幕間3:少女と竜
遙か地の底。
《大竜盟約》の中枢たる神殿――その最も深い場所。
楔の玉座を守る偉大なる一柱は、ゆっくりと目を開いた。
神殿を揺さぶっていた、戦いの気配。
それが消えた事を、《黒銀の王》は感じ取っていた。
青褪めた唇から、細い吐息がこぼれる。
「……敗北しましたか、オーティヌス」
滅んではいない。
が、その気配が傷付き、戦うことが不可能なのは分かっていた。
――彼は、彼にとって最善と思える行動を選択した。
そうした末に負けたのであれば、それは致し方のない事だと。
《黒銀の王》は、静かにその事実を受け止める。
しかし。
「……オーティヌスが?」
驚き、受け入れ難いと慄く声。
《黒銀の王》は、見上げていた視線を傍らへと下ろす。
幼く、年若い少女。
見た目の通りに、竜としては若輩も若輩な娘。
大真竜――その称号も、本来は相応しいモノではないが。
《盟約》の礎であったゲマトリアは、不安に揺れる眼で王を見ていた。
「今、オーティヌスが負けたって……いえ、そんな事、あるワケが」
「事実です、ゲマトリア」
信じられないと。
否定しようとするゲマトリアに、《黒銀の王》は告げる。
「彼は敗北しました。
――これで、《大竜盟約》の大真竜は私だけとなりましたか」
「っ……」
七柱の大真竜。
その尽くが敗北し、円卓はその殆どが空席となってしまった。
残るはただ一柱。
楔の玉座を守る《盟約》の頂点。
《黒銀の王》だけが、最後の砦だった。
「いえ、ボクがいるじゃないですか……!」
「…………」
叫ぶ声は震えていて、端々が酷く掠れている。
《黒銀の王》が見ている。
その視線は重く、ただ見られただけで魂が押し潰されそうになる。
――存在の次元が違う。
大地の化身、それを人間の魂一つで呑み込んだ《盟約》最高の英雄。
千年の秩序を守り続けてきた、大いなる守護者。
本来であれば、その傍らに自分が立つなど烏滸がましいと理解しながら。
ゲマトリアは、それでも絞り出すように言葉を続けた。
「確かに、ボクも負けたし、他の大真竜たちも負けてしまいましたよ。
イシュタルは力を失って、ブリーデさんは、もう戦う気は殆どないですし。
コッペリアは消えて、ウラノスも永い眠りにつきました。
それで、ここに来て、オーティヌスまで……」
「…………」
「……けど、それでも。
それでも! ボクが此処にいるじゃないですか!
た、確かにボクも負けちゃって、まだ失った力も、取り戻せてませんけど……!」
――自分はまだ、貴女の傍らに立っている。
だから、まだ負けていない。
《大竜盟約》は、まだ負けてはいない。
そう、ゲマトリアは言おうとして。
「……いいえ、《大竜盟約》は負ける。
大真竜たちの大半を失った時点で、破綻は避けられなかった」
「っ……そんな、ことは……!」
「オーティヌスは良くやってくれた。
彼の試みが失敗したとしても、彼の意思は無駄ではなかった。
私は、それで良いと思っています」
《黒銀の王》の声は、酷く穏やかだった。
ゲマトリアには、それが死期を悟った病人のようにも聞こえたのだ。
《大竜盟約》の敗北。
最後に残った大真竜は、ただ一柱。
けど、あり得ないとゲマトリアは声高に叫んだ。
「オーティヌスは負けたかもしれませんけど、貴女がいる……!
《黒銀の王》、《盟約》の頂点!
