第5話 面白くなきことを面白く その1
約束通り、僕は次の日から登校を再開していた。
自教室では犬先輩が朝から机に柴犬のセトを寝そべらせ、それを枕(通称、シバ枕)に顔を伏せていた。ここだけの話、そんな彼を見た僕は一瞬だけ及び腰になっていた。登校した一発目からエキセントリックだった。
「お、おはようございます、犬先輩」
「おう、恵一くん。おはようさん」
挨拶するとぱかっと顔を上げて、良い笑顔で返事が返ってくる。柴犬のセトも、こちらを見上げてわんっと愛想の良い返事をしてくれた。
一応断っておくと、今の僕はちゃんと男子生徒の姿である。男子用ブレザーにベスト、カッターシャツとネクタイ、下はスラックス。
さすがに学校まで恵のブレザーを着ていく度胸はない。
とはいえ、この学園にも性同一性者はもちろんいる。なので男子で女子生徒の制服を着ていたり、女子で男子生徒の制服を着ていたりもする。
が、僕は自己の認識をちゃんと男性だと見ている。あまり関係ないが犬先輩は、ちょっと今日は朝が寒くてなぁとブレザーの下にパーカーを着込んでいた。
話題を続けて、他校なら服装についてはかなり細かく指導していると聞く。
が、当校の服装規定では――、
『当学園生徒は指定のブレザー、スラックス、またはスカートを着用のこと』
簡潔に書かれているだけで、寒ければ下にパーカーでもセーターでも、暑ければカッターシャツ無しのTシャツだけでも、究極は指定のブレザーの下が裸でも問題はない。もちろん男子で女子生徒の制服も、女子で男子生徒の制服も問題ない。
ただ規定の末尾には『すべからく行動には一々恥を知るべし』と、要するに行ないの一つ一つに責任を持ちなさいという意味の文言は書かれてはいるのだが。
その後は特に犬先輩とは交わす会話もなく、3、4時間目の選択授業では彼は公欠で不在となり、なべて世はこともなく昼食時間まで授業は消化されていった。
いや、僕は嘘をついていた。
でも、どうすれば良く伝わるだろうか、この空気を掴むような感覚は。
何がというと、妙な視線を感じるのだった。
それがどこからなのか、はたまたいつからなのか、僕には見当もつかない。気づけばそうなっていたとしか表現できないような、息を凝らしてジッとこちらを窺う気配。狩人、あるいは大型の肉食獣を想起させる視線というか。
女子は男子の視線を、男子が考える以上に感じ取っている、という話を兄妹入れ替わりの訓練の際に恵から聞いたことがある。ならば男子が女子の視線を、逆のパターンもありうるのかもしれないと考えるのは自意識過剰だろうか。
なんだか、どうも顔の知れない女の子に見られているようなのである。
誰が? 僕が? ウソォ? なのである。
そんなどことなく落ち着かない気持ちの中、公欠不在から戻ってきた犬先輩に昼飯を喰いに行こうぜと誘われるまま、僕はホイホイとついていったのだった。
やらないか。……え? 何を? やりませんよ?
