第3話 カオスよ、世界に届け! その2

「はいっ、どちらさまでしょう?」


 サンダルを履いて表に上半身だけ出す。このとき、僕はわずか15年の短い人生とはいえ、自分史を覆すような過ちを犯していることに気づいていなかった。


「――うおっ?」


 と、素っ頓狂な声が上がった。声の主は、僕達1年生が入学したその翌日からフルスロットルで数々の伝説を打ち立てた変人、南條公平だった。彼がこれまでに何をやらかしたかは、後々たっぷりと書いていこうと思う。


「えっ。『ミスカトニックの悪戯者』……?」


 僕は彼の異称の一つを口にした。彼は少なくとも8種の二つ名ネームドを持っていた。


 曰く――。


『ミスカトニックの悪戯者』

『変態という名の紳士』

『自称最強万能魔術師』

『犬先輩、もしくはワンコ先輩』

『残念なイケメン』

『学園の黒幕』

『スクールカーストのジョーカー』

『天才悪魔』


 ぐるぐると彼につけられた異称が頭に浮かんでは消えた。


 正直に言ってもっとも会いたくない人物だった。特に49日の法要を経て再び妹の死を突きつけられ、その現実を受け入れられないでいる自分にとっては。


 ああ、ああ……。僕は胸の底で呻いた。


 なんて面倒くさそうなヤツが来たのか。そっとしていてほしいのに。僕の思考はそれ以上巡らないでいた。


 本場のアメリカはマサーチューセッツ州アーカムのミスカトニック大学ではどうなのか知らない。だが事実上の分校とも言える桐生学園ミスカトニック校では、伝統的に著名人や有名人に至った在校生には二つ名が与えられ、良くも悪くも周りから敬意が払われていた。


 ちなみに著名人と有名人との違いは、人から好かれるか避けられるかである。


 そして南條公平なんじょうきみひらは、学内での奇怪な行動で知られた『有名人』であり――、


 世間的には飛び級で本家のミスカトニック大学大学院にて博士課程を修め、昨年、たった16歳の少年が量子的数学において学会を揺るがす論文をサイエンス誌に投稿した、これについては機会を見て詳しく言及する予定の、世界中の科学者と宗教者から注目される『著名人』でもあった。


 いずれにしても飛び級ですでに院卒の癖して再び高校生活を続けるなど、どう考えても面倒くさい人物であることに疑いはないだろう。


「うーん、出来れば『犬先輩』って呼んでくれるほうが嬉しいというか」


 もうここでは南條公平とは書かずに犬先輩と表記しよう。アメリカからの帰国子女で学期始めの違いから歳が17歳だし、いつも柴犬を連れていることだし。


 犬先輩は足元で侍る柴犬のセトを抱き上げてこちらを見つめ、濡れた黒目で小首をかしげた。その美少年の所作に、思わず僕はドキリとした。えっ、なんで? 僕、男なのに。でも彼、なんて蠱惑的なのだろう。


「で、キミはどっちなん?」


 彼は意味不明な質問を投げかけてきた。僕もすぐ傍で向かい合う美少年に倣って小首をかしげてみせた。すると彼は、びくっと明らかに不自然に目を泳がせた。


「ええと、うん、せやからね」


 彼はそこで一度言葉を切った。


「キミは俺の記憶にある、コノハナサクヤによく遊びに来ていた活発な恵ちゃんなのか。それとも、クラスメイトのおとなしい感じのする恵一くんなのか」


「――あっ!」


「うん? 恵ちゃん、あっちの世界から蘇ったことを意識してなかったか。『けものがうなる』によると損壊のない新鮮な死体があれば正気度を引き換えに蘇らせることは理論的には可能なんやけど、自力蘇生とはこれいかに」


「ち、違うからっ!」


 僕はとっさに叫んでいた。恵の制服を着たまま、応対に出ていた!


