第2話 本当の僕

 土曜日の昼下がり。

 清々しい程の青い空に、五月の暖かな風。出かけるにはピッタリな陽気の中、玲央は一人憂鬱な表情をしていた。

(本当に来てしまった……)

 悠里に指定された待ち合わせ場所は、高校から電車で三十分程の駅前広場だった。玲央はベンチに腰かけながら、悠里が訪れるのを待っている。だいたい十分くらいが経っただろうか。約束の時間まであと一分を切ったところで、玲央は大きめのため息を吐いた。

 駅に降りたってからずっと、カップルらしき人々をよく見かける。その理由は、近くに水族館があるからなのだろう。わざわざこの場所を選んだということは、悠里は水族館に行きたいということなのかも知れない。

(ろくに会話もしたことがない相手と、水族館なんてなぁ……)

 無意識に、玲央は頭を抱える。

 一瞬でも「クラスメイトと仲良くなるチャンス」などと思った自分が馬鹿だと思った。世の中はそんなに甘くはない。いくらきっかけが掴めても、いきなり上手くいく訳がないのだ。

 そんなマイナスモードに包まれていると、


「……式澤さん?」


 唐突に、頭上から声がかかった。

 いったい誰だ、なんてもちろん思わない。ついにその時が来てしまったのだ。玲央は観念して顔を上げる。

「…………え?」

 するとそこには、悠里――らしき何者かが立っていた。

 確かに全体的な雰囲気は悠里に似ている。髪は漆黒色のボブカットだし、背丈も教室での印象と同じような小柄なイメージのままだ。

 なのに玲央には、どうしても目の前の人物が悠里には見えなかった。

 眼鏡をかけていないというのも一つの理由だが、一番大きいのは服装にある。グレーのパーカーにデニムショートパンツ、チョコブラウンのキャスケットというボーイッシュな格好が、普段は物静かな彼女と正反対に見えてしまうのだ。

「お前、コンタクトだっんだな」

 なるべく冷静を装いつつ、玲央は率直な感想を漏らす。

 すると、


「そうだよ。というか、教室での姿よりこっちの方が本当の僕だから」


 と、何でもないように悠里は言い放った。

(え、は……? ……僕……?)

 見た目以上の衝撃が玲央の身体中が駆け巡り、上手く反応することができない。

 ──時村悠里はどこに行った?

 ただ、そう思うことしかできなかった。

「あー……はは。やっぱりそういう反応になるよね」

「いや、その……悪い。根本的なことなんだが、お前は本当に時村なのか?」

「うん。今の僕も、教室での僕も、間違いなく時村悠里だよ」

 さらりと言いながら、悠里は微笑みを浮かべる。

 相変わらず理解が追い付かない玲央に、悠里は「隣、良い?」と訊いてきた。ふわふわとした気持ちのまま頷くと、悠里は玲央の隣に腰を下ろす。

「ごめんね」

 そして、何故か一方的に謝罪の言葉を口にしてきた。意味がわからない──というよりも、正直なことを言えばさっきから滅茶苦茶だと思ってしまう。

 でも、自分の口は動かない。

 わからないことをわからないと言うよりも、彼女の言葉に耳を傾けたいと思った。この気持ちはいったい何なのだろう。その答えはもしかしたら、単純に時村悠里という存在に興味を惹かれているからなのかも知れない。

「僕はずっと、自分を隠して生きてきたんだ。でも、それが辛くて、苦しくて、いつしか耐えられなくなって……。だから僕は今、君を頼っているんだよ」

 虚空を見つめながら、悠里はポロポロと本音を零す。

 教室での姿よりこっちの方が本当の僕。

 その言葉の意味が、じわじわと胸に入り込んでくる。

「俺にはわかんねぇけどさ。その喋り方に……コンプレックスがあったりするのか」

 我ながら、聞きづらいことを聞いているな、という自覚はあった。

 でも、本当に自分を頼ってきているというのが事実なら、進まない訳にはいかないと思った。

 自分は青春が嫌いだ。だけど、それとこれとは訳が違う。向き合わなければ後悔すると、心の中の何かが告げていた。


「コンプレックスの塊でしょ、こんなの」


 やがて放たれた悠里の言葉は、驚く程に冷たい色をしていた。

 すぐにはっとして苦笑を漏らすが、時すでに遅し。歪んだ彼女の笑顔は、想像以上に玲央の心を抉っていた。

「そんな無理しなくて良いだろ。俺なんかに相談したって……ろくなこと言えねぇぞ」

「それでも聞いて欲しいんだ。……って言ったら、迷惑かな?」

 言いながら、悠里はコテンと小首を傾げてみせる。なのに表情は苦しそうなものだから、玲央はついつい眉根を寄せてしまった。

「そういうあざとい聞き方は、ちゃんと笑えるようになってから言えよ。反応に困る」

「……はは、確かにそうだ」

 乾いた笑みを零しながら、悠里は天を仰ぐ。

 こうして彼女は、本当の自分について話し始めた。


 ──僕にとっての普通は、皆にとっての普通じゃなかった。

 それに気付いたのは、中学生の頃だっただろうか。「僕」という一人称をからかわれたことがすべての始まりだったのだと思う。

 男兄弟に囲まれて育った悠里にとって、自分のことを「僕」と言うのは当たり前のことだった。女子よりも男子の方が話しやすくて、無意識に距離感が近くなってしまう。それが原因で女子達に妬まれて、いつの間にかクラスで浮くようになって……。