そしてそのまま生徒立ち入り禁止の屋上へと向かい、購買で適当に選んできた総菜パンにかぶりついたところでハタと気がついた。
いや、女子の視線云々ではない。朝の挨拶はすれど、なぜゆえ僕は犬先輩と当たり前のようにつるんで昼食を摂っているのか、と。
「ん、どしたん?」
「い、いえ。なんでもないです。大丈夫です」
「生徒は屋上は立ち入り禁止なの気にしてるん? 大丈夫や、桐生の『
「この学園は桐生の資金で成り立つ、将来の人材育成の場でもあるからですか」
「せや。しかもここだけの話、あいつは国内だけでも百万は下らん正規従業員を持つ冗談の塊みたいな超巨大企業、桐生グループのほぼ確定総帥候補なんやで」
「名実共に『
「おう、そういうこっちゃな」
まさか昨日今日で犬先輩と一緒に食事を摂る友人関係になっているとは自分でも思っていなかったなど、とても言えたものではない。どうやら昨日が運命の分かれ目で、僕が変人の一味に数えられるのも時間の問題であるらしい。
「ところで恵一くん。部活とか、どっかに所属していたりする?」
「幽霊部員で軽音楽部になら。部員がいなくて名義を貸してほしいと」
規則では部の最小人数は3人かららしかった。そして軽音楽部の実働人数は2人。中学の先輩からの伝手でお願いされて名前を貸したのだった。
「そうかぁ、それはいいことを聞いた。ほんなら、俺と部を作らん?」
「はい?」
「部員は部長の他に2人いればいい。となればキミ以外に幽霊部員を1人用意して、あとは顧問のセンセを頼んで生徒会に申請すれば認可は下りる。部室もくれるし部費も出る。好き勝手に活動して、遊んで、青春しようやないか」
いや、いや。何言ってるのこの人。まあ、言わんとすることはわかるけど。
「……どんな部を、想定しているのですか?」
「
「
僕は思わずオウム返しした。犬先輩はハムサンドにかぶりつき、良く咀嚼し、ごくりと飲み込んでから、せや! と頷くのだった。
傍で侍る柴犬のセトが彼の顔の動きに合わせて頷くような動きをしていた。おこぼれがくるのを今か今かと待っているらしい。なんというか、わんこ可愛い。
「フィールドワークに重点を置き、ミスカトニック校の不思議発見をするんや。言うなればミステリーハンターや。ヒトシくん人形はないけどな、ふふふ」
「いわゆる学校の七不思議とかですか? 例えるならオカ研辺りがやりそうな」
「オカ研かぁー。あすこはダメやで。俺さ、微分子工学の他に考古学部の隠秘学でもドクター持ってるねん。隠秘学ってのは神秘学とも言い換えられて、要するにオカルト学なんやな。恵一くんは知ってるか? そういう学科があるのって」
「あまり聞き慣れない学問だというのはわかります」
「まあアレや、世界の秘密を暴く研究の一派やな。オカ研部長の鈴谷ありさはまだマシやけど、部員が全然なってない。間違った魔術式で、間違った魔術円陣を用いて降霊会モドキを行なってたわ。ありゃあ、なーんの効果もないな。プラシーボ効果ならあるかもしれんが。ところが、恵一くんには隠秘学の素養があるんやなこれが」
「あるんですか? え? 僕に?」
「おうよ。で、だな。本家のほうのミスカトニック大ではこの学問は、単に考古学ってだけで覆い隠されているねん。表向きは考古学部第三考古学科。素養持ち以外この学問を修めても意味ないからな。むしろ害しかないし」
「ふむ……」
「さて、ここで簡単な問題。デデーン。俺の異称『ミスカトニックの悪戯者』はいつから呼ばれるようになったでしょうか?」
一聞すれば脈絡のなさそうな質問だった。
しかし、だからこそ意味合いが隠されているのかもしれないと、僕は真面目に思い返していた。陰秘学の素養とは何か、と。
あれは入学式の次の日のことだった。
アメリカはマサチューセッツ州アーカムシティにある、本場のミスカトニック校から帰国子女が編入してくるとのことだった。それも世界中の科学系学会と、ありとあらゆる宗教関係者を騒がせた天才児がわが校に、と。
学園側の好みそうなネタである。犬先輩はそういう鳴り物入りの扱いで、体育館に全校生徒を集めていわゆるスピーチをしたのだった。
体育館の壇上で調子よく全校生徒に向けてスピーチする犬先輩。
先端物理科学の小難しい話を噛み砕いて面白おかしく解説し、確か……そう、最新から最古へと、本当に真逆の方向の、古代の歴史に話題が移行したのだった。
