幕間1:永遠を誓う


 立ち去る娘が、亡霊と出会う少し前。

 何も語りかけることはなく、彼女の背を見送る男が一人。

 正確には、森人エルフの男――ウィリアムだ。

 彼がその目で見ていたのは、娘であるアディシアとの語らいまで。

 去っていく少女の足が向く先が何処で、何が待っているのか。

 想像はついていたが、男は声を掛けることはしなかった。

 ――こちらが、わざわざ手を貸してやるまでもない。

 それで問題はあるまいと、確実な信頼の上での判断だった。


「……あなた?」


 声。

 良く聞き慣れた、懐かしい声だった。

 柔らかな女の声。

 もう二度と、聞くことなどなかったはずの声。

 それを耳にするだけで、心が落ち着く。

 自分の置かれている状況など、忘れてしまいそうなほどに。

 その事実を、ウィリアムは認めざるを得なかった。


「ねぇあなた、大丈夫?」

「あぁ、問題ない」

「本当に?」


 気遣いと、後はほんの少しからかいを含んだ稚気。

 全て――そう全て、彼が良く知るものだった。

 見送る視線を、傍らへと戻す。

 ウィリアムの眼は、一人の女性の姿を映した。

 美しい黒髪に、娘のアディシアと良く似た面立ち。

 若草色のスカートが、とても似合っている。

 穏やかに微笑む彼女は、ウィリアムの良く知る相手だった。


「お前の方こそ、身体に大事はないか。クリス」

「ええ、平気よ。今日はむしろ気分が良いぐらい」


 半森人ハーフエルフであるクリスは、身体が少しばかり丈夫ではなかった。

 生活に支障を来すほどではないが、ウィリアムはその事を常に注意していた。

 ……この世界では、生命の死は存在しない。

 故に、本来ならば病弱さなど気にする必要はないのだが。

 そうする事が正しい事だと、そう示すように。

 ウィリアムは、あくまでも傍らに立つ妻の身を案じていた。

 クリスも、それについて異論を唱えたりはしない。

 愛する夫の望むまま、したいように全てを受け入れていた。


「……ふふ」

「? どうした」

「いいえ。ただ、難しい顔をしているなと」

「別に、いつもと変わらないと思うが」

「ええ、いつもと同じね。

 ウィリアム、貴方のそういうところは本当に変わらないわ」


 ゆっくりと。

 賑やかな街の中を、二人で歩いて行く。

 妻の歩調に、夫が自然と合わせる。

 早すぎず、遅すぎず。

 気を遣われていると、そう感じさせない程度に。

 クリスは微笑みながら、そんな夫の手に指を触れさせる。

 細い女の指先が、ゴツゴツした男の指へと絡んだ。

 ウィリアムの表情は変わらない。

 ただ、そっと妻の手を握り返した。

 繊細な力加減を感じて、クリスは喉を鳴らす。


「……こうして、一緒に歩くのはどのぐらいぶり?」

「正確には覚えていないな」

「私もよ。ずっとこうしているはずなのに、不思議と曖昧なの」


 ……クリスに、この世界に対して違和感を覚えるような素養はない。

 だから、それはウィリアムの影響だった。

 ――彼は、私が分かっていないような事も、全部理解している。

 理解した上で、彼はこの場に留まっているのだと。

 世界の真実について知らずとも、彼女は自分の夫に関しては十全に理解していた。

 何せ、クリスはウィリアムの妻だ。

 ウィリアム自身が知らない事まで、彼女は良く分かっている。

 分かっているからこそ、敢えて問いかけた。


「ねぇ、ウィリアム」

「何だ?」

「このままで、良いの?」

「…………」


 初めて、ウィリアムは言い淀んだ。

 それはとても珍しいことだった。

 普段の彼なら大抵のことは即答で、常に自分の中で揺るぎない結論を持っている。

 今だって、それは同じはずだ。

 クリスの他愛もない問いにも、本来なら直ぐに答えられる。

 けれど、ウィリアムはそうしなかった。

 視線はもう一度だけ、見送った背中を探すように虚空をなぞる。


「…………良くはないな」

「そうでしょうね」


 ほんの少しばかり、長い沈黙を挟んで。

 言葉として、ようやく出てきた結論。

 ウィリアムの表情に変化はない。

 悲しみも、苦しみもない。

 喜びは――きっと、ほんの僅かばかり混ざっている。

 クリスと、後はヴェネフィカぐらいしか見ても分からないだろう。

 或いは、この場にいないもう一人。

 魂が似通っているとある戦士ならば、理解できる可能性はあった。

 そのぐらいに、ウィリアムの感情は外から読み取りづらい。


「最初から、行くつもりではあるんだがな」

「ええ」

「どうにも、進む足が重くていかん。

 これは少し……いや、かなり珍しいことだ」

「貴方、いつも自分で決めて自分でやってしまうタイプだものね。

 迷ったりとかは、逆に珍しいぐらい」

「そうだな」


 ……一応は、文句のつもりなんですけどね?

