本人ですわ。歳は16。この夏の8月までアメリカのミスカトニック大学ってところで研究生をやってました。飛び級ってヤツです。相棒の柴犬はセト。4年前からいつでもどこでも一緒の大事な家族です」


「なるほど。何度かメディアを通して見た覚えがあるが、ふむ、お前がそうか。奇麗な顔立ちにその道化の笑み。なるほど、嫌いではない。お前は確か、すべからく生命には魂が存在しないとか数学論文を出して世間を色々と騒がせたよな?」


「別に騒がせるようなことはした覚えないんやけど。出された事実を受け入れられず、ありもしない信仰を滾らせる科学者や宗教者が勝手に騒いでるだけで」


「事実を受け入れられない、か。ふむ、やはり『天才悪魔』と呼ばれる少年は考え方が面白いな。道化もここまでくれば大したものだ」


 女性は懐から手を出して、そのままこちらに空の手を向けた。立ち上がるからエスコートしろとのことだった。彼はそのようにしてやった。


「わたしは能代弓枝のしろゆみえ。一応、しがない会社役員の一人に数えられている。阿賀野興産株式会社という名前のな。業務内容は貿易、小売り、リース、見世物、人材派遣。それからお前と同じく見たままの日本人だ。ふふふ。歳はご想像に任せるよ。自己紹介はこれくらいでいいかな、キミヒラ少年と犬のセトよ」


「ええ、もちろんです」


 さてこの五十路の女性、能代のステータスを開示しようと思う。


 カラスの濡れ羽のような長く上品にまとめられた黒髪。

 五十路にしては瑞々しく、余裕で20年はサバを読めそうな張りのある肢体。

 彼女のゴージャスな身体を包む、センスの良い濃紺色のタイトなスーツ。

 左目が若干斜視気味ではあれど、それが却って迫力を醸し出す整った顔立ち。


 まず断わっておくに、能代の言葉には嘘はない。


 ただ言葉が、微妙に足りていないだけで。


 彼女は兵庫県は神戸に本拠地を持つ日本で一番名の知れた広域指定暴力団、その大幹部が一つ、武闘派集団阿賀野一家、その首魁の妻だった。


 端的に言えば、極道の妻である。


 阿賀野興産株式会社は、阿賀野一家のフロント企業だった。


 懐に手を突っ込む不審な動作は脇胸に呑んだ匕首に指をかけていたためで、犬先輩にわずかでもおかしな様子があれば即座に刃を抉り込むつもりでいたらしい。


 しかし思いもしない彼女好みの美少年と害意の欠片もない愛らしい柴犬が、その気持ちをあっという間に萎えさせた。ただそれだけだった。


 ここで疑問に思われた方もひょっとしたらおられるかもしれない。


 阿賀野一家、である。


 文香が修めている古武術は阿賀野流戦国太刀という。併せて彼女の出身は兵庫県神戸市だった。矢矧文香、能代弓枝、阿賀野一家。何か、関係性を感じるのだが。


 僕は文香の横顔を窺った。彼女はこちらを見ずに左手を伸ばし、犬先輩からは見えないテーブルの死角で僕の右手を握ってきた。


 彼女の手はいつになく汗ばんでいた。


 緊張している? なぜ? ……ピンときた。僕は彼女の手を恋人繋ぎにした。つまり、文香は、そういうことか。


 犬先輩は変わらず講釈を続けている。僕と文香は静かに体を詰めあって、テーブルの死角では脚と脚を密着させた。家業が何であれ文香は文香なのだ。


 僕は、彼女のことが。


 列車での犬先輩と極道の妻、能代のやり取りの続きを再開しよう。


「キミヒラ少年は後部車両よりやって来たが、後部はすべて見て回ったのか?」


「いえ、ついさっき異変に気づいて、まず能代さんが目についたんでこっちに」


 さてどうするかと考えだした矢先、後部車両より一人の女がやってきた。


 その女も一見して日本人らしかった。軽くウェーブのかかったロングの茶髪。肌は白い。女性の平均的な身長よりかなり高めのやせ型。


「あら、うふふ。おそろいで。最後尾からずっと誰もいなくて、この奇妙な列車の乗客はわたしだけかと不安になっていたのよねぇ」


 謎の女性はいささか不自然なメゾソプラノでそう言った。


 その歩みはむしろ優美だった。が、この女性の目の奥には得体の知れない、血走った肉食獣が獲物を呻吟する気配が燻っているように感じた。


 わざわざそう描写する理由。彼女のステータスを犬先輩が読み取ったため。


 しかし犬先輩はそれをおくびにも表に出さず、ニヤニヤと普段のままの様子でしれっと自己紹介をした。能代も犬先輩に続いて軽く自己紹介を済ませた。すると女性は両手を後ろ手に、ふんふんと頷きながらこちらに近寄ってきた。


