幕間1:三千年の愛を夢見る
……夢を、見ている気がする。
遠い遠い――本当に、遠い昔の夢。
竜にとっても、決して短くはない三千年という時の彼方。
その頃の「私」は、酷く不安定だった。
「――――ッ!」
何かを叫び、廃城の床を強く踏み付ける。
まるで子供が地団駄を踏むみたいに。
いえ、実際に癇癪を起こした結果なのだから、それと大して変わらない。
「私」は、酷く焦っていた。
世界との繋がりから、完全に切り離されている廃城の奥。
これまで積み上げてきた全てを放り捨て、この場所に籠もってもう数年。
上手く行かない。
何もかもを捨てた上で、「私」が求めた唯一の事。
それがどうにも上手く行かずに、酷い苛立ちを覚えていた。
その時の「私」にあるのは、一振りの剣。
愚かな「父」の血肉から鍛え上げた、この世に二つとない業物。
そして、もう一つ。
「……大丈夫。私なら、必ずできる」
「私」は、自分に言い聞かせる形で呟く。
そっと、下腹の辺りを指で撫でた。
微かに――本当に微かに感じる熱の残滓。
もう消えてしまった火の断片を、「私」はあらゆる手を尽くして保持していた。
燃え尽きた灰に残された、最後の温もり。
「私」の目の前で死んでいった「彼」。
名前を聞く事さえできなかった、愛しい人。
その血肉も、魂の燃え殻も。
全て、文字通り僅かな欠片すら残さずに、「私」は己の内に取り込んだ。
完全なる魂の「蘇生」。
《摂理》に逆らい、死という絶対の結果を覆す。
それこそが、新しい「私」の全てだった。
「他の連中が見たら、何と言うでしょうね」
誰も聞く事のない言葉が、空しく廃城の内に響く。
大抵の弟妹たちは、「とうとう狂ったか?」とでも言いそうね。
「私」を嫌っているヘカーティアやメトシェラは、どんな顔をするかしら。
「愛に目覚めた」なんて、バビロンに思われるのは気が進まない。
……けど、ええ。
未だに信じ難いし、戸惑ってしまうけれど。
「……愛してる」
囁く。
届かない――届くはずがない。
「彼」はいない。
「彼」だったモノの全ては、「私」の中にあるけれど。
あの時、「彼」は死んでしまった。
竜を殺すために鍛え上げた、ただ一つの魔剣。
自分より遥かに強大な《北の王》を、討ち取るために。
剣の内に宿る炎で、魂を灰となるまで燃やし尽くしてしまった。
だからもう、「彼」はいない。
温もりの残滓しか残らない灰は、何も応えたりはしない。
けど――それでも。
「愛してる。愛してるわ。貴方を、愛してる」
繰り返す。
届かなくても良い。
「私」はこれから、途方もない時間を費やす。
その時点では、いつまで掛かるのかなんて目処もまったく付いていない。
千年か、二千年か。
或いはもっと、何倍もの時が必要かもしれない。
永劫を生きられる古竜にとっても、それはあまりに長すぎる。
そんな時の流れに晒されても、決して色褪せたりしないように。
「私」は、自分自身にその想いを刻み込む。
「愛してる――愛してるの、本当に。
貴方だけよ、こんな風に気が狂いそうになるのは」
《最強最古》だの、《原初の大悪》だの。
無数にある御大層な名前も、今は酷く空しく感じてしまう。
恋に胸を焦がし、愛に脳髄を焼かれてしまった。
今の「私」の、なんて無様な事か。
まるで人間の昔語りに出てくる、愚かな小娘そのものだ。
「……愛してる。
だから絶対に、貴方を取り戻してみせる」
現実が見えず、あり得ない事に手を伸ばそうとする。
