第6話 面白くなきことを面白く その2
「SAN値チェック? アイデア判定? 成功で発狂? いずれにせよ僕の世界はすでに壊れていますので。ところで『けものがうなる』って変な題名ですね」
「精神強度ってのは自らの世界が壊れてるから関係ないとか、そんな単純な問題やないんやけどなぁー」
犬先輩は何か思わし気に鼻の頭を掻いた。
「あー、まあいいか。恵一くんは『けものがうなる』が気になるんやな? お目が高い。これはな、日本語に訳したらこれが一番適切だろうと俺が独自につけた綽名やねん。著者は古代アラビアの狂える詩人、アヴドッラー・アル=ハズラッド。彼はこれを『キタフ・アル・アジフ』と呼んでいた」
「キタフ・アル・アジフ」
「うむ。そしてこれがその詩集、真作の贋作や。胡散臭いやろ? しかしそうとしか言えん。で、考古学畑ではこういう忌まわしき書を魔導書と呼んでいる」
「えっ、あれ? 今、どうやって?」
どこから持ち出したのかまるで見当もつかない。手品、奇術、あるいは魔術師にでも化かされる感覚。犬先輩が何気に空の右手を伸ばして僕の膝にドスンと置いたのが、魔導書、真作にして贋作と呼ばれる『けものがうなる』だった。
書の大きさはフォリオ、B4の変形型ほど。装丁はいざとなれば鈍器にもなりそうな分厚く頑健な造り、開きの部分には銀を燻した渋みのある艶消し金属製の留め金とゴツゴツとした錠。何よりデザインが異様極まりなかった。
「これは、まさか人の……?」
「わかるか。まあわかるよなぁー。インパクト強いしなぁー」
表紙部分には禍々しくも念入りに縫われた目と口の、苦悶の人面皮で覆われていた。そう、表紙には、かつて生きていた人間の顔の皮が丸ごと使われた書籍なのだった。聞けば、作者たる詩人当人の人面皮であるらしい。
「なるほど、素晴らしい」
僕は呟き、嫌悪や忌避を超えて、その表紙に直に手で触れていた。
しっとりと脈動する、何か致命的なまでの体温すら感じられた。同時に、ううう、と悶えるような振動が指を振るわせた。僕は凄絶な笑みを浮かべたはずだ。
人皮加工とはいえたかが書物が、そこに存在するだけで、この邪悪さと言ったらどうだ。確かに魔導書と銘打たれるだけある。くくく。最高じゃあないか。……待て。待て待て。違う、そんなことはどうでもいい。それは重要ではない。
昨日、犬先輩に恵への変装を目撃されて取り乱した際、彼は僕に何と言ったか。
『けものがうなる』によると――、
新鮮な死体があれば、蘇らせることが理論的に可能。
蘇らせるのである。何を? 人を! 誰を? 恵に決まっている! さあ、どこから手をつけよう。まずは何をすればいいだろう。ふふふ。これは素晴らしい。
「落ち着け、恵一くん」
「でも」
「落ち着け、恵一くん。それは無理やから」
「だって」
「落ち着け、恵一くん。さもないとむっちゅりと舌を突っ込んでキスするぞ」
「――ふぇっ?」
いつのまにか書籍は消え、代わりに、僕は犬先輩に女の子にでもするような感じで背中から横向きに抱きとめられていた。俗にいう、お姫様抱っこである。そのいかがわしさ、男同士で何をやっているレベルである。
「魔導書はどこまで行っても魔導書なんや。偉い人曰く、惑うための書。OK?」
顔が、近い。目線の数センチ先に犬先輩の形のいい触れたら柔らかそうな唇がある。このまま彼がすとんと顔を下にすれば直下型キスが完成する形だった。
「キミがそれを願う為に見せたんじゃなくてだな」
「それを願う? 僕、変なこと呟いてました?」
「いや、具体的には特に。やけど目の色が変わっていた。まるで今にも蕩けてしまいそうなほど妖しく綺麗な紫色にな。なので、大体は察せる。さすがの素養持ちでも恵ちゃんが条件に加わると弱いみたいやな……」
「……」
