447話:彼女の黎明


 ――――何故だ?

 何故、何故、何故何故何故何故。

 意味のない疑問符ばかりが、頭の中を埋め尽くしている。

 目の前の現実を、正しく認識できない。

 あり得ない、そんな事。

 馬鹿な、不条理だ、道理に合わない。

 否定をどれだけひねり出したところで、変わらない。

 ――私は、敗北したのか?

 崩れる、私の《竜体》が。

 命に到る傷を受けた事で、維持はもう不可能だった。

 最低限、魂を無防備にしない程度の器を構築するしかない。

 殆ど意識せずに、私が固定化した形。

 それは、不思議と慣れ親しんだ少女の姿だった。

 別に見た目はどうでも良い。

 ただ、受けた傷の重さが問題だった。


「ッ……何故……!」


 疑問は唇からも、音としてこぼれ落ちた。

 《竜体》の残骸の上で、私は無様に這いつくばっていた。

 弱々しい人の器は、その見た目通りの力しか出せない。

 本来であれば、《竜体》ほどではないにしろ相応の出力はあるはず。

 それすらできない程に、今の私は弱り切っていた。

 《最強最古》たる、この私が。

 こんな、惨めに地べたを這うなんて……っ!


「…………」


 砂利を踏む微かな音。

 地に伏せたまま、私は首だけを動かす。

 見上げた姿も、こちらと大差ないぐらいにはボロボロだった。

 というか、人間ならば死んでいなければおかしい。

 私は改めて、その男の姿を観察する。

 身体のどこを見ても、無事な箇所なんて一つもない。

 立ってこそいるが、足の骨も罅だらけのはず。

 足に限らず、全身の至るところを骨折しているのが一目で分かった。

 傷だらけの甲冑、その下の血肉もまた傷だらけだ。

 特に、最後に受けた肩の傷。

 これは疑いようもなく、程なく死に到る傷だった。

 死ぬ――この男は、死ぬはずだ。

 なのに、何故だろう。

 何故、何故?

 どうして私は、この男から死の気配を感じていないのか。


「……お互い、しんどそうだな?」

「っ……」


 掠れた声。

 声を出す事すら、命を削る状態のはずだ。

 にも関わらず、男は気楽に笑っていた。

 私は、何かを応えようとした。

 けれど声は出ずに、身体が不自然に震えてしまう。

 これでは、私がこの男を恐れているようではないか……!

 違う、違う違う、そんなはずはない。

 私は何も恐れていない。

 私は《最強最古》。

 この世で並ぶ者など、愚かなる父以外にありはしない。

 なのに――なのに、何故、何故?


「……あー……良し、ギリギリまだ残ってたな」

「……?」


 呟きながら、男は自分の懐を探っている。

 出てきたのは一本の小瓶。

 何かの液体が入っているようだが、分からない。

 男は兜の隙間に瓶の口をねじ入れると、中身を一気に呷った。

 すると音を立てて、男の身体から湯気が立ち上る。

 賦活剤か……!

 しかも、かなり強力な代物だ。

 私か、それに近い古竜の体液から錬成したモノか。

 いやだとしても、効果があまりに劇的過ぎる。

 死ぬはず――いや、死ななければおかしい程の傷さえも塞がっていく。

 驚く私など気にもせず、男はあっという間に死神を追い払ってしまった。

 無論、万全ではないだろう。

 致命傷が治癒しても、男が重傷である事に変わりはない。

 だが、それでも。

 この時点で、戦いの勝敗は完全に決したと言えた。


「……私が、負ける?」

「そうだな」


 半ば呆然としながら、唇からこぼれ落ちた言葉。

 それに対し、男は律儀に応える。

 足を少し引きずるようにしながら、私の前へと近付く。

 片手に握ったままの剣が、不気味に輝いている。


「あり得、ない……私は、《最強最古》だ……!

