第五章:最後の戦い

502話:墜落する闇の中で


 落ちていく。

 僅かな光も差さない無明の闇。

 これは永遠に続くのではないかと、そう錯覚しそうな終わりのない落下。

 落ちる、落ち続ける。

 俺は自然と、傍らにいるアウローラの手を握った。

 強く、そこにある熱を確かめるために。


「――私は、ここにいるわ」


 細い指。

 見た目は折れてしまいそうなのに、力強く握り返してきた。


「私も、貴方も、ボレアスだってここにいるわ。

 だから、見失わないで」

「あぁ」


 頷く。

 ここにいる。

 彼女自身が口にしたその言葉。

 たったそれだけの事を見失いそうな程に、落ちる闇は深い。

 《造物主》が生み出した虚無の穴。

 永遠の理想郷を築こうとして、挫折して自暴自棄になった神様の絞首台。

 ホントに、吊るのは自分の首だけにして貰いたいもんだ。


『ッ――――』


 呻く声は、闇を落下する竜の喉からこぼれた。

 ボレアスは苦しげに、それでも両の翼を広げ続ける。

 ……この穴には、《黒銀の王》たちが『道』を作るために先に飛び込んだはずだ。

 実際、それがなければオレたちは飛び込んだ時点で死んでいただろう。

 決死の覚悟でこじ開けられた通り道。

 そこを落ちても尚、凄まじい圧力が全方位から襲い掛かってきていた。


「大丈夫か、ボレアス」

『我のことは、気にするな……!!』


 こちらの言葉に、ボレアスは笑って応えた。

 明らかに無理をしている。

 いや、そんな簡単な表現じゃ足りないぐらいにヤバいはずだ。

 アウローラも、常に防御の魔法を絶やしてはいない。

 おかげで、俺は多少の重圧を感じる程度で済んでいる。

 だが、ボレアスは。


『長子殿も、守りは自分と竜殺しに集中しておけ。

 今の我は「足」だ。

 最低限、この身は目的の場所に届くまで、保てば良いのだ』

「……ええ、分かったわ」


 何の迷いもない声。

 ほんの僅かに苦い表情を浮かべ、それでもアウローラは頷いた。

 俺は、何も言わなかった。

 ボレアス自身が望んで、選んだことだ。

 感謝こそすれ、止めることなどできるワケもない。

 この虚無の底にいる、世界ごと心中しようとしている《造物主》。

 ソイツに辿り着くには、必要なことだった。


『……何だ、静かではないか。

 どうした竜殺しよ』

「この状況で『どうした』とか聞くか、普通」

『ハハハハハハハ!! 別に《竜体》が砕けようと、我は古き竜。

 人間は容易く死ぬが、竜たる我は不死よ。

 故に、そう湿っぽくするものではないぞ?』

「まぁ、それはそうかもしれないけどな」


 竜は不死不滅。

 それは当然、分かっている。

 肉体という器が砕けても、死ぬ事とは繋がらない。

 分かってはいる――が。


「……それでも、タダでは済まないでしょうね」


 ぽつりと呟く。

 アウローラの声には、痛みが含まれていた。


「道を作るために飛び込んだ連中だって、間違いなく覚悟の上よ。

 最悪、闇に呑まれて魂が砕ける可能性も考慮していたはず。

 ……死ななくとも、二度と元のようには戻れないかもしれない。

 お前だって、それは分かってるでしょう?」

『敢えて触れんでおいたのに、無粋よなぁ長子殿』


 笑うボレアスに、「うるさいわね」とアウローラは小さく文句を返した。

 ……肉体ではなく、魂まで砕ける。

 それが簡単に治せるものじゃないってのは、俺自身が良く知っていた。

 ボレアスに、《黒銀の王》を含めた大真竜たち。

 誰もが、覚悟した上でこの闇に挑んだ。

 そうして挑んだ他の者たちは、今はどうなってしまったのか。

 闇は深すぎて、俺たち以外は何も見えない。


『――余計なことを考えるなよ、竜殺し』


 今まさに、鱗が剥がれて血肉を削られながら。

 諭すようなボレアスの言葉には、少しの苦痛も感じ取れなかった。


『他の連中も、我も。

 やるべきことを望んでやっているに過ぎん。

 当然、理解しているだろう?』

「あぁ」

『であれば良し。重ねて言うが、我も別に死ぬ気はない。

 愚かな父上の無理心中に付き合うなど、馬鹿馬鹿しくて話にならんわ!』