「自己紹介をもらっておきながら、わたしがしないのも失礼よねぇ。わたしはクロエ=クロエ。これは通称ね。本名は秘密でお願いね。歳も、ついでに秘密でいいかしら? だって女の子だもの。職業は被服デザイナー。現在は人形の、そうね、たとえばフランス人形ビスク・ドールとかね、着せ替え専用のドレスを縫ったりして、ネットオークション経由で販売しているわぁ」


 クロエの自己紹介には危険と足りない言葉で満ち満ちていた。


 本名はヨシロウ・シャルンホルスト。

 偽名はクロエ・クロイツ。これをもじったものがクロエ=クロエ。

『元』男性。性別適合化手術後に戸籍を女性に変更している。

 日独クォーター。28歳。


 国籍は、本来はドイツ。だがとある事件をきっかけに日本へ密入国する。

 非合法国籍バイヤーにより、違法に日本国籍を取得済み。


 職業は人形専門の被服デザイナーで合ってはいる。

 ネットにてビスク・ドール用の豪奢な手製衣装を競売にかけて稼いでいる。

 彼の――いや、彼女の作品は特にマニア受けが良く、収入も十分にある。

 しかしそれはあくまで副産物でしかない。


 本当の人形被服対象は、10にも満たぬ少女の剥製に、だった。

 彼女は重度の小児性愛を患っている。アリス・コンプレックスである。


 気に入った幼女を一方的に愛し、誘拐し、殺す。遺体は食べてしまう。

 人皮は加工して剥製にし、そして自ら手製の服を着せる。

 おぞましい業を背負うサイコパスにして、食人系猟奇殺人鬼だった。


「まあ、よろしくやで」


 犬先輩は道化顔のまま彼女と握手を交わした。大した度胸だった。


 余談を重ねて、ドイツにいた頃のクロエが手にかけた幼女の数は少なくとも30はくだらなかった。犯行時は決まって満月の夜。目をつけた子どもの部屋に侵入し、攫う。かつて満月の狂人と恐れられたアルバート・フィッシュなる最悪の食人鬼がいたが、彼女にはそれに近い存在感があった。愛ゆえに人を喰うから。


 さらに前方車両より人の陰が。


 歳は40辺りだろう。白人種の、髪の毛の寂しい小太りのスーツ男だった。彼は、人当たりの良い笑顔を浮かべていた。この奇妙な列車内で。


「これはこれは。最前列からとぼとぼ歩いてやっと人に会えましたよ――って、おお、凄い。あなたはアレでしょう。ほらほらアレです。テレビで見たことのある美少年くん。科学者と宗教関係者に中指立てちゃった、天才悪魔という異称の」


「あんたは?」


「おっと、日本語で応対かぁ。そうだよね、日本人だものね。えーとコンニチワー。オゲンキデスカー、なんて。嘘、嘘。ちゃんと日本語も喋れるんだよね」


 こいつは大嘘つきだ。犬先輩は瞬時に分析した。


 あえて日本語訳で書いているが、本来の彼の喋りは癖の強い南部なまりを利かせたアメリカ英語だった。それが次からは流暢な日本語に。


 見た目の鈍重さに相応しいゆったりとした動きでこちらに歩いてきて、犬先輩の手を取って勝手に握手をした。


 そして見た目に反して矢継ぎ早に自己紹介を始めた。


「こういう場合はまず自己紹介ってね。ぼくの名前はケープ・セントジョージ。国籍はアメリカ合衆国。歳は42だよ。日本ではヤクドシとかいうんだっけ? 昨年キョートに行ったときにテンプルのモンクから聞いたね。職業は世界を股にかける敏腕営業職。ブブー。すみません嘘です。いやぁ半分は本当だけど、上司と折り合いつかなくて、無職になっちゃったのさ……」


 この男のステータスを見抜いた犬先輩は呆れかえった。しかし顔には出さないように努め、軽口をたたく男に困惑気味に肩をすくめて誤魔化した。


 当初の分析通り、彼の言葉は基本的に嘘だった。


 職業はアメリカ合衆国が誇る諜報機関、CIA職員。

 国籍はアメリカと日本、中国(台湾)、イギリス、ドイツ、フランス。

 少なくとも六つ持っていて、すべて偽名での取得だった。

 なお、本名は日米両国によって削除済み。


 出身は沖縄。ただし出生場所はハワイ。

 所属はCIAの一部署、準軍事組織パラ・ミリタリー。通称でパラミリ。

 潜入、誘拐、暗殺、破壊を主とするCIA職員のうちの最も恐ろしい部署員。

 諜報機関のさらなる暗部に従事するスパイエリート。

 年齢は老けた外見に反して31歳。これは特殊メイクによるものだった。

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