第25話 銀髪碧眼のボッチ幼女 その3

 濃密な何か。周囲を取り巻く気配の変容。


 異変。


 何もなかった空間に、突如、黒いローブにフードを被った大柄な人物が。


 その右手は無手ではあれど、酷く赤黒く、血濡れだった。あれが話に聞く『放課後の殺人鬼』であるらしい。


 殺人鬼の足元には荒縄で手足を縛られた少女が。


 年頃は僕達と同じくらいか。見覚えのない学校のセーラー服を着ている。


 彼女はこちらに気づいた。動けないまま、助けを求め必死に声を上げようとした。だがきつく噛まされた猿轡がそうさせじと邪魔をする。


 僕ら三人と一匹は動かない。


 残念ながら被害者の少女は既に邪神ナイアルラトホテップの隷下にあり、人間如きでは決して救えない。人と神。決して越えられない壁がそこにある。


 文香を見る。彼女は目を薄く開け、何の感情も表に出していなかった。太刀は鞘の上から左手に握られたまま、微動だにしない。


 殺人鬼はフードの奥の薄く緑に輝く瞳を、一瞬ほころばせるように二度明滅させた。節くれだった怪物の手。その左手で哀れな少女の胸元を乱暴に掴み上げ、嫌々と首を振る彼女を嬲るように右手は少女の頬をつうと撫でる。


 やがて、殺人鬼は、ぐっと己の右手首を少女の喉元に押し当てた。

 猿轡越しにゴボリと異音染みた悲鳴が漏れる。

 殺人鬼の手首には、特定の動作で鋭い刃が突き出る細工がつけられていた。

 まるでそれは暗殺者のそれのようで。

 少女はしばらく小刻みに痙攣し、やがて、がくりと息絶えた。


 次の瞬間だった。


 文香は納刀されたままの太刀の柄を右手で掴み、鞘ごと逆袈裟に斬り上げた。


 殺人鬼と文香との距離はおよそ五メートルだった。そこに黒い筒状の何かが跳ね飛んだ。鞘だった。ガッと重い音が。殺人鬼の頭を激しく撃ちつけていた。


 殺人鬼は驚いた様子でこちらに向いた。

 フードの奥の、緑色に輝く光。その深い緑色が明滅している。

 有り得ない、と言わんばかりの反応だった。

 そいつは死体となった被害者の少女を投げ捨て身構えようと一歩前に出る。


 が、すでに文香は滑るように敵に向かっていた。

 側転。

 文香は地面に寝転がった。


 僕は唖然とした。殺人鬼は狼狽した。


 おそらくは間近での文香の側転に目がついていかず彼女を見失ったのだ。

 攻撃。

 どういう作用なのか上手く説明がつかない。

 地に仰向けに寝そべった文香。

 その彼女の握る右手の太刀が――、

 突如地面から噴出する勢いで殺人鬼の股下を斬り上げていた。

 悲鳴。

 衝撃でたたらを踏む殺人鬼。

 連撃。

 すでに文香は、寝そべりから態勢を跳ね上げていた。

 迅い。残像すら見えるようだ。

 右足を軸に猛烈な回転を加えた独楽の如く時計回りに太刀を払う。


 殺人鬼の首が、胴よりすっぱりと旅立つのを僕は見た。


「ヘンイバットウウラヒリュウ、ダンシツ、トコヨワカレデサヨウナラ」


 文香は謡うように口にした。


 これを漢字で書き直すと、変位抜刀裏飛竜、男失、常世別れ、となる。


 目撃したからこそ、字面からどんな技なのかより理解ができてゾッとした。


「これで、『@』マークの全体的な儀式は阻止された……のでしょうか?」


「ああ、その通りや、ケイ。完璧に阻止された。そこで隠れて様子を見てた第七駆逐隊の素敵なお嬢様方もこっちにおいで。もう大丈夫やから」


「うわバレてるし。というか第七駆逐隊ってどういう意味なんですか、もう」


 首を斬り飛ばされた殺人鬼と、憐れな少女の死体はすでに消え失せていた。


 素人仕事ではできないような見事な薔薇のアーチの陰から、パティシエ部の、いや、今は園芸部だったか、潮ナツミ、漣ハルカ、曙ヒカリの三人がおっかなびっくりの様子で顔を出し、そろりそろりとこちらへやってきた。


「驚きました。生徒会から通達があって、温室から早々に退避しろだなんて」


「自分ら退避してないやーん。まあ、前会ったときに念のためポケットに護符を一枚ずつ忍び込ませたし、何より一度目で免疫つけてるから平気やろうけど……」


 いつの間に。女の子の衣服に物を忍び込ませるのはさすがにどうかと思うが、それでも精神的打撃を防げるのなら致し方のない処置か。


「一つ聞きたいです。あの被害者の子って、助けられなかったのですか?」


「詳しくは言えんけど、贄の少女を殺すまでが殺人鬼に与えられた役割で、それが果たされるまでは何がどうなろうと無敵状態になる。ヤツの頭上に核爆弾を落としても無駄や。攻撃が利くのは――今回みたいにブッた斬れるのは、あの贄の少女が絶命して殺人鬼がこの空間から消えるまでのわずか数秒のみやねん」


