第五章:幾千もの罪と、たった一つの善、その報い

449話:燃え殻の男


 幸運と偶然。

 それが幾つか重なった結果として、オレはそいつの前に立っていた。

 《灰色アッシュ》。

 最初に出会った時に、この男はそう名乗った。

 燃え残ってしまった一握の灰。

 かつては《黒》と呼ばれたはずの誰か。

 その時代の事については、オレは良く知らない。

 ただ、コイツが放っておけないクソ野郎だって事だけは理解していた。


「イーリス、前に出過ぎだぞっ!」

「ハハハ、まぁ良いではないか。やりたいようにやらせてやれよ」


 背中で焦った姉さんの声と、ボレアスの笑い声が聞こえる。

 ――幸運と偶然。

 レックスの奴が、アウローラの《転移》に巻き込まれた後。

 行き先も分からず動きあぐねていたところに、姉さんが合流してくれた。

 おかげで、二人の気配を探って、《転移》で直接飛ぶことができた。

 そして、空間を渡った先。

 それがたまたま《灰色》の近くだったのは、本当に偶然だった。

 向こうからすれば、ふざけた運命の類かもしれないが。

 まぁ、オレには関係ないことだな。


「どうしたよ、一発だけで音を上げた――なんて。

 幾らなんでも、そこまで情けないことは言わねェだろ?」

「っ……!」


 ブン殴ったばかりの顔面を抑えて。

 《灰色》は、赤く燃える瞳でオレを見ていた。

 全力でフルスイングしたせいで、折角掴んでいた腕は離しちまった。

 けど、特に問題はない。


「ほら、どうした? 逃げても良いんだぜ。

 今更恥もクソもありゃしないだろ。

 オレみたいな小娘相手に、尻尾巻いて逃げ出すぐらいよ」

「……相変わらずのようで安心したよ、イーリス」


 唸る声。

 安い挑発だと分かっても、《灰色》は聞き流せなかったようだ。

 獣が牙を見せるみたいな笑み。

 実際、今の《灰色》は手負いの獣のようなものだった。

 余裕らしきモノは何処にもなく、ギラつく眼差しが肌に突き刺さる。


「ホント、君には肝心なところを邪魔されるな。

 正直、失敗したと思ってるよ」

「ヘカーティアの時に助けた事をか?

 それとも、それ以前にオレと出会っちまった事をか?」

「……どちらかというと、後者だろうね」


 素直で大変結構。

 正面から向き合う形で相対しながら、相手の様子を観察する。

 肉体的な負傷とか、そういうのは何とも言えない。

 ただ、消耗している事は感覚で理解できた。

 ……一番気になるのは、《灰色》自身とは別のモノ。

 奴が右手の中に握り込んでいる、異様な力を持った「何か」だ。

 ――ヤベェな、アレは。

 うなじの辺りがチリチリと痛む。

 まだ直接目にしたワケでもないのに、頭の中がグラグラしやがる。

 明らかにヤバい代物だ。

 恐らく、レックスたちにもアレで何かしようとしたな。

 オレの視線に気付いたか、《灰色》の表情に警戒の色が浮かんだ。


「どうやら、君も以前と同じってワケじゃなさそうだね。

 大陸の外は楽しかったかな?」

「あぁ、おかげさまでな。それについては感謝しても良いぜ」

「俺としては、五体満足で戻ってきただけでも誤算だったけどね。

 君は弱いから、すぐに死ぬと思ってたよ」

「そうだな、テメェが余計なことしなけりゃとっくの昔に死んでたよ。

 礼が欲しいんだったら、キスの一つもしてやろうか?」

「冗談でも勘弁してくれよ、後ろにいるお姉さんの目が怖すぎる」


 そりゃそうだろうな。

 クソ野郎から目が離せないんで、今は振り向けないが。

 すぐ後ろにいる姉さんが、思いっきり睨んでるって事は想像に難くない。

 ま、半分冗談だから勘弁してやって欲しい。

 傍らに立つボレアスは、ふむと小さく鼻を鳴らした。


「成る程? その手にあるのは、我らが愚かな父に由来するモノか」

「……流石に、気配で分かるか」

「それを使い、弱った長子殿を支配する気だったか?