 頭が沸騰する気持ち。途方もない過ちに気づいたのだ。もしこの手記を読む人がいたならこう言うだろう。こいつ、やっと気づいたのかよ! と。


 僕はサンダルのまま玄関から飛び出るやいなや、門扉を開け放って彼が逃げないよう素早く捕まえた。柴犬のセトが嬉しそうにわんわんっと二度ばかり吠えて尻尾をぶんぶん振った。犬先輩は、おっ、という表情になっていた。


 僕は構わず彼の背中を押して玄関の中に連れ込んだ。扉をバタムと閉めて後ろ手で鍵をかける。あえて表現するなら、それは拉致である。


「み、見た?」


 彼の背中越しに、僕は尋ねる。


「え、あ、おう? まあ現在進行形的で見てる、かな?」


「このことは誰にも言わないで。お願い」


「まあ確かに死人が生き返るのはちょいとセンセーショナル過ぎ――」


「ふざけないで!」


「お、おう。なんかスマン。マジでスマン。けど俺も良くわかってなくてだなぁ」


 犬先輩は抱き上げていた柴犬を足元にやって、こちらへ向き直った。


「……」


 二人して無言で見つめあった。ああ、混乱して涙まで溢れてきた。


 妹に化けている事実を――いや、このような遠回しはもうよそう。


 僕は妹を想い余って女装している事実を、それで仮初の安心感を得てうとうとと半睡してしまい、不意の来客に慌ててその格好のまま応対してしまったことを。


 それをクラスメイトの犬先輩に見られてしまったことを。


「そうか、これも奇跡ってやつか。キミは、恵一くんやったんやな」 


「……うん」


 犬先輩はポケットからハンカチを取り出し、それを優しく僕の手に握らせた。


「声まで恵ちゃんやったから、あるいはマジで蘇ったのかと真剣に考えたで」


「一度喉を固定させたら、後は無意識でも継続するよう恵と訓練したから」


「メラニー法ってヤツかいな?」


「それとハイトーンも」


「詳しく聞かせてもらってもいいかな? 恵ちゃんは俺の大切な友人でもあったし」


「うん、ここじゃあなんだから、上がって。犬は濡れ布巾を用意するから足を拭ってくれたら家に上げてもいいし。うちにもイタズラやんちゃ盛りの黒猫が2匹いて、それに僕自身も動物はわりと好きな方だから」


「そっか、すまんな。そしたらちょいと上がらしてもらうわ」


 自室にするか、もしくは恵の部屋にするか一瞬迷ったが、僕は両方とも選ばずに犬先輩をリビングに案内した。隣の和室には仏壇が安置されている。


 犬先輩はまず仏壇の前で正座をして線香を上げ、静かに手を合わせた。


 その後、彼は立ち上がって僕に勧められるままソファーに腰かけた。お茶を入れてお菓子と一緒に差し出した僕は、女の子の姿に違和感のないよう足をそろえて彼と一匹の犬の向かい側に座る。


「……」


 静かな午後のひとコマの中、二人は無言だった。


 犬先輩の愛犬が、彼の足元で顎を上げてふんふんと鼻を鳴らした。可愛い。


 かたっと音がした。わが家で飼っている黒猫姉妹のケイトとラゴが、そろって部屋の隅っこで首を伸ばしこちらの様子を窺っていた。


 見ない顔がやってきたとでも思っているのだろう、犬先輩とその柴犬が気になっているらしかった。まるで猫の銅像みたいに、じーっと見つめている。


「しかしマジでアレやな。恵ちゃんにしか見えん。惜しいのは腰から尻への丸みが幾分足りてないのと胸の貧弱さか。それさえ目を瞑ればまるで同じって言うか」


「今回は胸と腰にパッド入れてないから……」


「補助のパッドまであるんかーい。いや、そうか。あんときの恵ちゃんの妙な自信の正体は、これやったんやな」


 つい先ほどまで銅像みたいだったわが家の黒猫姉妹が、すたすたひょいっと僕の膝に乗ってきた。そして、闖入者の柴犬を上段からじっと見つめだした。


「膝の上のにゃんこーズ、名前はなんていうん?」


 たぶん、なかなか語りださない僕に気を使ってくれているのだろう。犬先輩はまったく関係のない話から会話を再スタートさせてくれる。


「ケイトとラゴです。恵が良く可愛がっていました。右前足の先がちょっと白いのがケイト。左後ろ足の先がちょっと白いのがラゴ。二匹ともメスですね」


「ほう、九曜か。魔術的で面白いな。日蝕や月蝕時に現れるという架空の妖星から名前もらったと。……そういや桐生の保養所に、ハティとマーニっていうめっさ人懐っこくておまけにちょっとアホ入ってるハスキー犬兄弟がいるんよ。そいつらわんこーズの名前のルーツが、北欧神話の月蝕の狼と日蝕の狼からきていたな」


