幕間2:地の底にて、時を待つ
「……始まったわね」
千年前、大陸に刻まれた癒えぬ傷跡。
深く穿たれた亀裂を塞ぐ形で築かれた大神殿。
その巨大構造物の、更に奥深く。
震動に軋む天井を見上げながら、ブリーデは小さく呟いた。
この地下神殿は、大陸で最も深い
ブリーデたちがいるのは、レックスらが戦っている場所よりも遙か下。
最も深い位置にある《盟約》の円卓と、楔の玉座。
その幾らか手前辺りに存在する大広間だ。
「こうなったらもう、こっちは祈るしかないか」
「……一体、何に対して祈るって言うの?」
独り言に近い声に、応じる言葉があった。
そちらにブリーデは視線を向ける。
途端に睨み返すのは、幼い少女――いや、少女の姿をした奇跡の竜。
大真竜イシュタル。
本来であれば、《盟約》の序列四位に位置する実力者だ。
が、現在はその力の大半を失った状態だった。
その上で、今は光の檻のようなモノに囚われてしまっている。
無力なブリーデよりも更に無力な有り様で、少女は怒りに震えていた。
「そんな事より、早く私をここから出しなさいよっ!!」
「無茶言わないで頂戴。
それ、オーティヌスの術式よ?
私たちでどうこう出来るワケないでしょう」
「ッ……!!」
諦めまじりの答えに、イシュタルは奥歯を噛み締める。
オーティヌスが施した拘束術式。
それは、今の状態で戦いに赴こうとする彼女を戒めるものだった。
物理的にも、技術的にも解除は不可能。
その上で、心情的にもブリーデはその気はなかった。
或いは、手元に最初の《森の王》を宿した月の刃があれば別だろう。
しかしそれは、現在は前線に赴いた糞エルフの手元にある。
「早く、早く出してっ。
おじい様一人に全部丸投げする気!?」
「それがオーティヌスの決定よ。貴女はそれに従わないの?」
「従えるワケないでしょ!
あの胡散臭い男と、役に立つか分からない猫だけ連れて!
何かあったらどうするつもり!?」
「……気持ちは分かるけど、落ち着いて」
檻の中で荒ぶるイシュタル。
そんな少女を穏やかな声で諌めたのは、マレウスだった。
糞エルフや猫への不信は尤もなので、ブリーデは何も言わない。
慰めの言葉に対し、イシュタルは敵意を込めた視線を向ける。
「落ち着いて? 落ち着いてですって?
そんな無責任な言葉は聞きたくないわ!
私は、少しでもおじい様のお役に立たないと……っ」
「…………」
痛ましい表情で、マレウスはイシュタルを見ていた。
彼女は、その少女について多くは知らない。
ただイシュタルの出自については、ブリーデからも話は聞いていた。
手を伸ばす。
檻の外から、敵意を向けられるのも構わず。
術式を破ろうとするイシュタルの手に、指を触れさせた。
「離せ……!」
「……気性が激しいのは、ラグナに似たのね。
情が深いのはアリスを思い出すわ」
「ッ――!」
マレウスが口にした、二つの名前。
それはイシュタルの両親の名だった。
複雑な感情が渦巻く瞳を、水底の貴婦人は正面から覗き込む。
「失うのが恐ろしい――その気持ちは、とてもよく分かる。
自分が何も出来ないまま、大切な人が消えてしまう。
それは他のどんな事よりも怖いわよね」
「……知った風な事を、言わないでよ」
「知ってるわ。私も同じだもの。
ううん、私や貴女だけじゃない。
誰もが大なり小なり、同じ痛みを抱えてるはずよ」
「…………」
ブリーデは、黙って様子を見ていた。
……その感情を口に出す気は、まるでないが。
この世で一番嫌いな妹が消えた時、彼女は確かに痛みを覚えた。
永遠不滅で、不変であるはずの古竜。
けれど月日と心の繋がりは、確実に変化をもたらす。
それが喜びであれ、苦しみであれ。
変わらぬモノなど決してありはしないのだ。
故に誰もが喪失を恐れ、誰もが変化の先の未来を望んでいる。
「オーティヌスもそう。
彼も、あまりに多くの喪失を抱えすぎた。
長く共にあった仲間も、自分の子供も。
その殆ど全てを失ってしまったからこそ、貴女を守りたいのよ。
自分の娘や、孫と同じぐらいに大切に思っているから」
「……っ」
柔らかく諭す、マレウスの声。
イシュタルはもう、それを否定はしなかった。
ただ悔しそうに奥歯を噛み締め、僅かに俯いた。
「……分かってる。
あの人の、おじい様の気持ちは、分かってるつもりよ」
「イシュタル……」
「けど、私はもう無力な『ルミエル』じゃない……!
