441話:暴君は自ら毒杯を呷る
躊躇いなどなかった。
そもそも、メトシェラにその手の
彼女にあるのは支配する事への欲求。
そして君臨者としての傲慢のみ。
格下と侮った相手に不覚を取り、不利と見るや逃亡を図る。
何の問題もない。
むしろ、そこで無意味な意地を見せる事こそ愚かしい。
まさに無慙無愧。
その行為を一欠片も恥と思わず、メトシェラは全力で逃げていた。
『……とはいえ、まさかここまで追い込まれるとは思いませんでしたが』
操るウラノスの肉体と、自らの状態。
森の中を駆けながら、メトシェラはそれらを確認していく。
鋼鉄のはずの身体だが、やはりダメージは大きい。
まともな人間ならば、とうの昔に死んでいる程の重傷だった。
加えて、メトシェラ自身も。
《竜化》の装甲は大分削られ、彼女の力も疲弊している。
――この程度で、
それでも、あまり良い状態とは言い難い。
自分以外の弱者を支配し、思う様に蹂躙したい欲求も。
この大陸が、あの《最強最古》の長子に滅ぼされるか否かも。
突き詰めれば、メトシェラにとってはどうでも良い事だ。
彼女にとって重要なのはただ一つ。
《支配》の鎖で縛り上げた、愛しき《鋼の男》。
ウラノスの魂を、永久に我が物として玩弄し続ける事のみ。
それ以外の事象の全てが、メトシェラにとっては些末な話に過ぎなかった。
『――であれば、いっそこのまま大陸の外にでも逃げてしまいますか』
回復するために、少しばかり時間は必要だが。
ウラノスと自分の力なら、断絶の境を突破して外界に出る事も容易いはず。
それが良いかもしれないと、メトシェラは胸の内で微笑む。
単なる思いつきだったが、思ったよりも悪い話ではない。
海の向こう、この狭い竜の大陸よりも広大な大地。
その未開の地に降り立ち、新たな支配者として君臨するのも悪くはない。
《鋼鉄の大英雄》、その圧倒的な武勇の前には誰もがひれ伏す。
弱い者たちは自身の力で《支配》を施し、奴隷として扱うのも良いだろう。
そうして、新たな王国を築くのだ。
自分とウラノス、二人が永遠に支配し続ける箱庭を。
夢想に耽り、メトシェラは陶然と笑う。
彼女の目にはもう、そんな輝かしい未来しか見えていなかった。
敗走の最中である事も、自身に挑む者たちがいる事さえも忘れていた。
故に――。
「……悪いけど、行かせないわよ。メトシェラ」
その前に、立ち塞がる者たちが現れる事も。
支配の女は、まるで想定していなかった。
無視することは容易い。
弱っている事を差し引いても、ウラノスを操るメトシェラは未だに強大だ。
一瞥すらせず、何も言わずに障害物を蹴り倒すぐらい造作もなかった。
相手にする事もなく、頭上を飛び越える事はもっと簡単だ。
が、メトシェラはそうしなかった。
目の前に現れた者たちが、あまりにも脆弱過ぎて。
無視するなんて勿体ない真似は、メトシェラにはできなかった。
『はて、何のつもりですか?
白子の姉上――それに、マレウスまで』
「貴女が途中で逃げ出す事ぐらい、こっちも想定済みだっただけよ。メトシェラ」
白蛇の長姉と、水底の貴婦人。
互いに支え合うようにしながら、ブリーデとマレウスが立っていた。
先ほどの戦いの中、彼女たちだけは戦線から離脱していた。
――それは、私も認識はしていましたが。
てっきり、巻き込まれぬよう安全圏に下がったと思っていたが……。
『……なるほど?
