第二章:最果ての塔

487話:悪王再臨


「…………」


 辿り着いた世界の果て。

 空は真っ黒に染まり、太陽どころか星明かりすら見えない。

 無明の闇。

 それならば、何も見えはしないはずだ。

 けど、オレの眼は確かに『それ』を捉えていた。

 昏い空に浮かび上がる巨影。

 視界に収まりきらないその形には、酷く見覚えがあった。

 ……あぁ、本当に。

 反吐が出そうなぐらいに、見覚えがある。


「……クソッタレめ。

 これはどういう趣向だよ」


 吐き捨てる。

 それは巨大な塔だった。

 より正確に言うならば、塔の形をした閉鎖型循環積層都市アーコロジー

 あらゆる悪徳を詰め込んで固めたような『それ』を、オレは知っていた。

 その、名前は――。


「……

『――――呼んだかね?』


 瞬間、全身の血が凍りついた。

 馬鹿な、あり得ない。

 否定の言葉を、頭の中でこれでもかと並べたてる。

 けど、そんなものに意味はなかった。

 ここは文字通り、『何でもあり』な世界だ。

 神様の悪ふざけが、そのまま実現してしまう。

 そんな場所を常識や道理で否定するのは、それこそまったく無力だった。


『どうしたね、イーリス?

 折角の再会だというのに、そんな呆けてしまって。

 あぁ、感動のあまり声も出ないのかな。

 それならば致し方ない。

 私は寛大だからね、多少の無礼は許そうじゃあないか』

「……臭い口で、面白くもねぇジョークを吐くんじゃねぇよ。

 鼻が曲がるだろうが」

『――やれやれ。

 相変わらず……いや、以前よりも一段と口が悪くなったんじゃないかね?

 年頃の娘が、良くないな』


 余計なお世話だ、クソが。

 正直に言えば面なんざ見たくもないが、そういうワケにもいかない。

 覚悟を決めて、オレは『そいつ』に目を向けた。

 わざわざ、そうするためだけに塔の頂上から下りて来たか。

 空中に停滞し、こちらを見下ろす大男の姿があった。

 一糸まとわぬその格好は、どこぞの全裸女を彷彿とさせる。

 ただ身体のサイズは常人の倍以上で、股間の辺りには何も付いていない。

 生身というよりは、作り物の彫刻めいた肉体美。

 長く揺れる髪は純金で、両の眼は金剛石ダイアモンド

 指の爪は輝く白金プラチナと、見た目は完全に化け物のそれだ。

 そんな怪物が、オレを上から眺めながらニヤついている。

 ……あぁ、ホントに胸糞悪い。

 真竜マーレボルジェは、記憶と寸分違わないクソ野郎のままだった。


『ハハハハ、顔色が悪いようだが。幽霊にでも出くわしたかな?』

「そりゃついさっきの話だな。

 少なくとも、お前よりは色男な幽霊だったよ」


 戯言には戯言を返す。

 一歩下がりかけて――踏み止まる。

 それは単なる意地だった。

 このクソ野郎に気圧されたみたいで、気分が悪い。

 あと、コイツが本当に真竜マーレボルジェなら、多少距離を置こうが無意味だ。

 向こうがその気になれば、あっという間にオレは粉々のはずだ。

 せめて、気持ちだけは強く持って睨みつける。

 ……右手の痛みは、随分マシになってきた気がした。


『ふむ――いや、まさかとは思ったがね』

「なんだよ」

『君はまさか、この世界を壊すつもりなのかね?』

「だったらどうだってんだよ」

『ハハハハハハハハハハッ!!

 何たる蛮勇、何たる愚昧さかっ!

