第2話 カオスよ、世界に届け! その1

 変人の犬先輩とのつき合いは、夏休みに入って数日の、7月25日現在より2ヶ月と半月ほど前から始まっていた。


 が、それを手記に書き出す前に、些細なようで自分としては重大な話、特に男としての矜持のために僕はこれまでの経緯を語らねばならないだろう。


 場所は奈良県葛城市大字加守、南大阪線近鉄二上神社口駅から西へ100メートルほど歩いた一戸建て住宅地の一角、私立桐生学園、日本ミスカトニック大学の校舎がすぐ南に見通せるわが家。


 双子の妹、生まれたのがたまたま自分が先だっただけの便宜上の妹ではあれど、それはともかく恵の49日法要が終わった次の日、5月10日のことだった。


 僕は学校に行く気にもなれずその日も欠席していた。父は僕の肩をぽんと叩き、午後からの仕事に出かけていった。


 恵は3月22日に交通事故で亡くなっていた。


 享年15歳。


 進学する高校が僕と同じ私立桐生学園ミスカトニック高等学校に確定し、国内でも有数の難関校ではあれど自由で独特な校風で有名な、明るく楽しい学園生活だけを見つめていられるはずだった日々に落ちてきた特大の不幸。突然の死。


 忌々しくも、犯人は、未だ不明のままだった。


 仏壇に目をやる。僕ら兄妹が8歳の頃に心臓の病で亡くなった母の写真の横に、新たに加えられた恵の写真が並べられている。二人とも、笑顔だった。


 自然と、涙が、溢れてくる。


 追突してきたのはメタリックシルバーの国産スポーツカーであることは、目撃者の情報や破損遺留物からわかっている。しかし犯人は未だ浮上してこない。


 日本の警察の捜査能力は、世界的にもかなり優秀だと知られている。


 そのはずが、多数の目撃者や遺留物、そして防犯カメラ映像など、捜査材料は事欠かない状況下でも犯人が出てこない。


 気が変になりそうだった。否。すでに気は変になっていた。その自覚はある。


 僕は恵の死を受け入れられないし、恵を殺したヤツが今ものうのうと生活していること自体が許しがたかった。


 もし機会を得られるならその非道の徒をありったけの残酷な方法で命乞いの一切を冷笑しつつ、おぞましいほど凄惨に地獄へと送りつけてやるのに。


 でも、それはできない。敵がどこの誰か分からない以上は、動けない。


 だから僕は、崩れゆく精神の衛生のためにも、恵は生きていることに、した。


 せめて自宅にいる間だけでも。


 そのためにはどうするか。瓜二つの僕が、恵に成り代われば良い。


 こんな実話がある。


 とある新婚夫婦の奥さんが急な病気で亡くなってしまったのだ。新婚生活の一番楽しい時分にである。夫は悲嘆にくれた。


 やがて、何を思ったのか、夫は奥さんのショーツを穿いた。


 幸い、と言っていいのか微妙ではあれど、夫の尻は奥さんの尻より小ぶりであったため、ショーツはきれいに彼の股間に収まった。そして、彼は思った。


『ああ、自分は今、妻と共にいる』


 常軌を逸した発言なのは理解できよう。ある種の笑い話であることも。だが僕は、彼がやらかした行為を決して笑わない。なんとなく、気持ちがわかるから。


 僕は恵の部屋へ行き、本来なら既に恵によって袖を通されているはずの、ミスカトニック高等学校指定女子用ブレザーをクローゼットから取り出した。


 しばらく無言で眺め、意を決する。


 専用の収納箱から恵の下着を用意して、今着ている服をすべて脱ぐ。

 自らの下着を恵のそれと取り替える。具体的にはブラとショーツをつける。

 併せて、黒の靴下に足に通す。立ち上がってカッターシャツを着る。