「でもそれは無理なんや。惑う書やし。悪いな、昨日のメダパニ状態のキミがまさか俺の失言をガッツリ覚えているとは思わなんでな。重ねて、ホンマに悪いことをした。つまりそのヤッバイ稀覯本の中身の暗唱会を、図らずも俺が壇上でぶちかましたゆえにえらいコトになったっちゅう話でな」
「あ、はい……」
もはや犬先輩が全校生徒の前で魔導書の暗唱会をしてプチ地獄を作った話など、今の僕にはどうでもよかった。それは証拠の出ない過去の出来事で、今更事実を語ったとしてもせっかくの事件の終息を混沌とぶり返すだけでまったく意味がない。人間、知らないほうが幸せとはよく言ったものである。
それよりも、差し迫った問題があった。本当に、アレ的に、問題が。
「さっきの本をどうやって手に入れたか聞きたい?」
「……あ、あの」
「ん? どうしたん、恵一くん」
「あの、その。滅茶苦茶、顔が、近いです……」
「なんやったらむちゅっと一発、ベーゼを交わしておこうか?」
「それは、その、なんだか性癖が歪みそうなので、遠慮させてもらえればと……」
「あはは。ひっでえやー」
磊落に犬先輩は笑って、僕を解放してくれる。
こうやってふざけているようで、実は彼なりのやり方で狂気に触れそうになっていた僕を精神分析してくれていたようだった。
もっとも、暗唱会といい今回の魔導書といい、大半の混沌じみた出来事は彼が主体で噛んでいると考えたほうが早いのかもしれないが……。
「それで僕に素養があるとして、
異変の中心で楽しそうにタップダンスでもしていそうな犬先輩が創設する部である。こう断ずるのもいささかためらわれるが、それが世間一般にあるような部活動になるとはとても思えないのだった。
「オカ研のド素人が傾倒する似非魔術よりも、ずっと前向きで安全やと思うなぁ」
「やっぱり魔術って、あるんですか? それは効力があるものですか?」
「うん? 恵一くん、日本って国は滅多にないほどの魔術国家やで? 元首にして最高司祭のやんごとなき御方様は、東京の神聖不可侵の森にお住まいになり、毎日国民の安寧と安らぎの日々を祈願なすっているやんか」
「ああ、まあ。三種の神器など、男のロマンを掻き立てるものもありますが」
「だいたい東京自体も成立時において風水だの鬼門封じだの五色不動だの、ちょっと有り得ん規模で陣を組み、当節超一流の呪術者によって霊的防備を固めた魔術都市やし。下手なラノベよりずっと中二マインド溢れるで冗談みたいなファンタジーが大真面目に展開されているんやで、日本って国は」
「そんな大規模な儀式で作られた魔術ではなく、もう少し身近というか」
「んー、せやな。身近というたら語弊はあるけど、あるにはあるな。代償がクッソデカくて異様に使い勝手の悪いのが。怪我をして治癒魔術を焚くよりも医者に見せたほうが安心やし、下手な攻撃魔術より物理でぶん殴ったほうが早い程度のが」
「はあ……」
「それでも不思議は、科学全盛の世でも必ずある。俺はカントの哲学を否定するつもりはない。人の五感で知覚できる範囲を、科学の範囲と定義する。ああ、まったくもって正しい。しかしロマンが足りん。圧倒的中二心をくすぐるロマンがな!」
「え、えっと……」
「ロマンというのは心躍るワクワクの成分や。ワクワクする中二のないファンタジーは、灰色の現実世界と同義やで。まるでディストピアやんけ。いわんや、古代の都在りし大和の地に学園を建て、何を血迷ったのかミスカトニックと名づける時点で異変が起きないわけがない。はて、せやろ。本家のミスカトニック大学も大概やったが、こっちもだいぶ頭おかしいで。めっさヤバい。くぅぅ、ワクワクするで!」
ちょっとついていけない。なので、話題に沿いながら犬先輩のヒートアップを冷ますためにも、リアルな何かを投下することにした。
「あの、それなら。さっそく不思議が一つありまして」
「まだ結成もしてないのにもう部活。いいね、最高やん。で、その不思議とは?」
「今日のことなんですが、不明の視線を感じるんです。じっと、覗き見られているような、そんな得体の知れない違和感のような」