《盟約》の礎、大真竜イシュタル!
だから、私は一人でだって……!」
「……そんなだから、貴女は子供扱いされるのよ。イシュタル」
自分自身も迷いを抱えながらも。
イシュタルの叫びに応えて、ブリーデは口を開いた。
「一人で何かしようとしたって、大抵上手くは行かない。
本当に、誰だってそうよ。
あの《最強最古》も、《黒》も、オーティヌスだって同じ。
……もっと遡れば、愚かな私たちの父も」
世界を壊し、あり得ない理想を夢見た《造物主》。
――父にも並び立つ誰かがいれば、結果は違うものだったろうか。
それこそ、どうしようもない夢想に過ぎる。
過ぎ去ってしまった事は変えられない。
けど、まだ定まっていない未来ならば――。
「オーティヌスに何かあれば、その術式は崩壊する。
どっちが勝つか負けるか、そんなのは私には分からないけど。
万が一が起こる可能性はいつだってあるわ。
その時こそ、貴女の――私たちの動くべき時でしょう?」
「……おじい様が、あの方が負けると。
貴女までそんなことを言うの、ブリーデ」
「《最強最古》だって負けたんだから。
《始祖》の王が負けたって、別に不思議じゃないわ」
低く唸るイシュタルに、ブリーデは肩を竦めた。
序列二位の大真竜にして《始祖》の王。
《五大》最強のヤルダバオトの魂を使役する、大陸至上最強の魔法使い。
それこそがオーティヌスだ。
負けるはずがないという、イシュタルの信頼も誤りではない。
《盟約》最強の戦士であるウラノスでも、オーティヌスには及ばないのだ。
だが、それに相対するのは《最強最古》の古竜。
そして不壊の魔剣を携えた、原初の竜殺したる男だ。
加えて《北の王》だったボレアスを含め、彼らの仲間も侮りがたい。
「……おまけに、糞エルフもいるものね」
呟く声は密やかに。
味方面で同行していった男が、裏切る可能性濃厚だとか。
流石にイシュタルには聞かせられない。
きっと、上層で行われている戦いは想像を絶する混沌だろう。
――下手な介入は、逆に害悪になる。
最弱として生き抜いてきたが故の「勘」から、ブリーデはそう判断していた。
「……分からないわ。
動くべき時なんて、本当に来るの?」
「きっとね。私はそう信じてる」
いざその時が訪れたとして、自分が役に立つかどうか。
それはまた別問題だが。
どうあれ、ブリーデとマレウスの説得で頭は冷えたらしい。
イシュタルは多少落ち着いた様子で、光の檻の中で腰を下ろした。
不安げに瞳を揺らし、震動が続く天井を見上げる。
《造物主》を封じるため、神殿の構造は恐ろしく強固に造られている。
にも関わらず、微かな破壊音がブリーデたちの耳にも届いていた。
「戦場になってるのは、ずっと上のはずよね……?」
「十階層以上は挟んでるはずだけど――これは、ホントにどうなるやら」
問いかけるマレウスに、ブリーデは乾いた笑いで応じた。
笑い事ではないが、笑うしかない。
千年、この竜の大陸を支配し続けてきた《大竜盟約》。
その終わりが近付いていることを、これ以上なく予感させる音だった。
「……おじい様は、負けないわ」
呟く声は、怯える子供のように弱々しい。
それでもイシュタルは、揺るがぬ信頼を言葉に込める。
「おじい様なら、相手が《最強最古》だろうと勝ってみせる。