 リボンタイを忘れず首元に。そしてプリーツスカートを穿く。

 ベストを着てブレザーに袖を通す。姿見で確認しつつ、服装全体を整える。

 髪留めを外し、軽く櫛を通す。髪の長さはミドルに近いショート。

 化粧はあえてしない。恵はすっぴんでも十分可愛い。化粧すればなお可愛いが。


 ああ、見よ。姿見の向こうに、恵がいる。


 僕ら兄妹は双子だった。男女なので二卵性双生児だった。しかし顔立ちはおろか身長も体重も肩幅や足の大きさまで、まるで一卵性双生児のように似通っていた。


 僕の二次性徴が遅れ気味なのも双子としての同一性に拍車をかけていた。


 声はさすがに変わりつつあるけれど、メラニー法とハイトーンボイスを併用すれば恵と同質の声を作り出せた。


 そしてこれは内密の話だが、僕ら兄妹はしばしば服装と兄妹の立場を入れ替えていた。いかにもな双子ネタではあれど、リアルでの兄妹入れ替えは珍しいと思う。恵が僕の服を着て僕こと恵一となり、僕が恵の服を着て妹こと恵となるのだった。


 当時、2019年の現在から換算すれば1年と半年ほど前のこと。


 恵はインディーズのビジュアル系バンド『D'ARK+ダルク・プログレス』の男装ヴォーカルに大変入れ込んでいたのだった。


 ある日、恵はそんな彼女らアーティストと同じく男装がしたいがために――、


「わたしがケイになるから、ケイはわたしになってくれない?」


 と、わが耳を疑うようなお願いをしてきたのが、兄妹入れ替わりの発端だった。


「不公平なのよ。わたしが夜いないとお父さんはとても心配するけど、ケイだったら男の子だしそんなに心配されないでしょう? 気楽で自由で、凄く羨ましい」


 つまるところ、夜のライブに参加するとき恵のままでは父が許可しないので、ならば僕に化けて参加しようという魂胆らしかった。


 同時に、先ほど触れたように妹はかのバンドの男装ヴォーカルを大変贔屓にしていて、必然と自分も男装できるという彼女にとっての二重のメリットが付帯していた。何という自分勝手な、女の子らしい発想だろうか。


 もちろん断ってもよかった。しばらくは愚痴と泣きごとのような文句を言われるだろうが、その程度なら許容できるはず。あまりしつこいと怒ってしまえばいい。


 しかし自分達双子兄妹は8歳の頃に母を亡くし、さらには仕事で朝早くから夜中まで家にいない父を当てにできない状況下、身の回りすべての生活を兄妹二人でどうにか協力し合ってこれまでやってきたのだった。


 喧嘩はしょっちゅうで、けれどそれ以上にお互い欠かすことのないもっとも信用・信頼のできる相棒であり、双子の特異性とでも表現すべきか、まるでもう一人の自分を見るような気持ちすらあった。


 この辺りの感覚は恵もきっと同じように感じていただろう。でなければ兄妹の入れ替わり提案など絶対にしてこないはず。


「わかった。でも男なんて女の子に比べたら明らかに乱暴乱雑で、しかもファッションの幅は狭くてちっとも楽しくないかもしれないよ?」


 僕は提案を呑んだ。


 叶えられるなら叶えてあげたいのが双子兄妹の人情――と、格好つけたまでは良かった。僕の、男女入れ替わりの覚悟は、全然足りていなかった。


 喜んだ恵は、さっそくネット通販で僕用の下着を購入した。


 それは、ユニセクシャルな代物だった。


 とはいえこの下着、男でも着用できるがどう見ても女性用のそれを単純に両性着用可能と銘打っただけとしか思えない、男女間の性の深い闇を見せつけられた気分になる一品だった。だって、前面にリボンのポッチリとか、ついているんですよ?