下がったと思わせて、貴女たちは網を張っていたと』
「そうよ。
アンタはプライドが無いから、ギリギリになったら絶対に逃げる。
その場合の備えが、私たちの担当だったってわけ」
『無力な姉上と、か弱いマレウス。
貴女たちで一体どうやって私を止めると?』
笑う。
メトシェラは嘲りを込めて笑った。
確かに、この事態は《支配の宝冠》も想定していなかった。
ある意味では、追い詰められた末に敗走した事以上に。
弱い――あまりにも弱すぎる。
ブリーデは竜の王とすら呼べない白蛇。
マレウスも、《
その上、どちらも見るからに消耗している様子だった。
傷ついた状態でも、今のメトシェラは並の竜王よりも強い。
戦力差など、改めて比較するまでもなかった。
『馬鹿馬鹿しいですね、本当に。
私を仕留めるためには、相応の戦力が必要なのは分かりますがね。
こんな残り物が万が一の備えとは。
幾ら逃げ出した後とはいっても、貴女たち程度に遅れを取ったりはしませんよ?
その気になれば、蹴散らす事など造作もない』
「そうでしょうね」
メトシェラの嘲笑に、マレウスは肯定を返した。
その言葉は正しい。
今の自分たちでは、メトシェラと戦うことなど不可能だ。
分かっている、それについては反論の余地などない。
「だから、私たちが此処にいるのよ。
メトシェラ、貴女にはきっと理解できないでしょうね」
『……?』
いっそ強気に微笑むマレウス。
それを見ても、メトシェラはすぐにその真意が掴めなかった。
分からない、私は間違えていないはずだ。
ブリーデも、マレウスも。
どちらもメトシェラにとっては何の脅威でもない。
支配し、容易く踏み躙れる弱者だ。
そう――その気になれば、簡単に蹴散らせる。
幾らでも支配し、手のひらの上で弄ぶことができるのだ。
「……弱者を見たら、支配せずにはいられない。
お前の本能だものね、メトシェラ。
きっと分かってるはずよ。
私たちのことなんて、無視すれば良かったのに」
ブリーデの声には、ある種の憐憫さえ含まれていた。
彼女自身が、「どうでも良い事」と考えたモノ。
あまりにも当たり前のこと過ぎて、メトシェラには理解できなかった。
戦いから逃げる事を、何の恥とも思わないように。
メトシェラは、自分より弱い者を見つけたら支配せずにはいられない。
それは生き物が呼吸し、食事をするのと同じぐらいには当たり前の事だ。
当たり前の事過ぎて、己の行動に何の疑問も持たなかった。
そして、もう一つの見落としにも気付かない。
「そんなだから、罠のど真ん中で足を止めるのよ、アンタは……!」
強者と相対する弱者の側が、仕掛けの一つも用意しないワケがない。
メトシェラに向けて、死角から何かが飛びかかる。
ウラノスの肉体に刻まれた傷は深く、その分だけ反応も遅れてしまった。
支配の女は驚きながら、それらの姿を見た。
「覚悟せよ、《支配の宝冠》……!!」
「我らが《主星》から離れなさい、下郎……!!」
ボロボロの肉体で、それでも限界以上の力を振り絞って挑む者たち。
それが誰であったのか、メトシェラは覚えていなかった。
《魔星》の二人――ネメシスとクロトー。
メトシェラが目覚めた時、彼女が操るウラノスに蹴散らされた者たち。
瀕死の状態で地に落ちた彼らは、マレウスらによって救われていたのだ。
それでも、死にかけである事は変わらない。
命の炎を振り絞った彼らは、油断していたメトシェラに迫る。
――愚かな。
が、メトシェラの側に焦りはない。
確かに油断し、不意を突かれたのは事実。
しかし、仕掛けたネメシスとクロトーにも殆ど力は残っていない。
精々、手にした得物で一度斬り掛かるのが限界だ。
そんな程度で討たれるほど、《支配の宝冠》の名は軽くはない。
故にメトシェラは、その行いに何の脅威も感じなかった。
一撃を受けた後、悠々と死にかけにトドメを刺す事しか考えていなかった。
決死の覚悟で挑む者たち。
その執念の重みを、彼女は最後まで読み違えた。