「そうなん……ですか」


「ときに、うちの部員の矢矧ッち、格好良かったやろ?」


「はい、それはもう。まるで物語の戦乙女を見るようで――」


「「「格好良かった……っ」」」


 部長の潮ナツミをはじめ、園芸部の面々は声をハモらせて文香を讃えた。


 漣ハルカと曙ヒカリは鞘を拾って納刀した文香の手を取り、彼女らのほうがひとつ年上なのにまるで憧れの先輩を見るような目で文香を見上げている。


 その熱を帯びた瞳。なんとも危なげな空気。


 文香は小さく首を横に振り、こんなの大したことじゃないわと答えていた。彼女の態度は言っては何だが、男前が過ぎた。


「矢矧ッちお疲れ。先輩方に背中の土埃を落としてもらっとき。それで、と」


 犬先輩は温室の天井に目を向けた。


「おら、策略は阻止したったぞ。叱ってやるから出てこいこのボッチ! ケツひっぱたいてやんよ。もしくは出てくんのが嫌やったらそっちへ行かせろや」


 いつもより少々ガラの悪い言葉尻で邪神を呼ぶのだった。


『――ボ、ボッチと違うし、絶対違うし。わたし今ペア組んでるし、もう!』


「はーい、じゃあさらに新しい二人組を作ってー」


『やめて、やめて。わたし泣いちゃう。ボ、ボッチじゃないもんっ』


 どこから見ているのか想像もつかないが間髪を入れずに言葉が返ってくる。呂律の甘やかな、いかにも幼い子ども特有の舌っ足らずな声色で反論するのだった。しかしそういう風にムキになると、ますますボッチの疑いが増すのだけれど。


「というかペアってのは朧ヨウコとちゃうやろな? それは拉致やぞ」


『自主的にいてくれてるもん。ヨウコちゃんはとっても優しくて良い子だもん。だからお兄ちゃん、わたしのことボッチって、言わないでっ』


「ははっ、残念ながら俺は一人っ子や。お前みたいなクソ妹なんざ知らん」


『お兄ちゃんの意地悪! おたんちん! 大好きなのに!』


 さらっと惚気まで入っている。本当に、どこから見ているのだろうか。幼い女の子の声が天井から響いてくるのだった。


 しかも妙に切実で、妙に真剣で、それらしくない。


 何がらしくないかと、こいつこそ千の貌を持つ無貌の混沌、邪神ナイアルラトホテップの憑依体と犬先輩の言を借りればそういうことになるのだが、話す内容だけの判断では、ただの頭の残念な子どものようにしか。


『むっ、わたしは頭の残念な子どもじゃないし。ちょっと混沌やっているだけの、ただの可愛い女の子だし。空っぽだったあなたが当たり前のように二重にしている奇跡に比べたらわたしなんて。そうでしょうハーフジェミニちゃん?』


 混沌の神なのに、ただの女の子のわけが。とツッコミを入れかける。


 ぐらり、と視界が揺れた気がした。そしてハッとした。


 そこは畑のど真ん中だった。僕ら三人と一匹、さらに園芸部の三人は、ほうれん草畑のさ中に立っていた。


 おかしいのはそれだけではなかった。


 放課後、腕時計を見れば18時近く。それにしては異様な夕方模様だった。全体の色調がすべてセピア色で統一されているのだった。


 さらに異常なのが、鏡だった。重力を無視して、青銅製の枠にはめ込まれた大小の鏡がそこここの空中に、まさしく点在しているのだった。


「ありゃあニトクリスの鏡やな。帰りにちょっと貰っていこう」


 特に落ち着いているのは犬先輩だった。


 しゃがみ込んで愛犬のセトを撫でさすってやっている。セトはお座りの態勢で気持ちよさそうに目を閉じている。一人と一匹、本当に平常心のままだった。


 ついでに僕もどういうわけか平気だった。このような異常事態に驚きこそすれ、気持ちが揺れない。凪の状態だ。


 大変なのはパティシエ部兼園芸部の三人だった。


 退去指示に従っていればこのような事態に巻き込まれずに済んだものを。とはいえこれに限っての責任の一端は犬先輩にある。先ほど彼はこう言った。そっちへ行かせろ、と。たぶん原因はこのひと言にあった。


「「「ど、どうなっているの、これぇ……?」」」


 彼女らは得体の知れない恐怖に震えながら文香に抱き着いていた。


 人間が恐怖する根源は、原因不明に対してだ――と、思っていた時期もありました。三人とも、妙に熱っぽい目つき。


 視線の先には、もちろん文香。


 いやこれ、お化け屋敷で目当ての人にわざとキャーキャー言ってくっついて甘える女の子と大差ないような……。


 なるほど、犬先輩が仕込んだ護符がまだ有効であるらしい。文香はそんな三人に戸惑いながらも優しく背中を撫でてやっている。


 先ほどまでいたはずの薔薇の温室から、突如、セピア色に染められたほうれん草畑のど真ん中に。通常なら恐怖で漏れなくSAN値チェックのはずが、実に強かな女の子達だった。やはり根本は、男子より絶対に女子の方が強い。


