442話:彼女の愛と、彼の答え
――――支配する事が全てだった。
「彼女」にとって、それ以外の事柄には何の意味もなかった。
偉大なる《造物主》。
この世界の「外」から現れた邪悪なる偽神。
全ての古竜を創造した、大いなる父。
彼の者は、「完全かつ永遠不滅なる生命」として竜を生み出した。
生み出された竜には、それぞれ「役割」や「機能」といった個性が与えられた。
始まりに創造された長子が、「全ての竜の王」となる事を定められていたように。
「彼女」――メトシェラもまた、最初から「支配者」として創造されていた。
《最強最古》が竜の頂点なら、彼女はその下に座る副王。
与えられたのは《支配》の権能。
その力にもまた、大いなる父の性質が色濃く反映されていた。
名が示す通り、全てを支配する事。
永遠ならざる下等な生命に、同胞たる古き竜たち。
その尽くを鎖で繋ぎ、その魂を跪かせる。
隷属する者たちの上に君臨し、永久に輝きを放つ宝冠。
それこそが、メトシェラという存在の全て。
生誕を果たし、《造物主》の死を目の当たりにしても。
その死をきっかけにして、与えられた己の役割を果たすために動き始めた後も。
彼女は何も変わらない。
メトシェラという竜は、最初からただ「それだけ」の存在に過ぎなかった。
疑問はないし、感じる必要もない。
自分は支配者だ。
《最強最古》というただ一つの例外を除いて、万物を支配する事こそが存在意義。
故に、彼女が見る世界は常に灰色だった。
無価値で無意味、目に映るモノ全てが塵芥も同然。
――だって、この手を伸ばせば簡単に支配することが出来てしまう。
一瞥を寄越すだけで、この世の大半が頭を垂れてひれ伏すのだ。
果たしてそんなモノに、価値や意味などあるのか?
否、否だ。
支配すればみんな同じなのに、其処に価値や意味などあるはずもない。
無価値で無意味なモノを跪かせて、ただその上に君臨する。
万物の支配者であるメトシェラは、そうやって永遠に在り続けるのだと。
彼女はそう確信し、諦めてさえいた――その瞬間までは。
「……ええ。今でも鮮明に思い出せる」
呟いて、メトシェラは初めて認識する。
自分が今、何もない荒野の真ん中に佇んでいる事を。
いや、「何もない」というのは正確ではない。
足元の地面には、無数の鎖が複雑に絡み合いながら這い回っている。
――まるで、蛇の交尾だ。
そして、その大量の鎖は荒野の一点に集中していた。
鎖が戒めているのが、何であるのか。
メトシェラは知っていた。
「竜より強い人間の戦士がいると、たまたま噂を耳にした。
その者は武器を使わず、自分の肉体のみで古き王すら打倒し得る、と。
――あり得ない話だと、私も最初は笑いましたよ。
冗談ならば面白いけれど、作り話としてはあまりに出来が悪いと」
笑う。
メトシェラは笑っていた。
封印術式を受けた事で、意識は己の内側へと閉ざされた。
彼女はもう動けない。
この鎖に覆われた荒野こそ、メトシェラの内面世界。
そこにいるのは、彼女一人だけではなかった。
「ただ、もしその話が一欠片でも真実なら。
その人間がどんな相手なのか、見てみたいと思いました。
竜よりも強い男、大陸最強の戦士。
《鋼の男》、或いは《鋼鉄の大英雄》。
誰もが叙事詩に歌われる伝説として、その者を讃えた。
死を前にした兵士であっても、その名を口にすれば希望に微笑むと」
そう語るメトシェラの言葉こそ、まるで歌のように。
怒りも敵意もなく。
支配の女は、いっそ穏やかに笑っていた。
鎖が硬い音を立てる。
ジャラリ、ジャラリと。
擦れ合って、引き摺られながら。
複雑に絡んだ鎖の塊が、ゆっくりと近づいてくる。
荒野を覆い尽くす、全ての鎖の中心。
メトシェラは動かない――いや、動けない。