 あぁ、その諦めを知らぬ強さだけは敬意を表するがね。

 だが無駄だよ、君の足掻きに価値などない。

 この場所に辿り着いた事だけでも十分驚嘆に値するが、それだけだ』


 マーレボルジェは笑う。

 相変わらず、人を心底小馬鹿にした笑い方だ。


「……そもそも、此処は何なんだよ。世界の果てじゃないのか?」

『その通り、世界の果てだ。

 誰にとっても、この先は「何も無い」という意味での果てだよ』


 良く分からん。

 目指した場所であるのは、間違いないみたいだが。

 そこに何でこの塔があるのか。

 後、このクソ野郎――マーレボルジェは本物なのかも不明だ。


『私は私だぞ、イーリス。

 真竜マーレボルジェ――いや、真竜という名乗りに意味はないか。

 だが、本物のマーレボルジェである事は間違いないよ』

「……思考でも読んだか?」

『表層的なものだがね、ほんの子供騙しだとも』


 とか言いながら、無駄なドヤ顔が腹立つな。

 で、コイツの言うことが正しいなら、マジで本物のマーレボルジェらしい。

 ……まぁ、偽物にしちゃクソの再現度が高すぎるよな。


『今の私は偉大なる《造物主》の眷属――使徒、と言った方が良いかな?

 どうやら、あの方は私の存在を気に入って下さったらしい。

 死して拡散してしまった我が魂を再構築するなど、正に神の御業だ。

 そしてこの場所は理想世界の「果て」であり、それを遮るための領域でもある。

 私は此処の番人として、秩序を乱す愚か者を捕らえる役目を任されているのだよ』

「そりゃあまた、再就職のお祝いが必要か?

 仮にも一都市の主が、今は単なる番犬じゃあ祝って良いか微妙だけどよ」


 空気が、軽く凍りついた。

 オレの軽口は、どうやら竜の逆鱗に触れたらしい。

 金剛石の瞳が激情に黒く濁る。


『……口を慎み給えよ、イーリス。

 今言った通り、この私は大いなる《造物主》の使徒なのだ。

 君と言葉を交わしているのも、あくまで私の慈悲に過ぎない』

「そうかよ、ありがたくて涙が出るね」


 鼻で笑い飛ばせば、マーレボルジェは不快げに唸る。

 ……下手に出て煽てるぐらいしてやりゃあ、簡単に乗ってくるかもしれない。

 けど、それはオレがムカつくからダメだ。

 態度はあくまで崩さずに、見下ろすクズを睨み返す。

 それが余計に癇に障ったらしい。

 凍てつく空気の中、マーレボルジェはわざとらしく息を吐いた。


「ッ……!?」


 重圧。

 いきなり身体に掛かる重力が、何倍にも跳ね上がったみたいに。

 抵抗する術もなく、オレは地べたに這い蹲る。

 立ち上がろうと足掻いてみるが、あまり効果は上がらなかった。

 地面が揺れる。

 空に浮かんでいたマーレボルジェが、オレの眼の前に降り立っていた。


『さて、君と私の関係は理解できたかな?』

「っ……クソが……!!」

『まだ分かっていないようだね。

 まったく、度し難い低能さじゃあないか』


 身体が軋む。

 見えない手が、全身を押し潰しているような。

 殺す気なら、いつでも殺せるクセに。

 マーレボルジェに悪意はあれど、殺意はまるで感じられない。

 ――クソが。甚振って、弄ぶ気だなこの野郎。


『理解に苦しむよ、イーリス。

 君はここに何をしに来た?

 この理想世界らくえんを壊すなんてだいそれた真似、本当に可能と思ったのかね?』

「ンなもん……やってみなきゃ、分かんねぇだろうが……!」

『いいや、分かるとも。

 君だってその目で見て、その手で触れたはずだぞ。

 死のない世界を。

 神が与え給うた永遠の幸福を。

 これが本当に、人間に過ぎない君の手に負えるとでも?

 ハハハハハ、思い上がりにも甚だしい!!』


 笑う。

 マーレボルジェは、オレを愚かだと嘲笑う。

 はらわたが煮えくり返るし、頭の血液が沸騰しそうだ。

 が、その激情は歯を食い縛って堪える。

 今は兎に角、相手の隙を窺うことに専念した。

 案の定、優位を確信したクソ野郎は、自分の台詞で気持ち良くなってきたようで。


『無駄だよ、愚かしいにも程がある!

 鼠一匹が走り回ったところで、山が動くことなどあり得んのだよ!