 だとしたら運が無い。

 我らが《転移》した先が、たまたまお前の隠れていた場所だったとはな。

 率直に言って、運命に見放されているのではないか?」

「っ……」


 運命に見放されている。

 ボレアスにとっては、軽い皮肉ぐらいのつもりで口にした言葉。

 けど、それを聞いた《灰色》の反応は劇的だった。

 奥歯を強く噛み締め、唇を震わせる。

 瞳に宿る炎は、憤怒と憎悪で赤く赤く燃え上がった。

 運命。

 きっと、この馬鹿な男が何度となく打ちのめされたモノだ。

 乾いた笑いを、《灰色》は怨念と共に吐き出す。


「あぁ――そうさ、そうだな。言う通りだよ。

 これからだった、やっと始まるところだったんだ。

 《造物主》の真名の力で、あの《最強最古》を支配して。

 大昔に奪われた魔剣も取り返し、それでようやくだったんだ。

 俺が望んだ全てを、ようやく叶えることができる。

 そのはずだったのに……!」

「そこに、オレらが間に合っちまったと。

 あぁ、ホントに運が無ェよ、お前」


 恨み節を聞きながら、オレは一歩前に出た。

 反射的に、《灰色》は後ろに下がろうとした。

 けど、その足が途中で止まる。

 ――逃げても良いんだぜ。

 オレが口にした安い挑発が、よっぽど深く刺さってるみたいだな。


「待て、イーリス」

「大丈夫だよ、姉さん」


 肩に触れる姉さんの手。

 それに指を重ねて、ちょっとだけ力を込めた。

 大丈夫――あぁ、オレは大丈夫だ。

 胸の内では自分に言い聞かせ、口にするのは強気な言葉を選ぶ。


「こんな腰抜け、オレ一人でどうとでもなる。

 だから姉さんとボレアスは、あっちの色ボケ二人を気にしててくれよ」

「胸焼けをしそうだから、我はあまり見たくはないんだがなぁ」


 それは確かに。

 けど、こればっかりは譲ってやれねェ。

 今までの借りとか諸々、全部その顔面に叩きつける絶好の機会だからな。

 オレを睨む《灰色》の目は、ますます険しくなっていく。


「……耳がおかしくなったかな。

 今、妙なことを言わなかったか?」

「おかしいのは耳じゃなくて、頭の中身だろ。

 オラ腰抜け、それとも玉無しの方がお好みだったか?」


 一歩、また一歩。

 躊躇うことなく前に出る。

 姉さんの手は、もう肩から離れていた。

 けど、温もりは残っている。

 オレは一人じゃなく、誰かと共に立っているんだと。

 その事を教えてくれる、確かな熱。

 それだけあれば、戦うには十分過ぎた。


「逃げても良いって言ったよな?

 まぁ、こっちは当然逃がす気なんてゼロだけどな。

 泣いて謝るなら、今が最後のタイミングだぞ」

「本気で言ってるのか、小娘」

「自分より弱い相手にしか強気になれねェから、お前は腰抜けだっつってんだよ」

「俺は《始祖》の一人だぞ!!

 古き竜とも並び称された俺に、お前みたいな――」


 くだらねェ戯言を、長々と聞いてやる義理もない。

 《灰色》が叫んでいる間に、オレは走った。

 拳を強く握り固めて一直線。

 距離は大して開いていなかったから、オレの足でもすぐに潰せた。

 まさか、バカ正直に真っ直ぐ来るとは思ってなかったか。

 結果的に不意を打ってしまったようで、《灰色》の驚く顔が見える。

 そのど真ん中へと、拳の先端を突き刺した。

 先ずは一発!


「っ、が……!?」

「オラァ!!」


 気合いを入れたら、レックスの奴みたいな声が出た。

 いい感じに力を込められた拳で、クソ野郎の頭蓋を思いっきり叩く。

 当然、一発だけじゃ終わらせない。

 殴った衝撃で下がった顎。

 そこを狙って、つま先で蹴り上げる。

 当たり前だが、加減は無しの全力でだ。

 火花が散ってる《灰色》の頭に、今度は右フック。

 強く叩きすぎて、逆にこっちの骨が折れそうだ。

 折れそうだが、構うもんかよ。

 拳を砕くぐらいの覚悟を決めて、クソ野郎を兎に角ぶっ叩く。


「こ、の……ッ、調子に乗って……!!」

「ほざいてる暇があんのかテメェっ!!」


 殴る。ブン殴る。

 《灰色》は魔法使いだ。

 身体能力については良く分からんが、そこまで人外じゃないだろう。

 それこそレックス並みなら、オレの拳が届くはずもない。

 蹴る。玉を狙ったが、それはギリギリ外された。

 魔法を使う隙は与えない。

 いや、与えないつもりだった。


「――だから、あまり舐めるなよ!!」

「ッ……!?」


 衝撃。

 何をされたのか、すぐには分からなかった。

 ただ強い力で全身を押され、耐え切れずにすっ転んだ。

 どうやら、目には見えない「壁」で自分の周りを覆ったらしい。

 これは流石にどうしようもなかった。

 で、更に。


「そんなに俺と戦いたいなら、相手をしてやるよ! イーリス!」


 倒れたオレに向けて、《灰色》が左手をかざす。

 魔法の類は専門外で良く分からないが。

 輝く蒼白い光が何であるのかは、流石に理解できた。


「《分解》か……!?」

「イーリスっ!!」


 小娘相手に容赦ねェな《始祖》!