この荒野が彼女の魂の世界で、彼女はその中心。
だから《支配の宝冠》は、進むことも下がることもできない。
ただその場に佇み、メトシェラはそれを見ていた。
「……そして、程なくして私の願いは叶いました。
今はもう、どういう理由だったかも忘却の彼方ですが。
ある戦場にたまたま身を置いていた私の目に、その姿は飛び込んできた」
ほう、と。
熱っぽい吐息が、薄い唇から漏れる。
「――美しいとさえ、思いました。
優雅さなんて欠片もない。
気品と、そう言葉で飾るのも躊躇する。
ひたすらに原始的で、ひたすらに生命力に溢れたその姿。
無数の戦場を経て、鍛え抜かれた無骨な鋼。
なるほど、これは確かに《鋼の男》だと妙に納得したものです」
その時の光景だけは、メトシェラはいつでも鮮明に思い出せる。
運命と出会った瞬間だ。
支配の女が、《最強最古》の長子以外に初めて支配できない者を見た。
鎖では縛れない――縛ったとしても、屈服させるのは困難。
メトシェラにとって、それは屈辱のはずだった。
支配者として生まれた彼女にとって、支配できぬ存在などあってはならない。
だというのに。
「胸が高鳴り、熱くなった。
ワケも分からず涙をこぼすなんて経験、あの一度きりでした。
支配の女であるはずの私が、心を支配されてしまった。
その時の私は、自分が抱いた感情の名前すら分からなかった」
ジャラリ、ジャラリ。
鳴り響く鎖の音が、少しずつ近づいてくる。
鎖の塊――いや、その鎖は徐々に剥がれ落ちていた。
見えてくる姿は、良く知る男のモノ。
彼女が支配し、魂の内に深く沈めたはずの「彼」。
メトシェラはただ、それを見ていた。
「それが愛だと知ったのは、また少し後の事。
愛、愛――ええ、愛だ。
こんなにも苦しく痛い感情に見合う名は、他に存在しなかった。
だから私は、貴方を愛している。
一目見たあの瞬間から、私は貴方への愛に支配されてしまったのです」
愛。
人間が良く口にするが、実体を伴わない不完全な感情。
永遠ならざる魂、その欠損を誤魔化すための言い訳に過ぎないと。
かつてのメトシェラは、そう考えていた。
自分がそのような感情に囚われる、その時までは。
《支配の宝冠》は、一人の男に向けた愛に支配された。
……そう。
生まれた瞬間から、他者を「支配」する事を義務付けられた女。
結局、彼女にとって「愛する事」は「支配する事」だった。
その性だけは、決して変わる事はなかった。
「……愛しい人、
私は負けた、負けてしまった。
それは構いません、この敗北は私の愚かさ故。
もし戦ったのが貴方の方であれば、結果は違ったでしょう。
この敗北は、貴方の敗北ではない。
そして、私の愛が負けたワケでもない」
「――――」
言い訳じみた言葉だった。
けど、メトシェラはそれを深く信じていた。
《鋼の男》は、間違いなく大陸最強の戦士なのだと。
それを縛った自分の愛が、負けたワケではないのだと。
強がるように、誇るように。
メトシェラは堂々と言ってのけた。
そんな愚かな言葉を聞き届けるのは、ただ一人。
「私は――」
「メトシェラ」
ついに、声が届いた。
名を呼ばれた支配の女は、弾かれるように顔を上げる。
その時になって、気が付く。
「彼」だけを見ているようで、自分がずっと俯いていた事に。
――恥じていたのか、恐れていたのか。
メトシェラは「彼」の事を見ているようで、全く見ようとしていなかった。
それを自覚しながら、彼女は改めて目を向ける。
支配の鎖、その大半を振り払って佇む男。
封印術式にメトシェラの方が縛られた事で、再び立場が逆転したのだ。
大真竜ウラノスは、《支配の宝冠》の前に立っていた。
「私は、お前の事が心底嫌いだ」
一言。
多くの攻撃を受け、結果として敗北を喫したメトシェラ。