 妹は満面の笑みを浮かべて、これを穿けと僕に強要するのだった。


 一度了承してしまってはもう逃げられぬのである。


 すったもんだがあって僕は服を剥かれてそれでも逃げようと抵抗して、最終的にはなぜか恵まで下着姿になって僕の腹に馬乗り状態でホールドをかけてくる。


 彼女は自らのブラジャーを外した。

 奥ゆかしくも控え目の、しかし形の良い乳房が露になる。


「目を逸らさないで。わたしを見て」


「そ、そんなこと言われても……」


「お互いに裸なんて見慣れているでしょう? 小学校の間はずっと一緒にお風呂に入っていたんだから。身体の洗いっこもしてたじゃない」


 続けて彼女はショーツも脱いだ。つるりと奥ゆかしいオンナノコが。せめて見ないようにと思えど、目を逸らすと怒られるのだった。なんだろうか、この理不尽は。


 そして、一瞬の気の緩みを縫って、恵は僕の穿くボクサーパンツを奪い取ってしまった。しかもあろうことか、彼女はそれをためらいもなく穿いたのだった。


「め、恵。さすがに、それはちょっと……」


「はぁ、脱ぎたてって良いわね。股間を通してケイを感じるわ。妊娠しそう」


「えぇ……」


「さあ、ブラをつけてあげる。大丈夫、慣れると癖になるわ。ショーツも、ボクサーパンツに慣れているならすぐに慣れる。興奮しておっきしたりもしなくなる」


 抵抗は無駄だとばかりに、するすると恵がつけていた下着の上下を装着させられてしまう。ああ、それはダメだ。変な興奮が、下腹部に集中してくる。


「うふふ、良く似合ってる。今、わたしのお尻に何か硬さも感じるわね?」


「み、見ないで……」


「見ないで、だなんて。ああ、どうしよう。ケイが女の子みたいでわたしが辛い。ううん、わたしがあなたなの。つまり今のわたしが、ケイそのもの」


 最後には二人で仲良く下着姿で寝転ぶ写真まで撮られてしまった。


 これ以上の抵抗したら今撮った写真をネットに流出させるからねと、わが妹の必死を通り越した捨て身の攻勢がオマケについてきた。どんな脅迫なんだか。


 しかし、もはや恵の独壇場だった。


 最初の提案をうかつにも呑んでしまったのもあるが、意味不明ではあれど凄まじい捨て身の脅迫に屈した僕は、抵抗を諦めていた。


 女の子になるためのレッスン、開始。


 肌の手入れと化粧の仕方、発声法から始まる喋り方および女の子としての思考トレース法、さらに女の子としての一般知識、可愛い服の選び方と上手な着こなし方、歩き方から始まる身振りすべての所作、およそ男子として生きる上で不要と思える技能を一からみっちりと叩き込まれたのだった。


 付き合わされる僕も堪ったものではない。が、前述の通り恵の捨て身の熱意にはとても勝てそうにないため、着々と僕は女装付随スキルを習得していった。


 ただ、わかったことがある。全般的に、女の子の生活は色々面倒くさいのだった。男が気楽なのはちょっと頷けた。


 そして、ときは1年と半年前からざっと流れて今年の5月10日。恵の49日法要が終わった次の日に時系列は立ち戻る。


 昨日に続き今日も学校を休んでいた僕は、恵の部屋に籠もり、故人を偲びつつ、それでもその死を受け入れられず想い余って彼女の制服に袖を通した時点からだ。


 自宅にいる間だけでも恵は生きていることにする。

 いや、むしろ僕こそが恵一の妹、恵だ。

 僕は恵一であり恵。

 双子の自分たちは、双子であるがゆえに二人で一つなのだ。


 そう、決めた。


 僕は恵の姿を完璧に再現させていた。

 それで多少なり気持ちの平衡を持ち直せたのだと思う。


 一種の安心感から僕は急に眠気を覚えて、女子生徒の格好のままデスクチェアーでうつらうつらと舟をこぎ始めるのだった。


 ピンポーン。来客のチャイムが鳴った気がした。だが眠気が勝る僕は動かない。


 ピンポーン。まだ僕はうつらうつらとしている。


 ピンポーンピンポーン、ピンポーン。


 ピィィィンンンッッポォオオオオオオオオオオンッッ!!!!!


 はっと目が覚めた。思わず周囲を見回した。


 どういうわけか来客チャイムが爆音に聞こえたのだった。慌てて僕は、妹の部屋から飛び出るようにして玄関へ向かった。

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