 全ての、竜の頂点……万物を、支配し、蹂躙する……。

 この世で、最も強い、はず……なのに……!」


 否定、否定、否定。

 物わかりの悪い、幼子も同然に。

 私は動けない状態で、無意味に否定を重ねるしかない。

 そう、全て無意味だ。

 私は動けず、男は重傷だが剣を振るうぐらいの力はある。

 あまりにも明白な、勝敗の形だった。

 ――あの剣は、竜を殺すために鍛えられた一振りだ。

 これだけ戦ったのだ、嫌でも理解できる。

 魂に刃が完全に届いたのなら、その内へと呑み込まれる。

 永遠不滅である古き竜を封殺する魔剣。

 万全の状態であればまだしも、今の私に抵抗する術はない。

 あと一振りで、全てが終わってしまう。


「…………」

「っ……や、めろ……来るな……!」


 無様なこと極まりない。

 普段の私なら、そんな所業は嫌悪するだろう。

 或いは、他の相手ならば潔い態度の一つも見せたかもしれない。

 けど、この男だけは。

 竜殺しの剣を手にしているという、その事実を抜きにしても。

 私は何故か、これ以上ない恐怖を覚えていた。

 《最強最古》であるはずの私の、何もかもを否定する「何か」。

 理由も根拠も不明な戦慄が、魂さえも震わせる。


「来る、な……っ、私は、まだ……負けて、など……ッ!!」

「そうだな、お前は負けてないよ」


 語りかける声。

 その響きは、いっそ優しげですらあった。

 動けぬ私の目の前で、男が足を止める。

 恐ろしくて――あぁそうだ、私は恐怖に震えていた。

 それ故に、男をまともに見る事さえできずにいたのだ。

 何かが、顔を伏せた私に向かって伸びてくる。

 いよいよ竜殺しの刃が、驕った愚かな竜の命脈を断つのか――。


「よ、っと」


 そう、思った矢先。

 伏せていた視界が上向き、身体ごと浮き上がる。

 意味が分からない。

 自分が何をされているのか、まったく理解できなかった。

 動かぬ身体を、男が抱え上げた。

 たったそれだけの事実を認識するのに、私の脳は数秒も必要とした。


「ぁ――な……お、まえ……!?」

「悪いな、ちょっと座らせてくれ。流石にしんどいわ」


 不明な感情に、声も身体も震えてしまう。

 そんな私を腕に抱きながら、男はその場に腰を下ろした。

 私を殺すと思っていた剣。

 すぐ傍らにだが、男は手を離して立てかけた。

 私を殺す意思どころか、戦意すらもう欠片も感じ取れない。

 本当に、意味が分からなかった。


「何故……!」

「あー、俺の負けだからかな」

「………………は?」

「だから、俺の負けだよ。最初から分かってたんだけどな」


 男は、まるで世間話でもする軽さで言ってのける。

 この戦いは、自分の敗北だと。

 ……意味が分からない。

 今度こそ、本当に、欠片も理解が及ばない。

 いやどう見ても、負けたのは私の方だ。

 人間一人殺すこともできず、逆に《竜体》を砕かれて。

 不死不滅だから死ぬ事はないが、戦う力は欠片も残っていない。

 少なくとも、今この場では。

 絶句している私に、男は何度か小さく頷いた。


「俺にお前は殺せない。

 今みたいに、ギリギリ追い詰めるまでは何とかできても。

 それ以上は――まぁ、無理だからな。

 だから、最初っから俺に勝ち目はなかったんだよ」

「そんな……また、戯言を……!」

「戯言じゃないぞ、本気だ」


 うむ、と。

 私の言葉を否定した上で、男は言うのだ。


「お前を、愛してるからな。アウローラ」


 また、あの戯言を。

 単なる、雑音ノイズにも等しい、無価値なはずの言葉。

 それなのに、どうして私はかき乱されている?

 胸の鼓動が早まり、全身に熱いモノが巡っているのを感じるのだ。

 意味が――意味が、分からない。

 何故、何故?