 悲鳴に近い姉さんの声を聞きながら、オレは全力で地面を転がる。

 直後、《灰色》は《分解》の術式を放つ。

 魔法の光は大地の一部を塵に変えて、髪の毛の一部もそれに巻き込まれた。

 こんな術、人間相手にポンポン撃つもんじゃねェだろマジで。


「どうした、流石にブチギレたかっ!?」

「挑発したのはそっちだろう!!」


 笑いながら、オレはバネのように跳ね起きる。

 さて、やっぱりまともに戦うのは厳しい。

 それについては認めるしかなかった。

 腐っても相手は《始祖》。

 この大陸に魔法って技術をもたらした、始まりの十三人の一角。

 そんな最古の魔法使いを相手に、普通の戦闘で勝負になるはずもない。

 理解しているし、《灰色》の方も分かってる。

 だから向こうは、オレよりも姉さんやボレアスの方を警戒していた。


「ボレアス殿……!」

「落ち着け、お前の妹は助けを求めているか?

 自分一人でやると言ったのは、奴自身であろう。

 ならば今は大人しく見ておけ」


 すぐにでも割って入りそうな姉さん。

 ボレアスは、それを無理やり抑えてくれていた。

 傍若無人のようで、こういう気遣いはできる奴なんだよな。

 心の中で礼を言って、オレは目の前の相手に集中する。

 《灰色》の魔法使い。

 今はもう《黒》とは呼ばれない、燃え殻も同然の男。

 まともに戦えば、一切勝ち目がない相手だ。


「助けを求めなくて良いのかい?」

「笑える冗句だな。

 くだらねェ事なんかやめて、芸人にでもなったらどうだ?」

「…………くだらない、くだらない事か。

 イーリス、俺は」

「何をどう言い訳したところで、答えは変わらねェよ。

 今のお前は、古い失敗を埋め合わせようとして、更に悪化させてる大馬鹿だ。

 それ以上でも以下でもない」

「ッ……」


 きっとまた、アレコレと屁理屈をこねる気だったんだろうが。

 そんなものを、オレが素直に聞いてやるかよ。

 戯言だ、全部。

 《灰色》が望んでいるモノは、何もかもが世迷い言の絵空事なんだ。

 それはコイツ自身、分かっているはずなのに。


「……それで? 強気なのは良いけど、ここからどうする気だ?」

「…………」

「俺と君じゃあ、そもそも勝負にならない。

 確かに今の俺は消耗しているし、この真名の制御に力も割かれている。

 それを差し引いたって、俺と君の戦力差は大人と子供よりも更に深刻だ。

 もう一度言うけど、助けを求めなくて良いのか?」

「そしたら、


 オレ一人じゃ勝負にならない。

 だけど、姉さんやボレアスがいれば話は違う。

 今度は逆に、《灰色》の方に勝ち目はなくなるだろう。

 そうなったらコイツは、きっと躊躇なく逃げ出す。

 逃げるに足る理由があるのなら、迷う必要なんてないからだ。


「今てめェが逃げ出さないのは、小娘一人に逃げる理由がないだけだ。

 逃げられないように、逃げて恥をかかないように。

 オレなりに気ィ使ってタイマンにしてやってんだ、そこんとこ理解しろよ」

「ッ……イーリス……!」

「初めて会った時から気安いんだよ、お前」


 笑う。

 笑って、呼吸を整える。

 ――「制御」にはまだ不慣れで、どうにも手こずってしまう。

 けど、何とかなりそうだ。

 馬鹿が余裕かまして、長話に付き合ってくれたおかげだ。


「……待て、イーリス。君は何を」

「まともに戦ったら勝負にならないって、お前そう言ったよな」


 戯言は無視して、一方的に言葉を叩きつける。

 気付いたのは流石だけど、もう手遅れだ。


「ンなことは分かってるっての。

 だからオレは最初っから、『まともに』戦う気はこれっぽっちもねェよ」


 手を伸ばす。

 但し、それは物理的な手じゃない。

 もっと深い場所、精神とか魂とかから伸びる感覚上の「手」。

 今の《灰色》は見えない壁のせいで、物理的には接触できない。

 けど、この「手」は物質ではないから無関係だ。

 「掴んだ」瞬間になって、やっと《灰色》は事態を察した。


「っ――これ、は……!?」

「遅ェよ。

 それじゃあ、こっからが本番だ。

 死ぬほど殴ってやるから、せいぜい歯ァ食いしばれよ」


 狼狽する《灰色》に構わず、オレはより強く力を込める。

 《灰色》を掴んだ、魂の「手」に。

 引きずり込むのは物理法則の外。

 オレたちは意識を繋げながら、暗い闇の底へと身を投げ出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る