「犬先輩の、この子。セトっていう名前のルーツはなんですか?」


「おう。これは古代エジプトの嵐と異邦人の神、龍の姿を纏ったセト神からきてる。かの神は吸血鬼ソサエティのヘブライ神族によって堕とされ、セト・アンと名が変化する。それはセトの犬という意味。時代は流れ、セト・アンはサタンと呼ばれるようになる。サタンとは敵対者という意味。はて、俺の愛犬の敵は誰やろか」


「サタン……」


 色々聞いてはまずいデンジャーワードが出てきたような気がしたので、あえてそっちには触れないよう僕は気を払った。イタリアの中にある最小の都市国家に喧嘩を売るつもりなんて微塵もない。


「ところでさっき、恵が何か自信があるような発言をしていましたけれど」


「それが、それなんや。恵一くんの恵ちゃんスタイルについてやな」


「僕の? ……ああそれって、もしかして」


「せや。男装集団の『D'ARK+ダルク・プログレス』ってインディーズのバンドのことやねん。あのヴォーカルのナギサって子は珈琲館コノハナサクヤの店長の従妹で、っていうかコノハナサクヤが何か知ってるよな? まあそれで、恵ちゃんはあすこに通ってて。熱意は凄かったで。最初は忍び込んでたのが、店長を通じて大学構内に入場できる許可までとってたからな」


「恵の行動力が半端ではないのはよく知っています。一体どうやったんだか」


「あるとき、店長が聞いてん。上手く男装してるけど女の子が夜中に出歩くの、親御さんから了承を貰っているの、ってな。そしたら恵ちゃん、したり顔で『細工は流々』って自信満々で答えててなー」


「またどこかの大怪盗の孫みたいなセリフを……」


「それで恵一くんを見たら、なるほどってな。親バレもしてないんちゃう?」


「おそらくは、バレてないかな、とは思うのですが……」


「声、男モードに戻しても別にいいんやで?」


「この姿の間はちょっと」


「徹底してるなぁ」


「あ、あの……」


「うん」


 僕は胸の中でエイヤと気合を入れた。


 そして、なぜ自分が恵の格好をしているのか、一からすべて語った。コノハナサクヤの一件もあり、犬先輩の理解はとても早かった。


 しかしいくら理解はできても納得まではできないだろうと僕は考えていた。


 なぜなら4月のクラス始めに、彼は自己紹介で自分は一人っ子と語っていたためだった。キョウダイがいない時点で、あの、親とはまたひと味違う血を分けた家族の感覚は、頭では理解できたとしても心の納得までは決してたどり着けないと僕は思うのだ。腹の立つことも多いが、それでもキョウダイというあの感覚は特に。


 案の定、犬先輩は不思議なものを聞いたような、深みのある表情になっていた。


「知ってるかもしれんけど、俺は一人っ子やから双子のその辺の機微はまるでさっぱりや。まあ、ここだけの話、妹分になるヤツはいるにはいるんやけどな。チビでロリでボッチで、クソ甘えん坊のな。たまに寝小便までしやがる。最近ちっとも構ってやってないせいでレトロゲーばっかやってたっけ。ローグとか、その辺の」


「……」


「やけど、そうすることで鎮められる想いがあるというのはわかる。少し話の方向が飛ぶけど、作家がなぜ文章を書くのか、昔、某小説家に尋ねたことがあるねん」


「そうなんですか?」


「書くことによってのみ鎮められる想いはあるらしい。ほら、俺らも日々のムカついたことを日記にしたためて、最後にファッキンクソが死ね! 滅びクサれ! どことは言わんがもげてしまえ! とか締めくくって気持ちをサッパリと払拭させたりするやん。えっ? 書かん? まあでもそれに似てるわな。恵一くんの場合『恵ちゃんになる』ことが、半身ともいえる彼女への、鎮魂歌みたいなものなんやろうな」


「鎮魂歌……」


「にしても」


「はい?」


 ソファーに深く腰かける犬先輩は、長いまつげを伏せて自らの身体を抱くように腕を回し、苦しげなポーズを取った。


 ふう、とこぼれる吐息。そして上目遣いに僕を見た。


 紅顔の美少年が物凄い色香を噴出させているような格好だった。恥ずかしい話、一瞬、男の僕が胸にキュンッとくる甘酸っぱい感情に酔いそうになった。

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