学園探訪エクスプローラー部

五月雨一二三

第1話 プロローグ『推定SAN値、ゼロ』

 珈琲館コノハナサクヤは、桐生学園日本ミスカトニック大学区内で営業する小さな喫茶店だった。


 誰人曰く、安価な割に美味しいコーヒーを飲ませる小洒落たカフェであり、何よりウエイトレスさんたちがみんな可愛い。


 その珈琲館が、夏休み限定の、僕のアルバイト先なのだった。


 僕はグラスに注がれた水と使い捨てお手拭きをトレンチに乗せ、五番テーブルへ注文伺いに向かう。


「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞぉ」


 中性的で控え目のアルト声を添わせつつ、柔らかいスマイルで接客する。


 二十歳前後の男女学生カップルの客は、コノハナブレンドコーヒーと、当店一番人気であるモーガン船長のひみつバターサンドをそれぞれ注文した。


 注文の間、男子学生客はちょっとどころでなくむしろ露骨と言ってもいいほど僕の所作を眺め続けていた。


 ――いや、違う。


 この言い方だと語弊が生じるので、修正を加えたい。厳密には、僕を見ているわけではないのだ。


 学生(特に男子学生)間で評判の当店のユニフォーム、チュール生地を随所にあしらったクラシカルメイド服を着た、ダブルの緩いおさげ髪の新人アルバイト店員『メグ』を眺めているのだった。


 この微妙な言い回しにはちゃんと理由がある。が、今ここでは語らない。


 ちなみにユニフォームが単純にメイド服なだけで、別にお帰りなさいませご主人様的なお店ではなく、あくまでメインはコーヒーを出すお店である。


 なのでハートマークを代表とするケチャップデコレートされた萌えオムライスなど出てこないし、風営法に引っかかるイベントなども行なってはいない。


 グレーゾーンを攻める営業は、しばしば行なわれてはいるが……。


 男の視線には好色と好意と好奇が三つ巴に混在し、その目の動きはフリルボンネットを装着した頭から始まって顔へ、胸でワンセンテンスを置き、やがて腰から尻へと無遠慮に移動していくのがわかった。


 わざと視線に気づいたフリをしてふんわりと優しいスマイルを向けると、おお、瞬間的に彼の耳の辺りが赤く染まるのを確認してしまった。


 顔には出さないが、少々気まずい。またやってしまった。


 新人アルバイターなのだから、物珍しさでこちらを観察する客もいて当然だろう。そう考えるべきなのだ。状況を受け入れてスルーすればいい。


 なのに、自分ときたら。


 幸い、当喫茶店ユニフォームのクラシカルメイド服の基本デザインは、紺色主体のスタンダードな長袖ロングワンピースであった。


 上のブラウスは喉元までフリルのついた襟が立ち、細やかな刺繍の入った清潔なエプロンを前垂れに、スカートのすそはくるぶしの辺りまで伸びる形になっている。そして足は、白のガーターつきストッキングと黒のエナメルシューズとくる。


 要は肌の露出を極端に減らした古典的なデザインが基本形になっているため、女性ならではの繊細な身体の線を一見しても見通せないようになっている。


 ユニフォームの内側に美容コルセットおよび胸パッド、丸みを帯びた線を創出する腰パッドでがっちり固められた窮屈な体があるなどは、好色と好意と好奇で念入りにメイド服の新人店員に視線を這わせた彼としては夢にも思わないだろう。


 僕はカップルの片割れの女子学生が、相手の男の脛を爪先で蹴りつけるのを目の端で捉えた。しかし、同情する気持ちは微塵も湧いてこない。


「オーダー入りまーす」


 キッチンに向かって宣言しつつ、僕は注文端末を赤外線センサーにあてがう。


 液晶パネルが注文受領のサインを出すのを目で確認する。

 初めにも書いたように、珈琲館コノハナサクヤは大学の敷地内に店舗を持つ、コーヒーを前面に推した喫茶店だった。


 客層は店長曰く、大多数は学生達で、あとは教授以下講師陣、その他の職員、たまに連結された付属高等学校の生徒達がちらほらと。外部の人間が当店を利用するのはほとんどなくて、ごく稀に出入りの業者が休憩に利用する程度であるらしい。