「なんや、女の子か? 人生に三度は来るというモテ期とちゃうか?」
「真面目に聞いてください。そりゃあ僕だって男です。機会があれば、女の子と仲良くなりたいとは思いますけれど」
「それはほれ、屋上へ出る扉の陰に隠れている、あの子とかかいな?」
「ええっ?」
犬先輩がひょいと屋上扉を指差した。なるほど誰かがいる。すりガラス越しにわずかに覗くシルエットは女生徒のものだ。
僕は、立ち上がり駆けた。バンと扉を開け放つ――いない。
階下に慌てて移動する足音が聞こえる。階段から身を乗り出して確認する。流れるようなポニーテールだけ見えて、それ以上は目視できなかった。
「……逃がしました」
「そか」
「たぶんあの子でしょうね。視線の人物は、ポニーテールの女の子みたいです」
「ふむ」
言いながら僕は頭の中で該当の髪型の女生徒をモンタージュしていた。スライド写真のように次々と女子の顔と頭部を当てはめては脳内でペケ印を打ってゆく。
ふむ、ともう一度頷く。
少なくとも自分のクラスにはいないと確信する。では、いつ、どうやって、こちらを監視していたのか。
「追えば逃げる。逃げれば追う。これ、男女の駆け引きなり。恵一くんは疑惑の彼女を追った。つまりその娘の思惑に乗った。なら、後は向こうから接触してくる」
「そんなものですか?」
「少なくとも邂逅フラグは立った。繰り返すがキミは思惑に乗ったんや。根底では、そのピーピング彼女はキミと会いたくてうずうずしてるんやし」
豆乳を飲みながら犬先輩は自信たっぷりに宣うのだった。
対する僕は、男女遍歴などほぼないため、そうなんですか、としか反応のしようがない。とりあえず言う通りに放置してみようと思った。
やがて昼食を終え、部の結成はまた後で詳細を詰めていくとして僕ら二人と一匹は教室に戻った。そうしてなべて世はこともなく、問題の視線も感じずに5、6、7時限をあっさりと過ごしていく。
「俺はちょいと担任の
放課後、犬先輩はニヤニヤと道化顔でサムズアップを残して職員室へ向かった。
「……どうしよう」
僕はこの後どうするか一瞬迷って、しばらく教室で残ることに決めた。後は向こうからコンタクトしてくる。犬先輩の言葉を信じてみようと思ったわけである。
「ポニーテールの女の子、か……」
5分10分と経つ内に教室内のクラスメイト達は部活に出るなり帰宅するなりと、30分もする頃には僕一人だけになっていた。
そのときである。
スマートフォンに一通のメールが入った。それも当学園専用アプリによる、学生コミュニティからのメールだった。
「ほ、本当に、来た……っ」
差出人は、
「D組の子だったよね、たしか」
無人の教室で僕はひとり確認をし、メールの内容文を読んでみる。
『屋上、貴方が昼食を摂っていた場所にて待つ』
なかなか硬派な書き口である。彼女の姿を思い出す。
確かに彼女は、ポニーテールだった。しかし隣のDクラスのため、関わりは選択授業で他クラスと混ざるくらいしかなく――。
「ああ、そっか。今日の3時限と4時限は選択授業だった。意識していなかったけれど、同じ授業を選べば当然教室も同じで、きっとそこに彼女はいたんだ」
そして矢矧は時間中、じっと僕を見ていたのだろう。正直ぞっとする話だが、そうせざるを得ない理由があっての行動かもしれないと考えを改める。どうであれメールから読み取れる情報も限られているので、まずは会いに行こうと思った。
屋上への階段をひた進む。
最上階から屋外へ出る扉は特別な理由がない限り、安全のため普段は閉め切られて生徒は入れないようになっている。犬先輩が例外なだけなのだった。
「うん、開いてるね」
きっと犬先輩が鍵をかけ忘れていたのだろう。あるいはわざとか。果たして屋上への扉は、半開きになっていた。慎重に扉を押して、屋外に出る。
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