幕間1:最善の答え


 ――地の底の神殿。

 唯一たる王の玉座からは離れた場所で、老賢者は一人佇む。

 何をするでもなく、虚ろな眼窩は宙を見つめていた。


『…………片付いたか』


 呟く。

 その声は、聞かせる相手のいない独り言のようだが。


『ええ。貴方の思う通りではないでしょうが』


 返答は、言葉は物理的な音ではなく。

 思念として老賢者――オーティヌスの頭に伝わってくる。

 何もない虚空に、輝く光が姿を現す。

 それこそは、実体を解いたヤルダバオトの魂だった。

 見た目こそ手のひらに収まる程度の火の玉だが、その熱量は恒星の如し。

 それに対し、オーティヌスは手にした錫杖を掲げる。

 ヤルダバオトは、向けられた十字の先端へと自らを重ねた。

 刻まれた封印の術式に、その魂が取り込まれる。

 慎重に、細心の注意を払って必要な作業を速やかに終わらせる。

 綻びが無いかまで確認した上で、オーティヌスは小さく息を吐いた。


『……何故、あの者たちを見逃したのか。

 それは問うても問題はないか、《均衡の竜王》よ』

『見逃したつもりはありませんが』


 返ってくる言葉は、酷く冷たい。

 感情らしい感情は一切なく、意思を持つ者とは思えない無機質さ。

 それこそ、血の通っていない天秤のような。

 ただ定まった機能に基づき動作する、そんな機械的な冷たさだ。


『見逃したつもりはない、とはどういう意味だ?』

『言葉通りの意味ですよ、オーティヌス。

 あの場に、もう私が正すべき乱れはなかった。

 正十字が整っているのなら、それ以上手を出す理由がない。

 だから立ち去る事にした――それだけです』

『…………』


 均衡。正十字。

 ヤルダバオトと言葉を交わすと、その単語は良く出てくる。

 ただ、それが何であるのかは結局不明のまま。

 この竜王の魂を封印してから千年。

 《始祖》の王であるオーティヌスですら、その概念は理解しがたいものだった。


『私は、できるなら《最強最古》も排除したかった』

『それは理解しています』

『そのつもりで、お前を送り込んだのだがな。ヤルダバオト』

『残念ですが、均衡を取り戻した天秤を揺らす意味はありません』

『お前は相変わらず理解できん』

『ええ、理解は求めていませんので』


 一事が万事この調子だ。

 オーティヌスは大きく息を吐き出す。

 施した封印に綻びはない。

 術式を利用し、この竜王を使役できているのも間違いない。

 だが、完全に従えているかといえば否だ。

 オーティヌスとヤルダバオトの関係は、主従ではなく同盟に近い。

 あくまで、ヤルダバオト側がそれを了承しているから成り立っている形だ。


『焦らずとも、彼らはこの神殿にやってくるでしょう。

 そうなればまた、均衡は乱れて天秤は大きく揺らぐ事になる。

 私は貴方の望みを叶えよう、オーティヌス』

『……それは本心から言っているのか、ヤルダバオトよ』

『父の手で創造されて以来、虚偽を口にした覚えは一度もありませんが?』

『……そうだろうな』


 偽る必要はない。

 何事にも揺るがぬほどに強い存在なら、虚偽など不要。

 ヤルダバオトは常に真実のみを語り、その在り方は皮肉にも公正だ。

 そんな災害が、少なくともオーティヌスの意思は汲んでいる。

 《天秤狂い》を知る者が見れば、それは戦慄するほどの異常事態だった。


『――千年前、私もまた他の竜たちと同じく均衡を失ってしまった。

 天秤を平らぎ、正十字を整えるためではなく。

 ただ父の狂気に突き動かされるまま、多くの破壊を行った』


 追憶。

 《黒》と呼ばれた魔法使いが引き起こした、大いなる厄災。

 《造物主》の真名を利用し、竜という種族全体に狂乱の呪いをばら撒いた。

 これを逃れた竜は、本当にごく一部。

 元々の属性が「支配」であったメトシェラなど、例外は極めて稀少だ。

 かつてのヤルダバオトは、その「例外」には含まれていなかった。


『私なりに、感謝はしています。オーティヌス。

 貴方が私を封印し、我が身を狂わせていた父の呪いから解放した。

 あれがなければ、私は未だに無秩序な破壊を繰り返していた事でしょう』

『……率直に言わせて貰えば。

 「無秩序な破壊」という意味では、狂う前も後も大差ないと思うがな』

『理解は求めていません』