貴女だったら、絶対に負けるはずなんて……っ!」
叫び、けれど言い終えるよりも早く、その言葉は途切れた。
伸びてきた手。
玉座の王が向けた右手が、ゲマトリアの髪を撫ぜた。
指先は柔らかく、少女の髪に触れる。
……思い出されるのは、かつての旅路。
絶望が吹き荒れた時代、多くの仲間たちがいた陽だまりの記憶。
戦い抜いた果てに勝利と、希望に満ちた未来があると信じていたあの頃。
その時と、何も変わらなかった。
皆を導くために、剣を掲げて立ち上がった少女。
ゲマトリアが魅せられ、最も愛した太陽。
どれだけ黒く染まったとしても、彼女は何も変わってはいない。
「……間もなく、彼らがやってくる。
オーティヌスを打ち負かし、《盟約》に残る大真竜は私だけ。
遠からず、この楔の玉座まで辿り着くでしょう」
「…………」
「無論、負けるつもりはありません。
私の敗北は、《盟約》の真なる終焉。
今は私がこの玉座にいるからこそ、封印は辛うじて保たれている。
楔の抑えが失われれば、《造物主》は地の底から再び這い出してしまう」
言いながら、《黒銀の王》は足元を見た。
……蠢いている。
今、こうして言葉を交わしている瞬間も。
神殿がある位置よりも、更に奥深く。
僅かな光さえ差さない深淵で、邪悪なる神の残骸が脈動している。
既に死したはずの「ソレ」は、千年前に愚かな魔法使いの手で蘇ってしまった。
不完全な世界への憎悪と怨嗟。
そして、かつて抱いたはずの理想世界への妄執。
それらが綯い交ぜとなった呪いと怨念。
封印越しにも、その暗黒の大渦が如き様を《黒銀の王》の眼は見ていた。
「コレが解き放たれれば、大陸は本当に地獄と化す。
……いえ、そもそも全てが無くなってしまいかねない。
今の《造物主》は、物質に対する憎悪に満ちあふれている」
「……ねぇ」
「私では――私たちでは、これを封印するのが限界だった。
勝つことは出来ても、完全に滅ぼす手段がない。
そうして千年、この地獄に蓋をし続けて来ましたが……」
「ねぇ……!」
語る言葉を、ゲマトリアは遮った。
撫でていた王の手を、細い指でしっかりと握り締めて。
「それで、貴女はどうするつもりなの……?」
「戦います。
彼らと戦い、そして判断しなければならない」
その声に、一切の迷いはなかった。
とうの昔に限界を迎えていてもおかしくはない。
《黒銀の王》がその身に抱える力は、それほどまでに強大だ。
ただ一人の人間が、大地を背負う事など無謀に過ぎる。
事実、彼女は人間らしく振る舞うことさえも困難だったはずだ。
けれど、今。
ゲマトリアと向き合う王は、本当に昔と何一つ変わらない。
「彼らが、《造物主》を真に滅ぼす希望足り得るのか。
《大竜盟約》が敗北したと、認めるに値するのか。
それは《盟約》の頂点である、《
「っ……」
変わらない。変えられない。
とても頑固な少女だったと、ゲマトリアは記憶している。
誰よりも強く、優しく。
そして一度決めた事は、絶対に覆さない。
千年前の時もそうだった。
復活した《造物主》は倒せない。
倒せないから、それを封じる手段として大地の化身と契約を交わした。
……そうだ。あの時も、確かこんな感じでしたね。
あれから、千年。
自分たちは遠くへ来てしまったのだと、ゲマトリアは今更ながらに実感する。
「……ですから、ゲマトリア」
「分かってます」
手を握る。
ゲマトリアは、王の手を強く握っていた。
その気になれば、自分を魂ごと簡単に砕いてしまえる王の手。
強大な力以外には、優しさしかない、その手を。
ただ、強く握り締める。
「貴女がそうと決めたなら、梃子でも動かない。
ええ、分かってますよ。
ボクと皆が、どれだけそれで振り回されたと思ってるんですか」
「……すみません」
「謝っちゃダメですよ! 今の貴女は王様なんだから!
玉座にふんぞり返って、ドーンと構えておかないとっ!
特にこれから無礼な客人が来るわけですから、しっかりしましょう!」」
笑う。
道化者のように戯けて、ゲマトリアは笑った。
《黒銀の王》は、そんな童女の如き竜を見ていた。
千年、共に歩んできた仲間。
その中でも、常に傍らにあった竜。
彼女の笑みに釣られるように、王もほんの少しだけ笑っていた。
「ゲマトリア」
「嫌ですよ」
一言。
笑い声から一転して、固い意思を秘めた言葉。
強大無比な《黒銀の王》を相手でも、ゲマトリアは引く気はなかった。
「ボクも残って、一緒に戦います」
「それはダメだ」
「ダメじゃありません」
「私の戦いに、貴女を巻き込みたくない」
「巻き込んで下さいよ!」
握った手を離さず。
ゲマトリアは、臆さずその思いを王にぶつける。
「千年ですよ、千年!
