486話:嘘吐き男にサヨナラ


 道はまだまだ続きそうだった。

 一時のお茶会を終えて、ヘカーティアに別れを告げた後。

 オレは変わらず歩いている。

 街の風景は代わり映えしないし、空の色も鮮やかなままだ。

 ただ、少し人気が少なくなってきた。

 オレの気のせいかもしれないので、正直何とも言えない。

 そもそも、街の中心からは随分離れてるはずだしな。

 だからきっと、こんなもんだろう。

 人に会わないなら、まぁそれはそれで――。


「やぁ」

「…………」

「あ、ちょっと。イーリスさん?」

「うるせェ、気安く呼ぶんじゃねぇよ」


 なんか――いや、誰かいた。

 いつの間にか進行方向にいて、にこやかに手を振る一人の男。

 見覚えはあった。

 が、気のせいだと判断した。

 そもそも、コイツは何でこんなところに……。


「酷いなぁ、君と俺との仲だろ?」

「どういう仲だよ。

 赤の他人に毛が生えた程度だろうが」

「いやいや、そんな事はないんじゃないかな?

 何だかんだで、割と濃密な付き合いだったと思うんだけど。

 後は、ほら。一応はキ――」


 戯言が全部口から出る前に、それを拳で塞いでおいた。

 腰の捻りも加えた、全力のフルスイング。

 アホの顔面にクリーンヒットして、そのまま地面に転がした。

 余計なことを言うんじゃねぇよ、クソッタレめ。


「痛ッ、マジで痛い……!!

 ちょっと、流石に手加減してくれても――!?」


 聞こえねぇから、今度は蹴りを入れておいた。

 いやマジで、お前に手加減してやる義理も必要もねぇだろ。

 割とキレ気味なのもあり、横っ腹を思い切り蹴り上げてしまった。

 ほんの少しだけ、やり過ぎたかとも思ったが。


「あー、痛い、めちゃくちゃ痛い。

 内臓が破けたみたいに痛い。

 これは流石に、介抱して貰わないと辛いかもなぁ」

「そのまま地べたを這ってろよ」


 わざとらしく、こっちをチラチラ見るんじゃねぇよバカ。

 全然平気そうだし、一瞬でも心配して損したわ。

 地面を転がる誰かを跨いで、オレは気にせず前を進む。

 ……人気が少なくて良かったわ。

 今のやり取りを、見知らぬ誰かに見られるのは流石に恥が過ぎる。


「――で。可愛い彼女は何処かにお出かけかい?」

「くそ、めげねェなコイツ」


 無視して行くつもりが、あっさりと復活しやがった。

 どうせこのままウザ絡みする気満々だろう。

 一つ息を吐き出し、オレは観念してソイツの方を見た。

 ただし、進む足は止めないままだ。


「なんか用かよ、ウィル」

「嬉しいね、そっちの名前で呼んでくれるのか」

「《黒》だの《灰色》だのの方が良けりゃ、そっちでも良いぜ」


 オレの言葉に、その男――ウィルは、軽く首を横に振った。

 黒い外套で身体をすっぽり覆い隠した、燃え尽きた灰色の髪の青年。

 その表情は、オレの記憶と比べたら随分生気が感じられる。

 張り詰めた暗い感情は消えて、纏う空気は穏やかだった。


「なぁ、イーリス?」

「気安く呼ぶなって言わなかったか」

「じゃあイーリスさん?」

「そういう意味じゃねぇよバカ」


 ……穏やかになったのは良いが。

 正直に言ってウザいな、この野郎。

 こっちのが素なんだろうが、相手するのがマジで面倒臭いわ。

 視線を外して、ため息をまた一つ吐き出す。

 ホント、オレは忙しいから後にしろよ。


「――で、このまま先へ行く気かい?」

「…………」

「分かってるんだろう?