 お決まりの文句だった。

 実際、狂気に侵された状態のヤルダバオトと、そうなる前のヤルダバオト。

 傍から見ても、やってる事に大きな差はなかった。

 魂の封印に成功するまで、オーティヌスも判断が付かなかった程だ。

 ただそれを向こうが「恩義」と受け取ったが故に、使役の同意を得る事ができた。

 意図した事ではないが、《天秤狂い》を味方に置ける意味は大きい。


『……あの者たちは来るか』

『貴方は来ないと思いますか?』

『いいや、来るだろう。《黒銀の王》もそう考えている』

『彼女は均衡の要、天秤の基点そのもの。

 当然、彼らが来る事を望んでいるでしょうね』

『叶うなら、私は別の可能性を模索したかった』

『それが叶わぬ望みである事も、貴方なら理解できていると思いますが』

『…………』


 沈黙。

 ヤルダバオトは狂気の竜だ。

 天秤、正十字、均衡。

 それらの概念の多くは、ヤルダバオトの中にしかない。

 故に本質的には他者は理解できないし、向こうも理解を求めていない。

 狂っている――が、決して愚かではない。

 むしろヤルダバオトは知的で、その行動は理性によって制御されている。

 ……考えただけで恐ろしくなるが。

 声には出さず、オーティヌスは胸中で呟いた。

 理解不能の狂気と、完全な理性が両立しているという矛盾。

 それこそ、まるで綺麗に平衡を保った天秤のように。


『……《最強最古》と、その仲間たちがこの神殿に現れたとして。

 彼らが玉座を目指すつもりなら、私はこれを迎撃する。

 これは《盟約》の礎、序列二位の大真竜としての役目だ。

 ヤルダバオト、お前も共に戦うことに異論はないな?』

『その時が訪れたなら、また均衡は乱れることになる。

 そうなれば、私に否はありませんよ。オーティヌス』


 《盟約》の役目、大真竜としての義務。

 それらとは無関係に、あくまで自らの価値観のみで判断する。

 ヤルダバオトとはそういう存在だ。

 故に、オーティヌスはその事を今更とやかく言う気もない。

 どうあれ、こちらが望む通りに戦ってくれるのであれば。

 ……それすらも、一抹の不安が過ぎってしまう。

 不安要素ばかりである事実に、老賢人はまた小さく嘆息した。


『……む』


 と、オーティヌスは顔を上げる。

 神殿内に現れた、新たな気配。

 それは《最強最古》のものではなく――。


「……戻りました、お爺様」

「はーい、ボクもいますよ! 変なオマケもいますけど!!」

『んがっ』


 幼い姿のイシュタルに、頭に猫を載せたゲマトリア。

 やや遅れて、傍らにマレウスを連れたブリーデも姿を見せた。

 後方には森人の男――ウィリアムも。

 《盟約》の同胞らに、オーティヌスは僅かに安堵の気配を滲ませた。


『良く無事に戻った、お前たち』

「ええ。ですが、ウラノスは……」

『長い眠りについたか。

 構わん、友の魂が穢されずに済んだ事を喜ぼう』


 悔いる様子のイシュタル。

 オーティヌスはそれに対し、本心から労いの言葉をかけた。

 彼らには何の罪もない。

 だが、ウラノスが実質離脱してしまった事実は重い。

 彼が万全ならば、これほど思い悩む必要もなかったのだから。


「……オーティヌス。これからどうする気なの?」

『…………』


 ブリーデの問いに、老賢人は一瞬だけ沈黙する。

 けれど、すぐに強い意思を込めた言葉を紡ぐ。


『《最強最古》とその一行は、必ずこの神殿に現れるだろう。

 私は、これを迎え撃とうと考えている』

「王は承知しているの?」

『彼らが自分の元に辿り着いたのなら、戦うつもりでいるようだ』

「…………」


 《黒銀の王》が戦う。

 それを聞いて、ゲマトリアは表情を曇らせた。

 彼女にとっての太陽、変わり果ててもその想いは変わらぬ英雄。

 ……負けるなんて事は、ありえない。

 《盟約》最強の王が、人間に敗れる事など。

 ありえないと、ゲマトリアは何故か断言することができなかった。

 そんな彼女の様子を、ブリーデは横目に見て。


「……王が戦う事になれば、いよいよ《盟約》も終わりね」

『それをさせぬために、私がいる』


 諦めに近い言葉を、オーティヌスは否定した。

 《黒銀の王》が望むところは、彼も十分に理解している。

 けれど、彼女が語る希望もまた不確かだ。