「貴女も言うわね」


 笑う。

 全ての絶滅を願う、神様の暗闇の中で。

 俺たちは、いつもと大して変わらない調子で言葉を交わした。

 落ちる、落ち続ける。

 ボレアスの《竜体》は、一秒単位で細かく削れていく。


『……ッ……近付いては、来ているようだな……!』

「ええ、私にも分かるわ」


 呻くボレアスの声に、アウローラは頷く。

 俺自身は、闇が濃すぎて分からない。

 分からないが、手の中で脈打つような感覚があった。

 アウローラの手を握った方じゃない。

 もう片方、ずっと柄に触れたままの剣。

 無機質なはずの魔剣の刃が、まるで心臓のように鼓動しているのを感じた。

 コイツの刀身は、死んだ《造物主》の残骸から鍛えられたモノ。

 同じ残骸が近付いた事に、反応しているようだ。


『ぐっ……!?』


 不意に、ボレアスが悲鳴を漏らす。

 押し殺そうとして、失敗した。

 そんな声が聞こえたのと、竜の翼が半ばからもげたのは殆ど同時だった。

 真っ赤な血は、散る前に周囲の闇に呑み込まれる。

 その様は、巨大な獣の胃袋で消化されているようにも見えた。


「ボレアス!」

『構うな……!!』


 咄嗟に名を呼ぶと、竜は大きく叫び返す。

 千切れたのは片翼。

 傷は広がり、闇は残る血肉も啜ろうと押し寄せてくる。

 あと数秒も持たないかもしれないと、そう思わせるだけの絶望。

 けれど、ボレアスは残る翼を堂々と広げる。

 闇を押し返し、奈落の底へと落下――いや、飛翔する。

 手を握るアウローラの指先が、少しだけ甲冑の表面に食い込んだ。


『長子殿も、妙なことは考えるなよ!!

 先に言った通り、お前たちを底へと届けるのが我が役目だ!』

「っ……貴女は、それで……」

『構わんとも。むしろ本望だ。

 あの愚かな父に、かつて夢見た大いなる《造物主》に挑んでいるのだ。

 あり得ぬ可能性で、叶わぬ望みだったはずだ。

 それが今、何の因果か現実となっている』


 落ちる。落ちる。

 飛ぶ。飛ぶ。

 剥がれる鱗に、折れかけの翼。

 血も肉も闇に抉られて、酷い有様だ。

 それでも。

 それでも、ボレアスの飛翔は止まらない。


『……かつての我は、己に名を付けなかった。

 他の兄弟姉妹らが自己を定義する中、我だけはそれを拒んだ。

 真の名も知れぬ偉大なる父。

 己を《造物主》という超越者と名乗った彼の者に、我は近付きたかった。

 故に、敢えて《北の王》という称号のみを我が名にしたりもした。

 思い返せば、子供じみた稚拙な真似事だったがな。

 それが、今――ハハハハハハッ!』


 笑う。

 確実な死に蝕まれながら。

 かつての《北の王》――ボレアスは、笑っていた。


『近付くどころか、残骸とはいえ父そのものに挑んでいるのだからな!

 ハハハハハ! いかんな、笑いがこみ上げて止まらんぞ!

 さぁご照覧あれ、愚かな神たる《造物主》よ!

 貴様が失敗作だと切り捨てたモノが、貴様に挑もうというのだ!

 挑戦に応えるのが上位者の礼儀ではないのかっ!!』

「…………」


 叫ぶボレアスの声を、俺は黙って聞いていた。

 その声は、きっと闇の彼方に届いている。

 届いていたとしても、《造物主》が応えることはなかった。

 奈落の底は沈黙のみを返す。


『ふんっ、やはり何も言わぬか。

 ――何が《造物主》だ。貴様など、腰抜けで十分だ』


 心の底から嘲りを込めて、ボレアスは満足げに吐き捨てた。

 加速する。

 限界が近いことを悟ったのだろう。

 少しでも、穴の底までの距離を縮めるために。


「っ……ボレアス……!」

『そうだ、我はボレアスだ。

 愚かな《造物主》に憧れていた、《北の王》にあらず。

 ……うむ、流石の我も此処までだな。

 できれば底まで、送り届けたかったが』


 今しがたの言葉とは異なり、そこには無念が滲んでいた。

 あと数秒後には、ボレアスの《竜体》は完全に砕けるだろう。

 それは避けがたいし、どうしようもない。

 《造物主》のいる虚無の中心まで、きっとあと少し。

 その『あと少し』を、分厚い闇の帳が遮っていた。


「あと少しよ、ボレアス!