もし万が一があっても、その時は私が動く。
ええ、癪だけど今は貴女たちの言う通りにしてやるわ」
「それが良いでしょうね」
睨むイシュタル。
その仕草も子供っぽいとは思いながら、ブリーデは短く頷いた。
少なくとも、これで暫くは大人しくなるだろう。
傍らのマレウスも、その様子に少しだけ胸を撫で下ろして――。
「……そういえば、ゲマトリアは?」
「あの子は下よ」
指で示すのは、地の底。
この神殿の最下層――正確には、その一歩手前。
封印の真の要である大真竜の円卓と、楔の玉座が置かれた最奥。
今はただ一柱、《黒銀の王》が座している場所。
「一応、こっちにいれば良いとは言ったんだけど。
王の傍にいるそうよ。
彼女も、特に咎めなかったから」
「……そう」
立場で言えば外様のマレウスは、ゲマトリアと王の関係は知らない。
単純な「主従」という言葉では足りない、絆に近いモノは感じていた。
……誰も彼もが、望む事を行っている。
オーティヌスは《盟約》の存続を。
イシュタルは喪失を拒もうと足掻き、ブリーデたちは機を見計らう。
ゲマトリアは過去を想い、《黒銀の王》は来るべき時を待ち続けている。
竜殺しの一行は、《大竜盟約》との決着を。
その上で、《最強最古》の愛と夢を叶えるために竜殺しは戦っていた。
森の王たるウィリアムは、最後の瞬間まで己の勝利を追い続ける。
願いも、抱く思いも。
一つとして同じモノはなく、けれど誰もが同じモノを見ていた。
即ち、未来を。
より良い結末を掴みたいと願い。
あの丘の向こう側の景色が、素晴らしいものであると信じて。
立場の違い、相容れない望みと願い。
それがどれほど些細であっても、譲れぬのなら戦う他ない。
ブリーデは、それを悲しいとは思わなかった。
悲しいと涙を流すには、あまりに長い年月が過ごしてしまった。
故にこの状況を、白き鍛冶師の娘は嘆きはしない。
もし、嘆く事があるとするなら――。
「…………」
地の底――遙か、深淵の彼方。
頭上で響く戦闘の気配とは、まったく異質な「何か」。
視線を下ろしても、見えるのは分厚い石の床だけ。
そのはずなのに、ブリーデは確かに「ソレ」を見た気がした。
まるで、とぐろを巻く巨大な蛇。
あらゆるモノを呑み込む極限の闇――その具現。
《
程度の差はあれど、誰も彼もが先を見ようとする中で。
それだけは完全なる「断絶」だった。
先などない、未来などない。
何もかもをただ「無かった事」にしようとする妄執。
「……不出来で不完全、か」
小さく呟いて、ブリーデは顔を顰めた。
同じく父の気配を感じ取っているマレウスは、何も言わなかった。
何も言わずに、白蛇の姉へと身を寄せる。
「……愚かな父よ。
貴方はもう、何処へ向こうとも思わないのでしょうね」
最も古くに生み出した娘の言葉。
隔たる距離は、物理的な意味も含めて余りに遠い。
故に届くはずもないが、例え届いたとしても聞くことは無かっただろう。
《造物主》だったモノは、地の底で蠢く。
不完全な世界への憎悪と怨嗟。
そして完全なる理想への渇望を抱えて。
邪悪なる神の残骸は、封印の下で呪いを吐き続けていた。
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