あのときはなぜ突然に話題がと戸惑ったが、今ならわかる。単純に彼が考古学の一分野でも博士号を持っていたためだ。
内容はこんなくだりだった。一部を抜粋しよう。
曰く、約3500年前のエジプトのとあるヒエログリフを解読すると、
『深酒したせいで頭痛が酷い。なので今日の仕事は休むと同僚に言伝を頼んだ』
なんとも人間臭いというか、この、現代にも通ずる人となりのグダグダ感よ。
彼が言うに、人というものは昔も今も、根本は変わらないとのこと。だって人間だものとはよく言ったものだ。そして、次の話題に進み、問題の出来事が起きた。
約1300年前に書かれた黒歴史ポエムという触れ込みで、その余りある情熱で書き記された詩文紹介を始めた直後だった。
聴衆の全生徒や教師陣が次々と異変を訴えたのだ。
混乱、あるいは狂気。
立った状態からそのままばたりと背中から倒れた生徒もいる。
恐るべき勢いで胃の内容物を吐き戻した生徒もいる。
頭を抱えて伏せった生徒もいる。獣のようなうなり声を上げ続けた生徒もいる。
泡を吹いて白目を剥いた生徒もいる。
失禁した生徒もいる。脱糞した生徒もいる。両方した生徒もいる。
奇声を上げて駆け出し、壁に激突した生徒もいる。
突然凶暴化し、暴力を手当たり次第に振るいだした生徒もいる。
平然としているのか思えば、立ったまま白目を剥いて気絶している教師もいる。
厳密に定義しよう。これは混沌だと。
犬先輩はスピーチを取りやめ、黙って壇上からこちらを見下ろしていた。
無事、といっては語弊が残りそうだが、症状なく立っていたのは1年生では僕とD組の矢矧という黒髪のポニーテールが目を引く女性徒のみ。教師陣では1年C組、担任の三笠先生と校長の長門先生の二人だけ。
2年生は桐生葵――二つ名で『
3年生は残念ながら全員が狂乱状態で、収拾がつきそうになかった。
まるで魔女の釜の底だった。当然、警察と救急隊が介入する騒ぎになった。
後日、何らかの有害なガスが漏れ出ていたのではないかという捜査結果がもたらされ、事件はひとまず終息した。
ただ、不運なのは犬先輩で、世界的な科学者として名を馳せる彼は『科学者と毒ガス』という安易な連想から生徒らに恐れられ、あたかも原因はかの帰国子女の悪戯によるものとしてつけられたのが『ミスカトニックの悪戯者』なのだった。
僕は一連の出来事を、犬先輩にかいつまんで話した。
すると犬先輩は――、
「せやな。隠秘学を修めてない人からすればそんな見解になるのかもなぁ」
意味深に答えるのだった。
彼はため息をひとつつき、卵サンドの端っこをちぎって愛犬の口元に持って行った。セトは喜んで食べた。そして僕に向けてがくりと頭を下げた。
「アレはな、すまん。実は1から10まで俺のせいなんやわ」
「へ?」
いや、あなた、体育館の壇上で面白おかしくスピーチしていただけで特に何もしてませんよね? と、僕は胸のうちでくだんの事件を反芻してみた。思い返すに、彼は本当に楽し気に喋っていただけでそれ以外のことは一切、何もしていない。
「言ってる意味がさっぱりわからないんですけど……」
「スピーチで調子に乗って『けものがうなる』の内容を諳んじてしまったんや。覚えてないか? あの絶望すらも枯れ果てる詩文の息遣いを。その、宇宙の真実ってヤツを。キミは平然と聞いていたのを俺は覚えてるで」
「要約すれば、この世界は魔王にして宇宙神アザトースの見る夢に過ぎず、かの神が目覚めたときすべては儚く消え失せる、でしたっけ。なかなか面白いです」
「キミは世界に覆い隠された深遠に向かってもまるで平気やから、そんなあっけらかんな感想で済むんやで。そしてそれこそが、陰秘学を修めるための素養にあたるんやけどな。将来は陰秘学を本格的に学ぶのもアリやで」
「うーん、いまいちピンときませんね……」
「普通はな、あんなもん聞いたら人間の精神はその真理の重みに耐えられずSAN値チェックが入る。おまけに俺が喋り続ける以上、判定には大幅なマイナス補正がかかる。で、アイデア判定やな。この学園の生徒の知能は総じて優秀や。なんせ国内でも1、2を争う超絶難関校やしな。いわんやアイデア判定は成功して当然」
「はあ、まあ……」
「えぇ……。反応薄いなぁー。それで、もれなく発狂なんやで!」
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