『お兄ちゃん、その鏡、持って帰らないでね。それはわたしのだし。絶対、ダメだから。フリじゃないから。昭和テイストのお笑い芸人じゃないから。ダメだからね』


「えー、どうしようかなー。俺、お前にすげー迷惑を喰らっているんやがー」


『じ、じゃあ一つだけ。一つだけなら持って行っていいから』


 また声だけが響いた。姿が一向に見えない。名前の通り、響くだけなのだろうか。黒幕が黒幕たるに、そろそろ出てきても良いのではないだろうか。


『だ、だって人前に出るの恥ずかしいし。お兄ちゃんだけならともかく、他の人達はちょっと怖いし。それにわたしの名前は響じゃないし。今はヴェールヌィ・ウラジミーロヴナ・ナボコワって名乗ってるし。ハーフジェミニちゃんの思考は全部読めてるし。大丈夫だし。うん、大丈夫。わたしはちっとも寂しくないし』


「響、いやヴェールヌィか。お前さんいつの間に露助になったんや。なんや知らんが、猛烈に嫌な予感がするのはなんでやろうな。ロリータか? ほんなら、お前さんの愛しのハンバート・ハンバートは一体どこの誰やねん」


『そんなのお兄ちゃんに決まってるじゃないの』


「寂しがりの邪神が銀髪ロリで、俺がハンバートの旦那とか……」


『ねぇねぇ知ってる? お兄ちゃんが引き起こした魔導書暗唱事件のとき、そこの戦乙女がまるで平気だった理由』


「いきなり話が飛びましたね」


「まあボッチやからな。対人話術スキルなんてお察しの通りや」


「ちょっと! 見えないあなた! やめて! ケイちゃんにならともかく、人前でそれだけはやめて! 皆も聞かないで! 公開処刑じゃないの!」


 慌てて文香は叫んだ。僕は良くて、他の人はダメとは一体。


 しかし無常なるかな。聞くなと言われれば聞きたくなるのが人間というもの。恐怖で文香に抱き着いて震えているようで実は単に甘えているだけの三人は、顔を上げてヴェールヌィの声に耳を傾け始めた。


『その戦乙女はね、あのとき、壇上に立ったわたしのお兄ちゃんを見て、カップリングにちょうどいい可愛い男の子を探しては18禁な妄想に浸っていたの』


「ああ、やめて。そんな殺生な……」


『で、プチ地獄襲来。でも平気だった子がいた。そこの二重螺旋。ハーフジェミニちゃん。戦乙女のハートを鷲掴みにした、彼女好みの、まるで女の子みたいな美少年。あとは、わかるよね。キスから始まって―、互いにアレコレして―、ね?』


「言わないでって、言ってるのにぃ……」


 つまり妄想に浸り切っていてあの地獄を回避していたと。その妄想の中の僕は犬先輩とどうなっていたのか、おぞましくて聞けないのがポイントである。


 それにしても、ならば今現在はどうしてそんなにも平気でいられるのだろうか。いや、特に秘密にしていた文香の性癖が少人数とはいえ他者に知られてしまった現状では、ちっとも平気ではなさそうだけれども。


『良いところに気づくわねハーフジェミニちゃん。色々と教えてあげたいな。なぜ戦乙女は『今も』平気なのか。それは『今も』妄想の真っただ中にいるから。そうだ、なぜわたしはあなたをわざわざ別称で呼ぶかも知りたい? 知りたいよね?』


「ええ、知りたいです」


『素直な子は、大好きよ。お、お友達になってあげても、いいわよ?』


「さすがに邪神の友人はちょっと」


『ひっどーい』


「いや、友誼を結ぶなんて絶対にしたらあかんし、その判断は正しい。ヴェールヌィ、それ以上その辺の事情を喋ったらもう口をきいてやらんからな」


『えー』


「マジで口をきいてやらんし、二度とベッドに潜り込ませてやらん」


『そんな、寂しくてわたし死んじゃう! オネショもしちゃう! 今夜からムーニーマンッ! お兄ちゃん、毎晩寝る前にわたしにオムツ当ててくれるよね?』


「どんだけマニアックなプレイやねんな……」


『じゃあ自分でオムツつけるから、それで兄ちゃんと一緒に寝る』


「オムツからいい加減はなれーや」


『お股に当たるふんわりした安心感って、意外と病みつきになるよ?』


「……。この話はもう終わりや。次、と言ってもアレか」


『そうよ、お兄ちゃんの考えている通り』


「やはりか。『極東の三愚神』やな? 筆頭、副王ヨグ=ソトース、次点、女神シュブ=ニグラス、末席、従僕ナイアルラトホテップ。やけど、お前は力自体はあっても基礎が弱すぎて三愚神なんてとても無理やぞ?」

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