 覚醒を果たし、地の底で激しく蠢き続ける《造物主》の残骸。

 《盟約》の封印は、破綻してしまったも同然だ。

 だが、それでもまだ間に合うとオーティヌスは信じていた。

 王が万全であるならば、少なくとも楔はその封印を維持し続ける。

 ――まだ、まだ全てが終わったワケではない。

 オーティヌスの抱く決意と覚悟も、また強固なものだった。


『《最強最古》を迎え撃ち、これを退ける。

 王自らが戦うまでもない。

 然る後、私は私の全存在を費やしてでも《盟約》の封印を再構築するつもりだ。

 ……皆は傷付き、疲れている。

 今は兎に角、この神殿を離れるといい。

 この大陸に安全と呼べるような場所はないやもしれん。

 が、少なくとも此処に留まるよりはマシだろう』

「お爺様、何を……!」

「ちょっと、そんな弱気な発言はらしくないですよ!?」


 逃げるよう促すオーティヌス。

 そんな彼に対し、イシュタルやゲマトリアは焦りを見せる。

 まるで、死に逝く者の最後の言葉だ。

 ブリーデは何も言わなかった。

 事実として、《盟約》の大真竜は半ば壊滅状態だ。

 まともに戦えるのは、最早第二位であるオーティヌスのみ。

 イシュタルやゲマトリアは弱体化が著しく、ウラノスは深い眠りに落ちた。

 コッペリアことヘカーティアは、恋人の魂と共に消え去った。

 そしてブリーデは、今更双子の妹と矛を交えるほどの戦意を持っていない。

 故に、今の彼女の立ち位置は傍観者に近かった。


「ちょっと、ブリーデさんも何か言ってくださいよ!

 このお爺ちゃん、今更になって死に急ぐつもりなんですよ!?

 ボケ老人気取りも大概にして欲しいですよね!」

「ちょっとゲマトリア、あなたお爺様に失礼なこと言うんじゃないわよ……!!」

「……ブリーデ?」

「私が何を言っても、仕方がないと思うけど……」


 混乱する二柱を見て、黙っていたマレウスは苦笑いをこぼす。

 そんな彼女に呼ばれて、ブリーデは仕方ないとばかりに口を開くが……。


「――そう焦って騒ぐような事でもあるまい」


 この場に、もう一人。

 《盟約》の側とは言い難く、大真竜とも立場が大きく異なる。

 しかし確実に強い影響力を持つ男が、声を上げた。

 オーティヌスも視線を向ける。

 森人の男。

 ブリーデの《爪》である事だけは、老賢人も把握していた。

 確か、名は――。


『ウィリアム、だったか』

「名を覚えて貰えていたとは、光栄だな。《始祖》の王」

『お前ほどの傑物なら、記憶せぬ方がおかしかろう。

 ……それで、今のお前は何を企んでいる?』

「企むなど、そんな御大層な話でもない」


 笑う。

 序列二位の大真竜、その圧力を真っ向から浴びせられながら。

 そんなものはそよ風だと言わんばかりに、ウィリアムは笑っていた。


「《最強最古》と、あの竜殺しの男は必ず来る。

 それは間違いない。

 だが、それに貴方が一人で残って迎え撃つのは得策ではないな」

『何故、そう言える?』

「勘だ。いや、敢えて言うならあの男はは得意だろうからな。

 わざわざ、確実に負ける道を選ぶ必要もないだろう」

「な……っ」


 オーティヌスが負ける。

 それを酷い侮辱と感じ、イシュタルは怒りを露わにした。

 が、それをオーティヌス自身が制した。

 《始祖》の王は、むしろ冷徹にウィリアムを見定めている。

 ウィリアムもまた、それを正面から受け止めていた。


『……何を考えている?』

「常に勝利のみだ、オーティヌス。

 あの男は来る、そして戦う道は避けられないだろう。

 ――だが、本当にそうか?

 戦うという選択肢は、どのタイミングでも選ぶことができる。

 それとは別に、《大竜盟約》として『最善の答え』は他にあるとは思わないか?」


 そう言って、ウィリアムは笑った。

 オーティヌスですら、その心の奥底は見透かせない。

 ただ一つ、言葉にせずとも伝わるものがある。



 根拠すら必要としない、自らの勝利への確信。

 ただそれだけは隠そうともせずに、ウィリアムは不敵に笑っているのだ。

 それはオーティヌスにとって、ヤルダバオトの天秤並みに理解し難いものだった。


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