本当に、愚かな小娘そのもの。
――それでも良い。
「私」は、心からそう思っていた。
もう何度目かも数えるのが馬鹿らしくなる試み。
手にした魔剣から、力を汲み上げる。
永遠不滅である竜の魂を燃やし、魔力に変換する炉心。
「私」は、自分の魂の一部も削ってその炎の内にくべていた。
燃える炎を掬い上げ、それを使って術式を構築する。
完全な「死」を覆すための、蘇生の法。
例えるのなら、真っ白いパズルを完成させる作業が一番近い。
ピースの数は膨大で、しかもそのパズルは平面じゃない。
三次元的な立体――いえ、それ以上。
しかも、最終的にどれだけの大きさになるかも分からないのだ。
それを手探りで、一つ一つ組み合わせていく。
如何にすれば、そのパズルが「完成した」と言えるのか。
結論さえも未知のまま、「私」は術式の構築を試み続ける。
「……っ、ダメ」
そして、当然失敗した。
複雑に編み上げた術式が、
何度目になるのか、数えるのも馬鹿らしい。
自然と、指はまた下腹の辺りをなぞっていた。
直接喰らった「彼」の血肉。
それから、剣の炉心から拾い集めた「彼」の灰。
その愛しさが無ければ、とても耐えられそうになかった。
「……愛してる。
愛してるから、絶対に。
絶対に、貴方の蘇生を成し遂げてみせる」
刻み付ける。
魂の奥底にまで、一つ一つ丁寧に。
途方もない年月に呑まれたとしても、決して忘れぬように。
――最初の百年ほどを、「私」は似た事を繰り返しながら過ごした。
「彼」がいないのだから、寝食なんて取る必要がない。
ほんの少しの時間も休まずに、延々と術式の組み立てを行う。
完成形すら分からない。
だから兎に角、あらゆるパターンを試し続ける他なかった。
上手く行かない事に、怒りや焦りで心が乱れたのは三百年ほど。
それが過ぎた頃には、「私」も失敗して当然だと慣れるようになっていた。
失敗、失敗、失敗、失敗、失敗。
一日に何十回と失敗し、その日々が途切れること無く繰り返される。
そうして、無為に時を費やしながら五百年。
「――――あああぁぁああぁッ!!」
とうとう耐え切れず、叫びを上げたのは更に二百年後の事。
一歩も進んでいる気がしなかった。
望んでいるのは、「完全なる蘇生」を成し遂げるための術式。
何次元という規模の空白のパズル。
或いは、無限に等しい砂粒の全てを確かめるような。
あまりにも果てしない、終わりの見えない絶望。
それに挑み始めて千年。
「私」はとうとう、降り積もった感情を激しく叫んでいた。
「どうして、どうしてっ!?
どうして上手く行かないの……!!
何が死だ、何が《摂理》だ!!
そんなもの、必ず、必ずこの手で…………ッ!!」
屈服させてやると。
《摂理》なんて、捻じ曲げてしまえば良いのだと。
そう驕ったのは「私」自身。
けど、その傲慢の結果がこの醜態。
本当に、「私」は愚かな小娘だった。
《最強最古》、《原初の大悪》、《全ての竜族の頂点》。
かつて「私」に向けられた、あらゆる賞賛と畏怖。
それらの全てが、今は酷く空しい。
……届かない。
どれだけ手を伸ばしても、届かない。
この手を、あの果て無き空の彼方へ届かせたいと。
野心を抱き、竜の同胞らも含めて万物を犠牲にするつもりだった。
今は、取り零してしまった小さな火の温もりを求めて。
そんな小さなモノ一つさえロクに掴めずに、「私」は嘆いている。
どうして、どうして?
どうして、「私」の手は届かないの?
