第一章:やり直された理想世界

483話:見知らぬ朝、彼女の目覚め


「ッ――――――!?」


 声。

 誰の声だ?

 決まってる、自分の声だ。

 ……そう、自分の声の、はずだ。

 早鐘を打つ心臓。

 けたたましく響く鼓動は、何処か他人事のように聞こえる。

 胸元を右の手のひらで強く抑えながら、息を吐き出す。

 ……落ち着け。

 理由の分からない焦燥感。

 嫌な汗がじっとりと肌を濡らしていて、酷く不快だった。

 軽く拭うと、視界の端で何かが光る。

 見慣れない気がする、銀色の輝き。

 それは、右の手首に嵌めた腕輪だった。


「…………なんだっけ、これ?」


 自分で身に着けている物のはずなのに。

 何故かオレには、それが見知らぬ何かに見えたのだ。

 相変わらず、鼓動が早い。

 どうして、こんなにも落ち着かないのか。

 分からない。

 何が分からないのかが、先ず分からない。

 そもそも、オレは――。


「……イーリス?」

「ッ……」


 聞き慣れた声。

 そのはずなのに、酷く驚いてしまった。

 視線を部屋の扉に向ける。

 部屋――部屋?

 あぁ、そうだ。ここはオレの部屋だ。

 ベッドの上で、汗を吸って少し重くなったシーツを握り締めている。

 そして今、開いた扉から顔を覗かせている人。

 一緒に暮らしている、オレの姉さんだ。

 ……確か、そのはずなんだ。


「どうした、イーリス。本当に大丈夫か?」

「ん――あ、あぁ。

 平気だ、なんでもないよ」

「そうは見えないがな」


 あっさりと内心を見透かして、姉さんは困った顔で笑う。

 長い黒髪を揺らして、ごく自然な動作でオレの傍に寄ってきた。

 伸ばした手が、顔に触れる。

 指先の感触が心地良くて、胸の奥がチリチリと痛む。

 ……何故か、右手の腕輪が気になる。


「うなされていたようだが、怖い夢でも見たのか?」

「子供扱いすんのは止めてくれよ。

 ……でも、どうだろうな。

 夢を見てたような、気はするんだけど」

「覚えていない、か?」

「夢だからな」 


 どんなに恐ろしい夢でも、逆に楽しい夢でも。

 所詮は泡沫だ。

 現実じゃない、ただの夢だ。

 目が覚めてしまえば、この部屋と違って何もなくなってしまう。

 ……本当に、そうか?


「イーリス?」

「……悪い、姉さん」

「いや、これは大分重症みたいだな」


 細く長い腕が、オレの身体を包む。

 姉さんに抱き締められると、落ち着くけど気恥ずかしい。

 それこそ、不安がる子供をあやすみたいに。

 背を撫でながら、姉さんは穏やかに語りかけてきた。


「お前は昔から、強いけど繊細な子だ。

 本当に不安に思うことがあるなら、私や誰かに頼って良いんだ」

「……別に、抱え込んだりしてるつもりは無いぞ」

「そうか? 自分だけなら、少しぐらい無茶しても良いとは思ってないか?」

「思ってねぇって。…………多分」

「そういうところだぞ」


 姉さんは笑う。

 笑って、オレの額の辺りを軽く指で弾いた。

 地味に痛い。

 こっちは非力なんだから、姉さんのパワーでやるのは勘弁して欲しい。

 下手に打ちどころが悪かったら、割とマジで死――。


「……イーリス?

 本当にどうしたんだ?」

「……なぁ、姉さん」

「あぁ」

?」


 何故だろう。

 知っているはずなのに、知らない言葉を口にしている。

 それは酷い矛盾だった。

 自分でも意味が分からず、困惑を隠しきれない。

 ……恐ろしい。

 その言葉が恐ろしいのか、分からない事が恐ろしいのか。

 それすら不明で、声が震えてしまった。

 右手の腕輪が、何故か気になって仕方がない。

 オレの言葉を聞いた姉さんは、少し首を傾げて。


「――何を言ってるんだ? イーリス

 

 そんなものを、どうして今更気にしているんだ?」

「…………」


 死ぬことが、あり得ない?