 あと少しなんだから、もうちょっとぐらい頑張りなさいっ!」

『ハハハハハ、長子殿は気軽に無茶を言ってくれるな』


 必死に呼びかけるアウローラ。

 それを聞いて、ボレアスはいっそ愉快そうに笑っていた。

 ――限界だ。

 どうしようもない。

 気合や根性でどうにかするのも、流石に限度がある。

 ボレアスは良く耐えた。

 なんなら、ここまで生きてるだけでも十分に奇蹟の類だった。

 手にした剣を握る。

 この刃で多少周りの闇を払ったとしても、精々気休め程度。

 そうしてこっちが下手に消耗すれば、それこそボレアスは怒るだろう。

 現状で、俺のやるべきことは殆どない。

 あるとすれば、祈るぐらいか。

 届かせるべき相手も曖昧なままで、俺は祈る。

 祈って、ボレアスに声をかけた。


「――ありがとうな、ボレアス。

 おかげで助かった」

『……ふん、らしくないぞ。竜殺しよ。

 もとより、我らはかつては殺し合った仲。

 別れを惜しむ間柄でもあるまい』

「それでも、何だかんだでここまで来た仲間だからな」

『…………仲間、仲間か』


 特に意図があった言葉ではなかった。

 けどボレアスは、面白そうに同じ単語を何度も舌の上で転がす。

 仲間。

 特に、意図があって言ったワケじゃない。

 ただ自然と、その言葉の意味にボレアスを含めていただけで。

 それを感じたか、元《北の王》様はなんとも複雑そうに笑っていた。


『特に意識したことはなかったがな。

 どうやら我も、いつの間にか随分と頭がおかしくなっていたらしい』

「嫌か?」

『いいや』


 崩壊は進む。

 天地の間で最強を誇った竜の姿は、もう見る影もない。

 俺やアウローラをまだ背に乗せているのも、普通ならあり得ないことだ。

 途切れかけた奇跡の上で、ボレアスは笑っていた。


『存外、悪くない気分だ。思いの外、悪くない旅だった。

 ……あぁ、まさか我がこんな言葉を口にするとはな』


 生きるとは、分からぬものだと。

 ボレアスは本当に、満足げに笑っていた。

 奇跡が終わる。

 限界は容赦なく、ボロボロの《竜体》を押し潰す。

 俺も、アウローラも。

 するべき事は、その限界の先に備えることだった。

 虚無の底までもうすぐ。

 幾らか削られるだろうが、闇を突き破るための力を二人で練り上げる。

 ……だから、ボレアスはここまでだ。

 奇跡は終わった。

 どれほど祈っても意味はない。

 この闇がある限り、彼女の崩壊はどうしようもなく――。


「――――


 硬く鋭い、剣にも似た女の声。

 知っている相手だ。

 知っている相手だからこそ、本気で驚いた。

 まさか今、このタイミングで聞くなんて、欠片も想像していなかった。


「《星神》は巫女たる娘の祈りを聞き、そして私は《星神》の命を受諾した。

 ……手助けは、この一度きり。

 この一振りのみだ。ありがたく拝領せよ」


 闇を押し退ける、太陽にも似た輝き。

 眩い光を放つ剣を掲げ持つのは、一人の美しい女神。

 大陸の外――《人界》に君臨する半神の一柱。

 《裁神》アストレアは、返事は不要とばかりに一方的に言い放った。

 そうしてから直ぐに、手にした剣に力を込める。


「仰ぎ見るが良い、愚かなる悪神よ!!

 我が最強の一撃たる《粛正の剣ケラウノス》を――――!!」


 行く手を遮る《造物主》の闇。

 振り下ろされるのは、この星に宿る本物の神威。

 偽りの悪神ではない真正の神の力。

 視界の全てが光で白く染まり、アストレアの気配は遠ざかる。

 何かが砕け散る音に混じって、最後の声が届いた。


「――行け。勝利を祈る」


 ぶっきらぼうだが、ありがたい言葉だった。

 向こうは見えていると信じて、剣を持つ手を掲げる。

 それから、大きく一声。


「助かった、ありがとうな!!」


 返して、俺たちは落ちていく。

 神の光が、破滅の闇を切り払った向こう側。

 死せる《造物主》が沈む、虚無の底へと。


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