 そう思っても、クリスはそれを口には出さなかった。

 きっと、その程度のことはウィリアムも察しているから。

 察して理解していても、変えるつもりがないだけで。

 ――ホント、惚れた弱みね。

 クリスはわざとらしく、こっそりとため息をこぼした。


「でも、行くのでしょう?」

「…………」

「仮に迷ったり、悩んだりしたとしても。

 自分が出した結論を、貴方は変える人じゃないわ」

「……敵わんな」


 苦笑い。

 妻の真似をするように嘆息して、それからウィリアムは一つ頷く。


「悪くはない世界だ」

「そうね」

「ここに留まることも、選択肢に入れても良い。

 本当に、僅かだがそれも考えた。

 アディシアの幸福を思うのなら、そうする事が一番かもしれない。

 何より、此処にはお前もいる――――あぁ、本当に悪くはない世界だ」

「…………」


 そう語る男の口元は、笑みの形を刻んでいた。

 自嘲に近い表情であることは、妻である彼女だけは分かっている。

 ――留まって、永遠に近い仮初の幸福を選び取る事。

 きっと、大抵の人間はそれを選ぶはずだ。

 外から見ればどれだけいびつでも、夢に浸る限りはそれも気付かない。

 だから、その選択自体は何もおかしいことではなかった。

 ただ、ウィリアムはそれを良しとしないだけで。


「俺は行く。あの娘は、一足先に『果て』へと向かった。

 こちらの知らない場所で、あの男も同じことを選んでいるはずだ」

「その人のことを、信じてるのね?」

「馬鹿さ加減を信頼している、という意味ではその通りだな」


 小さく微笑むクリスに、ウィリアムもまた声を上げて笑った。

 言葉を交わしながら、男は手を伸ばす。

 愛した女に向けて。

 本来のあるべき世界では、自分がその手で殺めた妻へと。


「悔いてはいない」

「知ってるわ」

「俺は必要なことをした。故に、謝罪はしない」

「したら、思いっきり引っ叩いてあげたのに」

「恐ろしいことを言う女だな」


 男の指が、女の頬を撫でる。

 ほんの少し――本当に、少しだけ。

 ウィリアムは、この別れを惜しんでいた。

 読み辛い感情の動きも、クリスには筒抜けだった。


「……クリス」

「なに、ウィリアム」

「どうやら、俺はお前を愛していたらしい。

 この幸福を選ぶのも、悪い選択肢ではないと。

 一瞬でも、そう考えてしまう程度にはな」

「知ってるわ」


 思えば、生きていた頃はまともに聞いた覚えはなかった気がする。

 愛している。

 ウィリアムは、自分自身の感情には疎い男だ。

 だから言葉として口にする事は、殆どなかったけれど。


「ずっと、知ってたわ。

 貴方に初対面で求婚された時から、ずっとね」

「……それは言い過ぎではないか?」

「そうね。最初は『いきなり何を言い出すのコイツ』って思ったもの」


 ――有能な者であれば、例え半森人であっても重要な位置に選ぶ。

 これはあくまで、そのための政治的なアピールだと。

 そんな無茶苦茶な言い訳を添えて、初対面の挨拶と同時に繰り出された求婚プロポーズ

 ウィリアムにとっては、クリス以外には知られては堪らない黒歴史だった。

 だから、当の本人に言われたらぐうの音も出ない。

 唸って黙り込む最愛の男を、女は楽しそうに見ていた。


「ねぇ、ウィリアム」

「……なんだ?

 これ以上の死体蹴りなら、勘弁して欲しいところだが」

「愛してるわ。貴方も、アディシアも」

「…………」


 偽りのない想い。

 この世界は仮初で、今のクリスは再生された死者の記憶に過ぎないとしても。

 それは、虚偽も虚飾もない真実の愛だった。

 男はその想いを正面から受け止める。

 受け止めて、一つ頷く。


「……あぁ。俺も、お前を愛している。

 永遠に誓おう。例え父祖は裏切っても、それだけは裏切らないと」

「私も。例え生まれ変わっても、きっとまた貴方を見つけるから

 絶対よ?」

「お前ならやりそうだと、そう思えた時点で俺の負けなんだろうな」


 やはり、この女には敵わない。

 胸に秘めた愛を、初めて言葉として口にしながら。

 ウィリアムは笑って、クリスの手を握った。

 別れてしまう前に、その温もりを覚えていようと。

 そして。


「……では、行ってくる。悪いが、アディシアのことは頼んだ」

「ええ、行ってらっしゃい。あなた」


 離れる。

 名残惜しさはあるが、それを手放すのに躊躇いはない。

 誓った永遠と、指先に残った体温。

 それだけあれば十分だと、ウィリアムは強くその手を握り締めた。


「また会おう、クリス」

「はい。ずっと、待ってるから。愛しい人」


 それが、二人の別れの言葉となる。

 背を向けたウィリアムは、理想世界の『果て』へと歩き出す。

 もっとずっと早く、そうする事は選べた。

 ただ、この愚かな神の理想に浸るのも、決して悪くはなかった。

 けれど、結局はこうなった。

 ――さて、本当に愚かしいのはどちらなのか。

 苦笑いをこぼすが、ウィリアムの足に迷いはない。

 こうして進んだとして、どうなるのかはまったく未知数だ。

 敵は世界を丸ごと作り変えてしまうような、そんな人知を突き抜けた超越者。

 挑む行為自体が無謀だと、そう理解した上で。


「――相手が何であれ、最後に勝つのは俺の方だ」


 一切の根拠を必要としない、己への自負と確信だけを込めて。

 ウィリアムは、その言葉を口にした。

 一足先にそうした娘――イーリスが進んだ道とは、また違う道を進んでいく。

 月の光を宿した大剣を含めた、幾つもの武装を手に。

 永遠を誓った愛を胸に抱いて、男は儚い理想を壊しに向かうのだった。

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