 君の身勝手な奮戦など、何一つ意味はないのだ!』

「…………」

『仮に――そう、仮にだ。

 君に何らかの手段や勝算があったとしても。

 その愚行を阻むために、私がいる。

 《造物主》に認められし使徒、守護者たるこのマーレボルジェがね!!』


 どうやら、その肩書きがよっぽど気に入ったらしい。

 誇らしげに、堂々と。

 恥の一つもなさそうな面で、マーレボルジェは笑っていた。

 地を這ったまま、オレはそれを見る。

 ……明らかに、こっちへの警戒が疎かになって来てるな。

 手足は――動く、問題ない。

 腹の奥に力を溜めて、呼吸を整えた。


「……笑えるな、マーレボルジェ」

『何?』

使


 ぴくりと、クソ野郎の表情が揺れた。

 オレはまだ動かず、わざと煽る声で囁いてやる。


「テメェは腹の底から腐りきった、どうしようもねェクソ野郎だけどな。

 それでも、昔のお前は、もっと上に立つ事に貪欲だったろうが。

 ――けど、今じゃあこんな辺鄙な場所の牢名主で、ボクちゃん満足ってか?

 ギラついた野心も、底無しの欲望も、今はもう何処にもない。

 笑えるよ、マーレボルジェ。

 滑稽過ぎて、腹が捩れちまいそうだ」

『……貴様、訂正しろ』

「は? 訂正? 何を訂正しろって?

 オレの言った事の、何処が間違いだか、言ってみろよ。

 そもそも、《造物主》に気に入られただ?

 アレが、テメェみたいな小物を、いちいち目に入れるかよ。

 単純にクソ野郎としての波長が合ったから、便利に使われてるだけだろ。

 まさか、そんな事にも気づいて――」

『黙れよ小娘がァッ!!』


 悪罵に耐えきれず、マーレボルジェは激昂する。

 仰々しく掲げた右腕には、莫大な力が渦巻いているのが見えた。

 喰らったら明らかにヤバい。

 が、当然そんなものをまともに受けてやるつもりはない。

 拘束はとっくに緩んでいて、オレはバネ仕掛けのように跳ね起きた。

 駆け出す。

 足を止めない限り、まだ幾らでも戦える。


『貴様……!!』

「バーカ、詰めが甘すぎるんだよ!!

 前はもっと慎重だったろうに、やっぱり腑抜けてやがるな!」


 背後で響く炸裂音。

 その衝撃に背中を押されながら、オレは全力で笑ってやった。

 ついでに中指もおっ立てて、全力で走る。

 それに対し、マーレボルジェの方も嘲りを声にした。


『馬鹿は貴様だ、愚かな小娘め!

 お前も知っているはずだぞ、ここが世界の果てだと!

 私は言ったはずだぞ、この先には何もないと!

 我が領域が境界を塞いでいる限り!

 誰も、決してこの理想世界からは出られない!

 お前が向かおうとしているのは、何処にも繋がらない行き止まりだぞ!』


 先はない。

 マーレボルジェが言う通り。

 目の前にあるのは、出入り口のない巨大な塔だけだ。

 塔の向こう側には何も見えない。

 進む道がないってのは、確かに間違いなさそうだ。

 ――けど、オレの目的地はそっちじゃない。

 最初っから、コレを目指してここまで来たんだ。

 継ぎ目は何処にもない、分厚い塔の壁。

 オレは足を止めず、むしろ加速しながら突っ込んでいく。

 大きく息を吸い込んで。


!!」


 叫んだ。

 右手を前にかざして、勢い良く。

 指先が壁に触れた瞬間、そこには何もなくなった。


『何だと……!?』


 驚愕するマーレボルジェ。

 まぁ、いきなり塔の壁に大穴が出来れば驚くか。

 ――この場所が、魂の領域やそれに近い世界だとしたら。

 オレの力が通じるかもしれない。

 何の根拠もない、殆ど希望的観測に近い考えだった。

 が、どうやら上手く行ったようだ。


「どうした、大間抜け。追いかけてみろよ」

『ッ――ここは私の領域だ。

 逃げ場があると思うなよ、小娘が!!』


 オレの安い挑発に乗っかり、マーレボルジェは憤怒を滾らせる。

 その怒りの気配を背中で浴びつつ、塔の内へと駆け込む。

 とりあえず、上手く逃げることはできた。

 こっからは殆どノープランだ。


「ま、何とかなるだろ……!!」


 笑う。

 我ながら、あのスケベ兜のことをどうこう言えない無謀さだ。

 右の手首を指でなぞり、オレは薄暗い闇の中へと身を躍らせる。

 そこには、かつて慣れ親しんだ退廃の都市が広がっていた。

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