 大学側からは潤沢な補助金が出ているため、熾烈な争いで生存権を獲得しようとする他の喫茶店と比べればかなりゆるい商売と言えよう。


 ならばそれなりに、注文自体を食券かタッチパネル制御に任せて、店員は運ぶだけにすれば良い気がする。むしろ管理者を一人だけ置いたセミセルフでも良い。


 いやもう、これは単純に僕の泣きごとである。すまない。平に謝る。店員が注文を取って給仕するのが店にとっても客にとっても一番良いに決まっている。


 ただ、この様式美にあたり、店長の古鷹さんは熱く語るのだった。


「メイド服のウエイトレスが甲斐甲斐しく給仕する姿とか最高でしょう? しかもキミって16歳やん。ミドルティーンのメイドさんとか夢の国やないの。千葉県の東京ナントカランドよ? もはやハイエースでダンケダンケ事案よ? わが館に連れ去り事案よ? まあこのお店、珈琲『館』なんだけど!」


 申しわけないが僕には微塵も理解できない。古鷹店長は当年27歳の、外見は目元の涼しい姐さん気質で頼れる才女風なのにこの思考の落差は残念過ぎる。


 カラコンロン、と客の来店を告げる扉のベルが鳴った。


 僕はほとんど条件反射で愛想の良い営業スマイルをそちらに向け、いらっしゃいませとお出迎えの態勢をとった。


 まず、茶色いコロコロとした柴犬が入店し、僕を見上げて尻尾を振った。次いで中背痩躯の、満月の夜の海を見つめるような美しい瞳の少年が入ってくる。


「よう、元気にやってる? メグちゃん」


 瞬間、僕の笑顔はきっと凍りついたように固まったはず。にこにこと物腰の柔らかな表情のまま近寄って、ガッと来店した美少年の腕を関節技よろしく捕まえる。


 たぶん僕の目はちっとも笑ってはいない。


 ちょうど店内を覗いていた店長に少しだけフロアをお願いしてバックルームへ移動する。あえて表現するなら、それは拉致である。


 更衣のため、特別に入室許可をもらっている無人の店長室に二人して入ると同時に、情けないかな、僕はその場にへたり込んでしまった。


「お、おい。大丈夫かケイ……やなくて、その、メグちゃん?」


「……ゃ……ぃ」


「え? え? なんて?」


「大丈夫じゃない……大問題だ……」


 本音を吐露した瞬間、胸の中でわだかまっていた不安が大量に口を突いた。


「犬先輩いいっ。さすがにこれを毎日とか人生の上級者過ぎると思うんです! 絶対にボロが出ます! バレます! 超、バレます! もしかしたら既にバレてて、陰でクスクス笑われてるかも! というかバレる以前に僕がSAN値直葬です!」


「お、おう。いやいや、大丈夫やって。めっさ可愛いから。股間にやな、こう、ぐっと来るから。野郎とかに下手に微笑むと誤解の元になるくらいやから。堂々としてたら親御さんですら気づかへん。ましてクラスメイトの奴等など。んふふふっ」


 犬先輩は含み笑いを浮かべつつ太鼓判を押すのだが、その笑みが余計に信憑性を失わせていることに彼は気づいていないのだろうか。


『ミスカトニックの悪戯者』

『変態という名の紳士』

『自称最強万能魔術師』

『犬先輩、もしくはワンコ先輩』

『残念なイケメン』

『学園の黒幕』

『スクールカーストのジョーカー』

『天才悪魔』


 二つ名どころのレベルではない。僕が知るだけでも八つの異称を持つ彼は、ただ黙ってさえいれば、行動の一つ一つが常識的であるならば、その容姿だけで誰からも愛されるであろう紅顔の美少年だった。


 彼の名は南條公平なんじょうきみひらという。


 僕が呼んだ犬先輩という二つ名は、彼は常にセトと名づけられた柴犬を連れているためだった。


 当のセトは、店長室の隅っこで行儀よくお座りしている。どうすれば学園側から許可を取れるのか理解に及ばないが、とにかく学園より正式に犬との同伴認可が下りているため、一人と一匹は本当にいつでもどこでも一緒なのだった。