 そんな馬鹿な話――――いや、違う、そうだ。

 オレは何を言ってるんだ。

 死なんて、人間はもう克服した概念のはずだ。

 あぁ、そうだ……そう、だったはずだ。

 重い息を吐き出し、頭を振る。

 寝ぼけ過ぎていたのか、それほど夢見が悪かったのか。

 そのどっちにせよ、酷い醜態だ。

 オレの様子を眺めて、姉さんはくすりと笑った。


「やっと目が覚めてきたみたいだな。心配したよ。

 ――ほら、今日も良い朝だぞ。寝坊助もきちんと起きる頃合いだ」


 そう言って、姉さんは締め切られていたカーテンをこじ開ける。

 部屋にある唯一の窓。

 差し込む光は、憂鬱になりそうなぐらいに眩しい。

 薄暗い部屋の中は、どれだけ明るく照らしたって意味はないけど。

 目を眇めて、オレは空を見た。

 蒼い、白々しいぐらいに蒼い空。

 その空のど真ん中で、太陽は他人事のように輝いている。

 欠けたこと一つなく、今日も世界は完璧だった。


「――それで、今日の予定はどうなってる?」

「分かんねェ」


 部屋を出て、オレと姉さんは二人で朝食を取る。

 真っ白いフロアにテーブルが一つ、椅子が二つ、他の家具は特に無し。

 必要があれば呼び出せて、必要がなければ何もいらない。

 極めて便利で、驚くほど不便な生活だ。

 それを「やろう」と思えば、それだけで何でもやれてしまうんだ。

 苦労一つせず、永遠に生きることができてしまう。

 オレたちが生きているのは、そんな世界だ。


「学校の方は大丈夫なのか?」

「休み中だよ、今は。

 どの道、勉強しようがしまいが変わらねェだろ。

 こんな世界だ。大抵のことは、望むだけでやれちまう」

「確かに、お前の言う通りかもしれない。

 だが、それでも学ぶことは大事だ。

 少なくとも、私はそう思うよ」

「……姉さんと違って、オレは出来が悪いんだよ」


 呟く。

 別に自虐するつもりなんて、無かったはずなのに。

 ついつい、そんな事を口に出してしまう。

 ……ところで、今オレは何を食べてるんだ?

 朝食。姉さんが用意してくれたものだ。

 いつもの風景。

 食べてるモノも、いつだって同じのはず。

 パン? 野菜? それ以外の何か?