 この道を進んで行ったら、其処に何があるのか」


 急に真剣な声を出しやがる。

 オレは振り向かず、前を見たまま歩き続けた。

 後ろにぴったりと付いてきながら、ウィルは語りかけてくる。

 まるで、暗い夜道で人を惑わす影のように。


「気付いてない、分からないって顔だ。

 ――――けど、それは嘘だよ。

 なぁ、イーリス。

 君はもう、此処がどういう場所なのかとっくに理解してるはずだ」

「…………」

「分かってない気がするのは、君自身が蓋をしてるだけだよ。

 何も知らないままでいた方が、きっと都合が良い。

 そんな風に考えて、逃げる自分を許してる。

 ――あぁけど、それも仕方ないことかもしれないね。

 だって君は、とても優しいから」

「ッ――――!」


 頭の中で怒りが爆ぜた。

 この灰色野郎が鬱陶しいせいじゃない。

 いや、それもちょっとぐらいはあるかもしれないが。

 何に対して怒ったのか。

 何故、ウィルの戯言を聞き流せないのか。

 ……全部、コイツの言う通り。

 オレは分かってる。

 分かっているから、余計に腹立たしかった。


「……苦しいよ、イーリス」

「……気安く呼ぶなって、何度も言ってるだろうが」


 進む足は、止まっている。

 代わりに伸ばした手は、ウィルの胸ぐらを掴んでいた。

 ぞっとするぐらいに軽い。

 まるで、幽霊を捕まえてるみたいだった。

 寒気が指先から全身を這い回り、酷い不快感が腸を掻き混ぜる。

 ウィルは笑っていた。

 さっきの穏やかさが嘘みたいに、それは灰色にくすんだ笑みだった。

 欠け落ちた感情が、空虚な穴からオレの顔を覗き込んでいる。


「俺はね、君のために言ってるんだよ」

「……自分のためじゃねぇのか?」

「それも勿論あるさ。

 利他の精神だけで何かするほど、俺も聖人君子じゃない。

 俺は俺自身のために、君を此処で止めたいと思ってる」

「…………」


 嘘じゃない、多分。

 オレを騙す気かどうかは……どうだろうな。

 前科もあるし、油断ならないのは間違いないけど。

 こちらの警戒など気にも留めず、ウィルは更に言葉を続ける。


「なぁ、イーリス。

 君もここまで、ちゃんと見てきただろう?

 このツギハギな世界をさ」

「……あぁ」

「それで、どう思った?」

「…………幸せそうだったよ」


 誰も、彼も。

 死が取り除かれた世界。

 理不尽な運命に奪われることを、怯えなくても良い世界。

 だからみんな幸せそうだった。

 永遠に終わらない幸福。

 人々はただ、それを享受することを許された理想郷。

 それを確かに、オレはここまで見てきたんだ。


「だったら、君が何かする必要はあるのかい?

 あぁ、この世界がいびつなのは分かってるよ。

 元より、コレは

 きっと完全じゃない。

 前提からして、完全な世界なんてあり得ないのかもしれない。

 現に、君という綻びが生まれてしまっている」

「…………」

「逆に言えば、君が何もしなければ世界はこのままだ。

 真の意味では、永遠じゃないだろうけどね。

 だが、人の身からすればそれは永遠と大差ないはずだ。

 ――誰もが幸福に生きられる世界。

 悲しみはなく、他者を害する理由を誰も持っていない。

 神は邪悪かもしれないが、それが理想とした世界まで邪悪とは限らない。

 だから、イーリス」


 言葉を遮る。

 きっと、正しいのはコイツの方だ。

 黒い賢者が諭す声を、オレは強引に断ち切る。

 ――分かってる、あぁ分かってるよ。

 この世界が、決して悪いモノじゃないってことぐらい。

 失ったモノ、失われたモノ。

 決して取り戻せないはずの何かが、この世界なら取り戻せる。

 死んだ者は生き返らないだとか。

 無くしてしまったモノは、永遠に帰ってこないだとか。

 そんなのは分かりきった理屈だ。

 オレも、この理想世界を間違いだと言うほど傲慢なつもりはなかった。

 だけど。


「それでも――オレは、行かなくちゃならないんだよ」


 立ち止まれない。

 これはもう本能に近い。

 足は動く。

 前に進む意思がある。

 それだけあるなら、オレは立ち止まれない。

 例え、そうする事が「悪」だとしても。

 オレが「正しい」と思えることは、それだけだった。


「……諦めないことは、決して良いことじゃない」

「あぁ」

「俺の末路を知ってるだろ?