『――――――な』
ネメシスたちが手にしていたのは、一振りの短刀だった。
既に固有の技を振るう余力もない。
彼女らにできたのは、身体ごとぶつかるように武器を打ち込む事のみ。
それだけで十分だった。
「っ……吠え面を、かくが良い」
「傲慢の、報いを受けなさい」
『――これ、は、まさか……ッ!?』
成すべきことを成し遂げた。
ネメシスも、クロトーも。
どちらも会心の笑みを浮かべて、その場に膝をついた。
今ならば、どちらも簡単にその首をねじ切れる。
だが、それをする余裕はメトシェラにはなかった。
彼女自身とも言うべき《竜体》の装甲。
その表面に、幾重にも複雑に絡み合った紋様が浮かび上がる。
魔力の脈動と共に、淡く輝く。
それが何を意味するのかを、メトシェラは知っていた。
「対古竜用の封印術式。
アンタもずっと、それに縛られていたものね。
まさか、今更掛け直されるなんて想定もしてなかった?」
『ッ…………!!』
笑うブリーデに、メトシェラは苦しげに唸る。
油断、慢心。それは確かに強者の常だ。
本人にその気がなくとも、呼吸同然にそうしてしまう。
それでも尚、弱者の足掻き程度では揺るがぬからこその強者。
が、こればかりは致命に近い。
じわじわと、魂の内側へと潜り込んでくる茨の毒。
かつては喜びと共に受け入れた苦痛。
それを今、メトシェラは酷く忌々しく感じていた。
そう、あの時とは状況が異なる。
大人しく縛られてやる理由など、メトシェラの側にはないのだ。
『侮らないで貰いたいですね……!!
こんな封印、重ねたところで縛られる私ではない!!』
傲慢に叫び、メトシェラは《支配》の権能を解き放つ。
支配、支配、支配!!
万物を己の下に置き、意のままに操る最強の力。
弱っている今でも、その力は未だ絶大。
ブリーデとマレウスが共同で仕込んだ封印術式。
メトシェラの《支配》は、それらを逆に侵食していく。
――これならば、何の問題もない!
あと数秒もあれば、封印を逆に抑え込める。
そして抗っている今の状態でも、ブリーデやマレウスは脅威ではない。
術式を砕いたなら、後はこの場から離脱すれば終わりだ。
《支配の宝冠》は揺るがない。
結果は、最初から決まりきっている。
『――あぁ、そうだ。最後に勝つのは、この私だ!!』
間もなく、封印の《支配》が完了する。
恥知らずにも己の勝利を歌い上げ、メトシェラは笑った。
そして。
「いいや、お前の負けだ」
死神の宣告は、目の前から聞こえてきた。
黒い、男装姿の女。
逃げて振り切ったはずの相手が、すぐ其処に。
『な』
何故、と。
疑問は言葉にならなかった。
突き刺さる衝撃は、不滅である竜の魂にまで響く。
《分解》の光を宿した拳が、《転移》を伴って叩きつけられた。
「あれだけ戦ったんだ。
お前自身に、『私』の気配が染み付いている。
後はそれを頼りに、《転移》で追跡すれば良い。
――逃げる速度が速すぎて、立ち止まって貰わねば座標合わせが難しかったがな」
『ァ……っ、な……!?』
呻く声は、言葉にならない。
今の一撃は致命傷だった。
メトシェラは不滅の《五大》、打撃程度で死ぬ事はない。
だがテレサの拳打は、弱っていた《支配》の権能にトドメを刺した。
これでもう、竜の封印を阻む事はできない。
「懺悔も遺言も、聞いてやるつもりはない。
――砕けろ、《支配の宝冠》。
これがお前自身の、傲慢の報いだ」
『ッ……テレサァ……!!』
最後の叫びに込められた、憎悪と怨嗟。
しかし、それがテレサに届くことはなかった。
声として発せられるよりも前に、メトシェラの存在が闇に引き込まれる。
封印の術式が正しく機能する。
魂の奥底へと入り込み、幾重にも縛り付ける封じの鎖。
抗うことは不可能。
メトシェラの意識は、完全に世界との繋がりを断ち切られた。
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