 なのに、今食べてる料理さえも曖昧で良く分からない。

 腕輪をしてる右手が、微かに痛みを覚えている。


「お前は、私の自慢の妹だよ。イーリス」

「…………」

「父さんも、母さんも。お前のことを愛している。

 誇りに思ってるよ。嘘じゃない」

「……嘘だなんて、思ったことない」


 父さん。

 母さん。

 二人とも、生きている。

 当たり前のことのはずなのに、何故か涙が出そうになった。

 最近は、あまり会っていないけど。

 死のないこの世界で、生きてるのは当たり前のことだ。

 当たり前のこと――そのはず、なのに。


「……お前は、そんなに泣き虫だったかな」

「別に、泣いちゃいねぇよ」

「本当か?」

「本当だよ。……いや、嘘かも。

 何か、良く分からないけど、涙が出るんだよ。

 どうしてこんなに泣けるのか、自分でもサッパリなのに……」

「…………」


 目元をこする。

 濡れた涙が、指先に触れた。

 自分でちゃんと拭ってから、顔を上げる。

 姉さんはそんなオレを見ながら、穏やかに微笑んでいた。


「……特に予定がないのなら」

「うん?」

「父さんと母さんに、会いに行ってみるか?」

「…………」

「どうだろう。二人とも、お前に会いたがっていたから」


 会いたいか、会いたくないか。

 この世界では誰も死なない。

 永遠に生きられるのなら、望んだ時にいつでも会える。

 だから、無理に会いに行く必要なんてない。

 けど。


「……会いたい」

「そうか。二人とも喜ぶよ」


 会いたい。

 会いたいか、会いたくないか。

 そんなの、会いたいに決まっている。

 姉さんは優しげに、けれど寂しげ微笑んでいた。

 右手が、何故か妙に痛む。


「それなら、支度をしようか。

 二人だけでなく、他の誰かに会うのも良いだろう。

 会いたいと思えば、それが誰であれ自由に会えるはずだ」

「そう、なのか?」

「あぁ、そうだよ。

 イーリス、お前にはそうする資格がある」


 いつの間にか、朝食は終わっていた。

 何を食べたのか、良く分からない。

 けど、不思議と腹は満ちていた。

 歩き出すには、これで十分なぐらいに。


「ほら、忘れ物はないか?」


 そう言って、姉さんの手がオレの頭を撫でた。

 真っ白い部屋に開いた、一つの扉。

 気が付くと、オレと姉さんはその前に立っていた。

 いつも通りのラフな服装。

 特に手荷物なども無く、手ぶらで外を向く。

 家の外。

 空気は澄んでいて、息をしているだけで気分は和らぐ。

 道行く人々は見知らぬ顔のはずなのに、不思議と良く知っている。

 誰もが幸せそうだった。

 死のない世界。

 永遠の幸福が約束されているのだから、それは当然のことだった。

 ……右手が痛む。

 手首に嵌ったままの腕輪を見る。

 コイツだけは、何故か自分のモノとは思えない。

 オレはいつから、これを身に着けてるんだ?

 分からない。

 疑問は曖昧な霞になって、頭の中で薄く散ってしまう。

 あぁ、今日は良い天気だ。


「……イーリス」

「んっ」


 わしゃわしゃと、姉さんの指が髪をかき混ぜる。

 小さい子供にするみたいで、妙な気恥ずかしさがある。

 けど、決して嫌じゃない。

 姉さんは昔から、オレのことを大事にしてくれた。


「大丈夫そうだな」

「……うん、大丈夫。ありがとう」

「ん、素直で宜しい」


 微笑んで、姉さんはオレを抱き締めた。

 素直にその腕に身を預けて、オレも姉さんのことを抱き締め返した。

 体温。心臓の音。

 血の流れを示す鼓動を確かめて、安堵の息をこぼす。

 ――大丈夫、大丈夫だ。

 オレも、姉さんも、きっと大丈夫のはずだ。

 自分でも、何をそんなに不安に思っているのか分からない。


「なぁ、姉さん」

「なんだ、イーリス?」

「このまま、いなくなったりしないよな?」

「当たり前だろう。何を言ってるんだ」


 口から出てしまった弱音を、姉さんは軽く笑って否定した。

 抱き締める手の力が、少し強まる。

 苦しくはない。

 けど、胸の奥が詰まったような感じがする。


「二度と、お前を置いて一人にするものか。

 だから心配しなくて良い。

 お前がどこに行っても、私はお前を待ってる。

 危なくなったら、すぐに助けに行く。

 約束しよう。絶対に、お前を一人にしたりはしない」

「……うん」


 嘘でも、気休めでもない。

 色んな事が曖昧だけど、それだけは本当だと分かったから。

 抱き締める手を離し、部屋の外へと足を向けた。


「……ここは、オレが行かなきゃダメなんだよな」

「あぁ、そうだな」

「約束、したからな。姉さん」

「勿論だ。指切りもしておくか?」

「……それは、何かガキっぽいから。いいや」


 くそ、そんな面白そうに笑うなよ姉さん。

 改めて、オレは外の世界を見る。

 空は青くて、風は穏やか。

 太陽は明るく輝き、全てを照らしている。

 道行く人々は、誰もが幸福で満たされていた。

 ――間違いなく、万人が夢見る理想世界らくえんが其処にはあった。

 死のない世界。

 皆が永遠に生き、永久に繁栄を謳歌する世界。


「いってきます、姉さん」

「あぁ、いってらっしゃい」


 姉さんに見送られて、オレは世界へと一歩踏み出す。

 住み慣れた、記憶にない家を離れて。

 見覚えのない道を歩いて、何処かを目指す。

 その「何処か」が何なのか。

 何故か、具体的には言葉にできない。

 父さんと、母さん。

 二人のいる場所へと、分からないまま足を向ける。

 ……ホント、変な話だよな。

 この世界のこと、自分自身のこと。

 曖昧になっている事柄を確かめようと、一つ一つ思いながら。

 神に祝福された世界で、オレはゆっくりと歩き出した。

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