「絶対にイケるって保証するんでしたら、その証拠に僕とキスしてみてください」


「えっ。マジでいいの? 俺は可愛かったら誰でも喰っちゃう雑食主義やで。下は幼稚園児から上は白寿まで。男女両方対応。それでは、いっただきまーす」


「ダメに決まってるじゃないですか、このお調子者ぉ!」


「キスしろと言いながら直後にダメとのたまうこの理不尽。切ない俺のベーゼの行く先は、いずこなるや。ええやん、ぶちゅっとしようぜ。心開いていこうぜ?」


「うるさいですよ、もう」


「んふふふ、この辺りの呼吸がいかにもオンナノコやね。ケイが演ずる『源氏名、メグちゃん』も速攻で板につきつつあるなぁー」


「切羽詰る僕で楽しまないでくださいよ。ほんと、良い空気吸い過ぎなんだから」


「そりゃもうアレよ。俺は二つ名で曰く、『ミスカトニックの悪戯者』やし」


「――あっ」


 へたり込む僕の体をスルスルと手繰るように抱き寄せ、犬先輩はこちらの頬に軽く唇を当てた。


 熱い息がかかる。


 混沌とした、痺れるような心地の吐息だった。僕は、されるがままだった。


 否、僕の中の、双子の妹、恵がされるがままを望んだ。


 仮にこの手記を読む人がいたとして、果たしてこれが何を意味するのか皆目見当もつかないだろう。


 しかしまず自己を語る前提条件として、僕は恵一であり、同時に恵でなければならなかった。併せてアルバイト限定でメグを名乗っているけれど、これは架空存在なのでどうでもいい。


 重要なのは恵一と恵であり、僕ら双子は二人で一つだということだった。


「これもキスのうちやね。ご納得いただけましたか『失われた半身ハーフジェミニ』の女神様?」


「う、うん……」


 返事もそこそこに僕は沈黙した。


 目を閉じて頬に当てられた唇の感覚をリフレインさせる。本当に痺れるような心地よさが頬から全身に駆け巡るのだった。断っておくが僕には同性愛の気はない。ただ、僕の中の恵がこれを良しと受け入れるのだった。


 この二面性、精神の汚染具合。もしかしたら自分はすでに発狂していて、精神強度、すなわちSAN値は底をついているのかもしれなかった。僕は、ゆっくりと目を開けた。犬先輩と彼の愛犬のセトはもう部屋にはいなかった。


 キスを受けて一分と経っていないはずがずいぶん時間が過ぎたような、いつの間にか僕は古鷹店長のデスクチェアーにぺたんと座らされていた。


「――もっと、いてくれてもいいのに」


 僕の中の恵が不満を漏らすのを感じたので、彼女のために口に出してみる。


 デスクの横の壁に設置された姿見に、椅子に座る僕が映っている。


 鏡の中には少女が一人。これが、僕だ。


 栗色のロングヘアーウィッグに可愛らしいフリルつきボンネット被り、メイクはナチュラルに。しかし目元の印象を変えているので滅多なことでは知り合いにバレることはないとスタイリストの魔術師をも自称する犬先輩は保証している。さらに、服装は露出の極端に少ないクラシカルな丈の長いメイド服で、念のためにと中の身体を美容コルセットでがっちりと固めている。


 見た目だけは、美少女だった双子の妹の恵と同列に可愛らしい。


 だが、僕は、男だ。


 大事なことなので、もう一度書いておく。


 僕は、男だ。


 先月6月20日に16歳になったばかりの男子高校生。私立桐生学園、日本ミスカトニック大学付属ミスカトニック高等学校、1年C組に在学。本名は愛宕恵一。


 そして同時に、僕は双子の妹の愛宕恵だった。

 僕の半身であり、失われた僕自身。

 これも、僕。


 あり得ないけれど、この狂人の妄言の如き手記を、誰かが読んでいると仮定してみよう。まずは困惑。次に強烈な違和感。なんなのコイツ、といったところか。余人には理解しかねる、気持ちの悪い何かをつぶさに感じ取るはず。


 自分が読者として考えるに、浮かんでくる代表的な疑問はこの辺りになろうか。


一、何が悲しくて16歳の男子がメイド服を着て給仕のアルバイトをしている?

二、犬先輩とは、善意の協力者なのか、それとも悪意の第三者なのか。

三、この手記の少年はなぜ双子の妹を同時存在の半身として扱っているのか。

四、実は妹は、この哀れな女装少年の妄想ではないのか。正直、キモい。


 僕は、今一度姿見に視線をやった。

 鏡の中で、メイド服の少女が遠慮気にこちらを見つめていた。


 ふっ、とやや自嘲気味に鏡に向けて微笑みを見せてみた。

 鏡の中の少女も同じようにした。


 僕は腰を引いてデスクチェアーから立ち上がる。と、同時にドアにノックが入った。店長室に引き籠ったのを心配して誰かが様子を見に来てくれたらしい。


 僕は心配させじと、とっさに中性的なアルト声ではぁいと愛想よく返事をした。

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