巻き込むって話なら、とっくの昔に巻き込まれ済みですよ!
勿論、ボクも納得した上での事ですから!
だから貴女が気に病むことなんて、一つもありませんっ!」
「…………」
「それでもダメって言うなら、力尽くで言うことを聞かせたら良いですよっ。
ボク自身からは、絶対に引き下がりませんからね!」
「……ゲマトリア……」
両者の力の差など、改めて語るまでもない。
《黒銀の王》がその気になれば、ゲマトリアなど一瞬で捻り潰される。
強気に出ながらも、ゲマトリア自身は冷や汗が出っぱなしだった。
心臓が早鐘を打つ。
全力でワガママを口にしたけれど、果たして、王は――。
「…………」
「あっ、スイマセンぶっ飛ばすならあんまり痛くない感じでお願いできると……!」
握ったのとは逆の手。
それが伸びてきた瞬間、ゲマトリアは思わずヘタれてしまった。
ヘタれても、一歩も動く気はない。
他人のことなど言えない頑固さを感じ、王は微かに笑みをこぼす。
伸ばした手は、少女の髪を軽く撫でた。
「――分かりました。
貴女には敵いませんね、ゲマトリア」
「っ……」
昔、何かしらの理由でワガママを口にした時。
他の仲間たちが呆れる中で、彼女だけはそう言って応えてくれた。
変わらない。
何もかもが変わり果てて、希望が絶望を覆す事はなくても。
変わらないモノがある。
千年という時の流れに晒されても、色褪せない宝石。
その輝きを見た気がして、ゲマトリアの瞳に涙が溢れた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫ですよっ、ちょっと目にゴミが入っただけなんで!!」
「それなら、良かった」
僅かに微笑んで、王はゆっくりと手を離す。
握った手も一度解くと、その指先を自分の口元に近づけた。
歯を当てて、少しだけ皮膚を裂く。
その行為を見て、ゲマトリアは目を白黒させる。
「ちょっと、何を……!」
「……これは、出来ればあまりやりたくはなかった」
赤く濡れた指先。
《黒銀の王》は、それをゲマトリアの前へと差し出した。
「今の貴女は力の多くを失っている。
けど私の血を飲めば、それを補って余りあるはず。
……ただ、これは酷く魔力が濃い。
だから、私の方から強制は――」
言い終えるよりも早く。
一瞬も迷わずに、ゲマトリアは王の指先に噛みついた。
牙を当てても、それで王が傷つく事はない。
だから遠慮することなく、ゲマトリアは流れる血を舐め取る。
――力。
《黒銀の王》が大地の化身を取り込んでいる以上、流れる血は溶岩に等しい。
強大な魔力が染み渡っていくのを、ゲマトリアは全身で感じ取る。
並みの古竜――或いは、《
制御が困難なほどに、その力は強大だった。
事実、ゲマトリアも流れ込む奔流に己を見失いそうになる。
だが。
「っ……問題、ありませんよ」
掴んだ手。
最愛の王との繋がり。
竜としても類稀な天性の才覚。
それらが合わさる事で、ゲマトリアは王の力の一端を呑み込んだ。
「ボクは天才なんで、このぐらい全然へっちゃらですから……!」
「……あぁ、そうでしたね」
必要なだけの力を与えると、《黒銀の王》は手を引く。
――呑み込んでも、落ち着くまでにはまだ暫くの時が必要だろう。
向こうも、オーティヌスに勝利して直ぐに下りて来る事はあるまい。
運命が訪れるまで、まだ時間はある。
「少し、休んでいなさい。
今は私しかいないのだから、強がらなくても良い」
「…………ホントに、全然へっちゃらですけど。
ええ、王様の命令なら、仕方ないですよね」
そう言って、ゲマトリアは腰を下ろす。
玉座にもたれかかり、片手は王の指先に触れる形で。
《黒銀の王》は何も言わない。
嵐の前の静けさに等しい、嘘のように穏やかな時間。
微かに聞こえてくる寝息に耳を傾けて、王もまたその瞼を閉じた。
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