 諦めを拒絶し続けて、過ちを重ねすぎた」

「分かってる」

「俺は、君にはそうなって欲しくはない」

「同じようになるとは限らねェだろ?」

「自分は違うと、君はそう思ってるのかな?」

「まさか」


 笑う。

 自分ならやれる、自分ならできる。

 そんなもん、盛大に失敗する前フリだからな。

 やれるなんて考えちゃいない。

 できると信じるには、オレはちっぽけな奴だ。

 正直、このまま行ったって何かが出来るなんて思ってすらない。


「……またなって、そう約束したんだよ」

「…………」

「オレが正しいと思うことをして欲しいって。

 そう言ってくれた奴もいた」

「……イーリス」

「それだけじゃねぇ。姉さんはオレが戻ってくるのを待ってる。

 他にも、オレが会ってきた奴、すれ違った奴、もう会えない奴。

 色んな『何か』があって、オレは此処にいるんだ」

「だから、か」

「あぁ。だから、行くんだ。

 何をやれるのか、何ができるのか。

 そんなもん一つも分かっちゃいねぇけど。

 オレの帰りを待つ誰かも、オレの背中を押してくれる手もある。

 ――だったら、行くしかねェだろ」


 例え、そこに待つのが終わりだとしても。

 前に進むことを決めたのは、オレ自身の選択だ。

 その選択に至るまでの全てを、裏切りたくはない。

 オレの言葉を聞いて、ウィルは沈黙する。

 やがて、心底呆れた様子で大きくため息を吐き出した。


「……やれやれ。

 君にはこのぐらいじゃ、脅しつける役にも立たないとは思ってたけど」

「…………」

「完敗だよ。それだけ言えるのなら、どうせ何をしたって止まらないんだ。

 君の好きにすればいい、俺はその結果を尊重するよ」

「……やっぱり、止める気なんてなかったのか?」

「あったさ。君は優しい娘だから。

 他人の幸福を壊すことに、きっと罪を感じる。

 業を背負い込みすぎて、俺みたいに破滅してほしくはなかった。

 全部本音だよ」

「……噓吐きの言うことは、イマイチ信じられねェからな」

「これは手厳しいな」


 笑う。

 オレもウィルも笑って、それから手を離した。

 ほんの僅かに開いた距離。

 それは永遠の別れなのだと、オレは何となく理解していた。


「さようなら、イーリス。

 俺と君は、ここでお別れだ」

「そうかよ」

「寂しいと思ったりはしない?」

「そんな仲じゃなかっただろ、オレたち」

「それを言われるとそうなんだけどねぇ」


 真面目に返したら、ウィルは困った面で笑った。

 もう、二度と会うことはない。

 この場にいるコイツは、きっと影のようなものだ。

 夢が覚めて、朝が来たら消えてしまう。

 そんな儚い状態で、オレのためにわざわざ出てきてくれた。

 ……その事だけは、少しぐらい感謝しても良い気分だ。

 だから、オレは手を伸ばした。

 永遠の別れであるはずの距離を、腕一本分だけ跨いでみせた。


「……? イーリス?」

「お別れなんだろ?」

「……あぁ、そうだね」


 差し伸べた手に、ウィルの指が触れた。

 やっぱり酷く冷たい。

 けど、ほんの少しだけ温かい気もする。

 軽く何度か握ってから、幽霊は手の甲の辺りに唇を合わせた。

 微妙なくすぐったさに、身震いしてしまった。

 そんなオレの様子を見て、ウィルはくすりと笑った。


「ありがとう。

 例え落ちるのが地獄の底でも、君の幸福を願ってる」

「じゃあな、ウィル。もう迷って出てくるんじゃねぇぞ」


 それが、お互いに向ける最後の言葉になった。

 指先の感触が消える。

 目を向ければ、そこにはもう誰もいない。

 文字通り、影も形もなく。

 消え去った男の残滓を、意識せずに探してしまった。

 探して、すぐにそれを振り切って前を向く。

 広がる街には、もう人の気配は完全に存在していなかった。

 青かった空は茜色に染まり、黄昏の訪れを示している。

 ――夜だ、夜が来る。

 いいや、オレが夜に向かっているのか。


「……上等だ」


 無限に伸びていると、そう錯覚しそうな道の上。

 オレは再び歩き出す。

 もう間もなく、この世界の『果て』に辿り着く。

 そこで何が待っているのか、それはまだ分からないが。


「やってやるよ。しくじったら、何とやらだ」


 今はまだ、名前の思い出せない誰か。

 鎧兜のソイツの口癖を真似て、オレは軽く笑い飛ばした。

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