 やがて、自分を隠すようになった。


「眼鏡をかけて、基本的に無口で、喋る時は敬語で……って。それが式澤さんの知ってる僕だよね」

「あ、ああ……」

 戸惑いながらも、玲央は頷く。

 さっきからずっと、頭の中はぐるぐると回っていた。教室での悠里は適度に目立たなくて、クラスで浮いているという訳ではない。

 でも、そんな彼女の姿は徐々に薄れつつあった。むしろ、本当の姿を見たら誰だってそう思うだろうと確信できる。

 どう考えたって、今の彼女の方が生き生きと輝いているのだから。


「時村、お前……」

 素直な気持ちをぶつければ、悠里も少しは救われるのではないかと思う。

 なのに、言葉がうまく出てこなかった。こんな時に馬鹿すぎる、と玲央は思わず顔を強張らせる。

「式澤さん、ありがとうね。……それから」

 すると何故か、悠里からお礼を言われてしまった。訳もわからず固まっていると、今度は頭を下げてくる。

「ごめんなさい。僕は君を利用したんだ。誰かに話を聞いてもらえれば、少しは気分が楽になるかと思って……。だから今日は、君に話せて良かったよ」

 ──いやいやいや、ちょっと待てよ。

 咄嗟に、玲央はそう思った。それじゃあまるで、このまま立ち去ろうとしているみたいじゃないか、と。

 急に心が騒ぎ出す。なのに声には出ない。矛盾していて、まったくもって意味がわからない自分の姿がそこにはあった。

「……そうか」

 そうか、じゃない。

「また、学校でな」

 また、学校でな。……でもない。


「うん。今日は本当にごめんね。またね」


 去っていく。

 眉をハの字にさせながら、思い切り困ったような顔で、時村悠里が去っていく。

 何で自分に打ち明けてくれたのか。

 何でこの場所で待ち合わせたのか。

 まだまだわからないことだらけなのに、それを放り投げたまますべてが終わりそうになっている。

「…………っ」

 待ってくれ、と言いたかった。

 息を吸う。吸って、吸って、離れていく背中を見つめて、また吸って。

 でもそれが声になることはなかった。情けないことに、こんなにも大きなきっかけを目の前にしても玲央は青春になれきれなかった。「待ってくれ」と大声を出す。そんな恥ずかしいこと、できるはずがない。


(…………大声を、出さなきゃ良いのか)


 もう少しで悠里の姿が見えなくなる、その時だった。

 玲央はとあることに気が付き、スマートフォンを取り出す。電話帳の中から「時村悠里」の名前を表示し、一度も触れたことのなかった通話ボタンをタップする。

 踏み出す勇気がないのなら、文明の利器に頼れば良い。何もかもを手放すよりも、そっちの方が数倍マシだと思った。


『もしもし……?』


 ややあって、スマートフォン越しに悠里の声が聞こえてくる。

 遠目に見える悠里の姿は、消えてなくなることはなかった。きっと、立ち止まってくれているのだろう。

 ちゃんと悠里を呼び止めることができたのだ。そう思うだけで、何故か胸が弾むような気分になった。

「なぁ、時村。お前は本当に、話を聞いて欲しかっただけなのか?」

 微かに、悠里の「え?」という声が聞こえてくる。震えているような、弱々しい声だった。

「何で俺なんかに声をかけてくれたのか。何で、この場所を選んだのか。わかんねぇことだらけだよ」

『そう、だよね。……ごめんね』

「ごめんねじゃねぇよ。そうじゃ、なくてだなぁ」

 玲央は一人、片手で頭を掻きむしる。

 心のどこかで、「ええい、もう自棄だ」と叫んだ。


「教えて欲しいんだよ、お前のことを。そうじゃなきゃ俺もお前も進めねぇんだ。だから……戻ってこい」


 ありったけの勇気を込めて、玲央は自分の中の本心を告げる。


 悠里は振り向いてくれた。

 ちゃんと表情は見えないはずなのに、想像以上に鼓動が速くなる。

 あぁ、そうか。と玲央は思った。


 青春が目の毒なのは、単に自分が何も知らなかったからだ。

 でも、今なら言える。


 ──青春に触れるのも、悪くないのかも知れない、と。

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