「ッ……どうして……」
言葉も届かず、瞳からは涙が溢れた。
泣いたところで意味はない。
意味はないと、頭では分かっているのに。
「私」は涙を流し、自分自身の身体を抱き締めた。
本当なら、「彼」に抱き締めて欲しい。
心の底から、そう願いながら。
「愛してる、愛してるの、だから、お願い……!」
どうか、「私」の声に応えて欲しい。
なんて愚かな祈りだろう。
届くはずはなかった。
この手が、あの彼方の星には決して届かないように。
「私」の声は小さく、伸ばした手は短すぎる。
だから。
「……ぁ」
それはきっと、「私」の勘違いだ。
あり得ない。
そんな事は、あり得るはずがない。
「私」の内にあるのは、「彼」だったものの残骸に過ぎない。
血の一滴、灰の一粒に至るまで全て喰らった。
けど、それらは単なる死体と同じだ。
魂さえ燃えてしまった者が、応えてくれるはずがない。
そのはず、なのに。
微かに――本当に、一瞬だけ。
お腹の底に響く、小さな脈動を感じたのだ。
それはまるで、心臓の鼓動のようで。
「……あぁ」
そうだ。
勘違いでも良い、「私」の気が狂ったのならそれでも構わない。
けど、間違いなく「彼」は此処にいる。
《摂理》なんかに渡さない。
死が絶対だというなら、それを覆すだけ。
そうだ、忘れてはいけない。
「私」は、名前も知らない「彼」を愛している。
どれだけの年月が過ぎて、この世の仕組みさえ変わり果てたとしても。
それだけは変わらない。
真の永遠がこの世にあるとしたら、それはこの想い一つだけだと。
誰に憚ること無く、「私」はそう確信していた。
「……ええ、そうだ。
たかだか千年で、何を心が折れそうになっているの。
例え、その何十倍何百倍。
那由多の果てまで時が必要だとしても。
諦めない、絶対に。
そうと決めたのだから、後はやり遂げるだけでしょう?」
呟いて、「私」は笑った。
弱気になるな、苦しいのなら笑えば良い。
時間だけは「私」の味方だ。
崩れかけた心を立て直し、再び無限に等しい作業に没頭する。
何かが劇的に変わったワケじゃない。
相変わらず、目の前にあるのは出口の見えない絶望だ。
……けど。
あの旅での「彼」だって、似たようなものだったはず。
人間は竜には敵わない。
スケールは違っても、不可能の度合いで言えば今の「私」と大差ないはず。
それでも、「彼」は成し遂げた。
だったら「私」も、不可能ぐらいは乗り越えないと。
「……貴方が目を覚ましたら、先ずはどうしましょうね」
届くはずのない未来を想い、「私」は空想を重ねる。
語りたい言葉は無数にある。
「彼」に正面から、ちゃんとこの愛を伝えたい。
それに対して、「彼」がどう応えてくれるのかは不安だけど。
――ええ、きっと大丈夫。
根拠はないけど、「私」はそう信じる事にした。
愛してる。
愛してる、愛してる。
狂ってしまいそうなほどに、貴方を愛してる。
那由多の果て、星と宙の終わりに辿り着いたとしても。
絶対に、この想いだけは消えない。
真の永遠は此処にあるのだと、今なら胸を張って言える。
そうして、更に千年。
時だけが過ぎ去り、何も変わる事はない。
変わらない――「私」が抱いた想いも、決して色褪せない。
「貴方を、愛してる。
だからもう少しだけ、待っていて」
何千回、何万回と繰り返した言葉。
それをいつでも、初めて口にした熱のままに呟く。
決して消えない炎。
「私」の魂に、何億回と焼き付ける。
絶望の先は見えないはずなのに、「私」には感じられた。
きっともう少しで、「私」は貴方に出会えると。
そして、三千年の時が流れる。
……魂の、本質とも呼ぶべき奥底で。
刻まれたモノが、夢を見せる。
「私」は自分すら定かならぬまま、繰り返しそれを見ていた。
繰り返し、繰り返し。
深い深い闇の中で、「私」は微睡む。
いつか、この手が待ち望んでいた誰かに届くのだと、信じて。
「私」はただ、三千年の愛を夢に見続けていた。
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