「俺はお前を愛してるから、お前を殺すとか無理だ。

 ……あー、こう、何度も言ってると流石にちょっと照れるなコレ。

 いやでも、言わなきゃ伝わらない事ってあるもんな」

「や、め」

「愛してる。

 お前と本気で戦うってのも、やってる間はなかなか楽しかったが。

 ちょっと冷静になると、途端にしんどくなるな」


 できれば、二度はいいなと。

 そう呟くように言って、男は私の身体に腕を回した。

 抱き締める――抱き締められている。

 抵抗はできなかった。

 するだけの力は、私の中には残っていない。

 するための意思は、最初から私は持ち合わせていなかった。

 ――ダメだ。

 これは、ダメだ。


「ダメ……っ、私、は……」

「ダメじゃないぞ」


 否定される、否定されてしまう。

 《最強最古》、《古き竜の長子》、《万物の敵対者》。

 誰もが、あらゆる名前で私を呼んだ。

 幾つもある異名で、私を「恐ろしいモノ」と讃えた。

 その恐怖が心地よかった、その畏怖こそが私という存在そのものだった。

 誰もが私を恐れる、故に私はこの世の頂点に君臨する最強の竜。

 その、はずなのに。


「アウローラ」


 それで、私を呼ぶ事だけは堪えられない。

 恐怖でも、畏怖でもない。

 ただ一つの、まったく別種の感情を込めて彼はその名を呼ぶ。

 それが「愛」である事を、私は知っていた。

 知るはずのないモノを、私は――。


「アウローラ」

「っ……やめ、ろ……!」

「アウローラ」

「ダメだ、その、名前で……私を呼ぶ、のは……っ」

「お前が、俺にお願いしたんだ」


 名前。

 呼び名を、付けて欲しいと。

 そうだ、私は、確かに、この場所で。


黎明アウローラ……」

「思いつきだったんだけどな」


 笑う。

 彼は、笑っていた。

 抱き締める腕に、私は抗えない。

 私――私、私?

 私は。


「なぁ、アウローラ」

「っ……」

「俺ばっかり呼んでるのも、寂しいだろ」

「な、にを」

「お前が、俺をそう呼んでくれたんだ」


 声は深く、どんな刃よりも鋭く、私の魂を切り裂く。

 誰も届くはずのない場所まで。

 何の躊躇いもなく、彼は踏み込んでくる。

 私は――私は、とても、抗えそうになかった。

 震える。声が、魂が。

 彼が私に求めるのなら、その全てを差し出しても良い。


「ほら」

「ぁ……」


 手が触れる。

 私の頬をなぞってから、離れる。

 籠手に包まれた指は硬いはずなのに、暖かさで頬が濡れていた。

 次に触れたのは、私の手だ。

 優しく添えるように握ってから、ゆっくりと引っ張られる。

 導かれたのは、彼の顔。

 正確には、それを隠している兜に。


「分かるだろ?」

「っ……」


 言葉が喉につっかえている。

 もう、私は完全にされるがまま。

 促される言葉の意味も、確認するまでもなく理解できた。

 金属の表面に、指を引っ掛ける。

 震えてしまっているので、どうしても慎重に。

 彼の頭を覆っている兜を――外した。

 晒された素顔。

 それを見た瞬間に、胸の内から熱が溢れた。


「レックス……!!」

「やっと呼んでくれたな」


 笑う彼の表情が、涙で滲んで見えない。

 熱は止めどなく溢れ出す。

 それが「愛」である事を、私は知っていた。


「レックス、レックス、レックス……!」

「あぁ」


 何度もその名前を口にした。

 何度も、何度だって足りない。

 その一つ一つに、彼はしっかりと応えてくれる。

 抑えきれない。

 名前を呼ぶだけじゃ、とても足りない。

 だから私は、彼の唇に思いっきり噛みついた。


「んっ……!」


 流石に驚いたようで、その反応だけでも歓喜で狂いそうになる。

 何度も、何度だって足りない。

 牙を立てて、舌で触れて、舐めて、溢れたものを啜って。

 互いの吐息が絡み合い、互いの熱が溶け合っていく。

 永遠にこうしていたいぐらい。

 けど、最後はどちらからともなく離れた。

 生じた空白に、酷く寂しい気持ちになったけど。


「……おかえり、アウローラ」


 彼の声が、それをすぐに塗り潰してくれた。

 だから私は、微笑みながら応える。

 力の入らない腕で、無理やりその身体を抱き締めながら。


「ただいま――私の、王様レックス

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