だが、これほどまでに致命的な一撃は他になかった。
支配の介在すら許さない、拒絶の声。
無言で打ちのめされる女の様子など構わず、ウラノスは続ける。
「お前は愛だと騙るが、それはお前の本能の発露だ。
支配の女、万物をその鎖で縛るためだけに生まれてきた古き竜。
どれだけお前がそれを愛と呼ぼうと、誰もそれが愛だと認めることはない。
お前は愚かな支配者で、孤独な独裁者だ。
誰とも喜びを分かち合えず、誰もお前を理解することもない」
「…………」
容赦や躊躇いなど一切ない。
切り刻む刃の如き言葉が、メトシェラに正面から浴びせられる。
屈辱と恥辱。
本来ならば、決して許せるような事ではない。
……だが不思議と、メトシェラに怒りはなかった。
《鋼の男》が、「自分の言葉」を遠慮なしに投げかけている。
ただそれだけの事実に、支配の女は喜びを感じていた。
「私は、お前の事が心底嫌いだ」
「……それ、繰り返す必要はありましたか?」
「嫌いだ。何度でも言おう。
メトシェラ、私はお前の事が嫌いだ」
愛していない。
悲しくはあるが、それもまた当然の話だと。
己が「愛」だと思っているモノもまた、「支配」の形でしかない。
ウラノスの言葉こそが真実だと、メトシェラは認めた。
「お前の愛は、誰もそうと認める事はない。
――だが、それでも。
それでも、お前が私を愛していると言うのなら。
それはお前にとっては真実なのだろう」
「……?」
それは、予想していない言葉だった。
拒絶と否定を重ねながらも、最後の最後に見せたもの。
それは愛ではない。
愛ではないが。
「私は、お前を恐れていた。
お前が口にするところの愛とやらが理解できず、目を逸らし続けた。
それ故に、私はお前に一度敗北してしまった。
――誰が認めずとも、私はそれを認めよう。
私はお前が嫌いだが、お前は私を愛しているんだな」
言葉を口にしながら、ウラノスは拳を固めた。
メトシェラは笑っていた。
あまりにも生真面目に過ぎる「答え」に、笑うのを堪えきれない。
「なるほど、今更ですか」
「あぁ、今更だ。私の未熟さのせいで、千年も先延ばしにしてしまった。
それについては謝罪しよう。
お前は、お前なりに私に対して真摯に向き合っていたのに」
「いいえ、その気持ちだけで十分ですよ」
それは嘘だった。
本心は変わらず、メトシェラは目の前の男を支配したくて堪らない。
全てを奪っても飽き足らない、満たされない。
骨の髄まで、魂の奥底まで。
何もかもを剥ぎ取っても、この愛が満足することなどないのだ。
それこそがメトシェラの本能で、彼女なりの「愛し方」に他ならない。
他者には理解できず、誰とも共有できない。
それを認めた上で、女は笑ったのだ。
「貴方を、愛しています。
「私はお前が嫌いだ、《支配の宝冠》」
囁く愛と、それに対する明確な拒絶。
今ようやく、相互理解が成立したのだ。
メトシェラは微笑み、鎖から解き放たれた男に手を差し伸べる。
「貴方をこの手で支配したい。
それは愛ではないと、否定されても構いません。
私は貴方が欲しい、貴方と一つになりたい。
だから、どうか――」
「悪いが、お断りだ」
拳が唸る。
恐怖も、忌避もない。
今こそ強い意思を握り締めて、《鋼の男》は答えを示す。
――あぁ、そうでなければ。
その力強い拳に、彼女は満足感に近い感情を得ていた。
支配はしたいけれど、自分に支配されてしまう「彼」は違うのだ。
我が英雄、鋼の男。
メトシェラはこの瞬間、ようやく己の敗北を受け入れた。
《支配の宝冠》は砕け散り――今度こそ、自らの意思で深い闇へと身を投げる。
それが、彼女が示した愛の答えだった。
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