431話:神封じの楔


 ……空気が異様に重たい。

 そこに足を踏み入れた瞬間、俺はそれを感じていた。

 まるで深い水の底のように。

 暗く粘つく「何か」が、身体中に絡みついてくる。

 方向性の定まらない悪意が、まるで棘みたいに肌に突き刺さった。


「此処が?」

「ええ」


 俺の言葉に、イーリスに抱えられたイシュタルが頷く。


「《大竜盟約》の中枢、《神封じの楔》。

 ……外部から招かれた人間は、貴方たちが初めてよ」


 その事について、彼女としては不満はあるような感じだ。

 まぁ、それも無理はないだろう。

 イシュタルを含め、俺たちはもう何柱も大真竜と戦ってる身だ。

 で、それは兎も角。


「また随分と広そうな場所だな」


 周囲の状況を確認する。

 俺たちがいるのは、一見すれば大広間のように思えた。

 ただ、何の用途のために作られた部屋なのかは分からない。

 光源がないせいで、俺の目では全ては見通せないせいもある。

 辛うじて見える範囲にあるのは、奇妙な紋様が刻まれた床や壁ぐらいだ。

 その紋様も、どんな意味があるかは不明だった。


「……不気味、ですね。

 なんというか、巨大な生き物のはらわたを見ているような……」

「あながち間違った印象ではないやもしれんぞ」


 やや不安げに呟くテレサ。

 そんな彼女の言葉に、ボレアスは皮肉げな笑みで応える。

 巨大な生き物の腸、か。

 さっきからずっと感じている、不明の悪意。

 その正体についても、古い竜は知っているように思えた。


「どういう事ですか? ボレアス殿」

「我の本能とも呼ぶべき部分が、どうにもざわめくのだ。

 ……この《神封じの楔》とやらの下には、いるのだろう?

 遠い遠い昔、竜にとっても古き時代。

 この世界を手前勝手に蹂躙し尽くし、その後に自らの存在を閉ざした者。

 愚かで偉大な我らの父、《造物主》の残骸がな」


 《造物主》。

 アウローラやボレアスら《古き王オールドキング》を創造した、悪い神様。

 この神殿内部に重く漂う気配も、全てソイツが垂れ流しているものか。

 イシュタルが頷き、ボレアスの言葉を肯定する。


「そっちの言う通りよ。

 この神殿は、常に死んだ《造物主》の影響を受け続けてる。

 だからこの場所に足を踏み入れて良いのは、私を含めた大真竜たちのみ。

 下手な真竜だと、毒気にアテられる可能性があるから」

「マジで迷惑だな、《造物主》。

 ……ところで、その理屈だとボレアスは大丈夫なのか?」

「侮るなよ、小娘ども。我は《北の王》だぞ?」


 微妙に不安げなイーリス。

 既にアウローラの暴走とかも見てるから、心配する気持ちは分かる。

 それに対し、ボレアスはふんっと鼻で笑い飛ばした。

 相変わらずの一糸纏わぬ姿で、豊かな胸を堂々と張ってみせる。


「今更死んだ父の怨念なぞに、この我が惑わされるかよ」

「で、実際のところはどうなんだ?」

「我の魂、その本質はお前が持つ剣の内よ。

 漂ってくる毒気程度、そこまで届く事は決してあり得ぬ」

「なるほどなぁ」


 理屈はどうあれ、平気ならば良かった。

 これからアウローラを助けるのに、ボレアスまでおかしくなっては困る。


「……ま、今の我の魂はお前とも繋がっているからな。竜殺し。

 仮に多少の毒気を浴びようが、お前次第で跳ね除けるぐらいはできようさ」

「もしそうなったら、がんばるさ」


 目を細め、ボレアスは囁くように言った。

 俺は笑って頷いておく。

 まぁ、そういう事態にならないのが一番だが。


「それで、こっからどうすんだ?」


 神殿内部をキョロキョロと見渡すイーリス。

 不気味な雰囲気……というよりは、《造物主》の悪意のせいか。

 微妙に気分が悪そうな顔で、彼女は腕の中のイシュタルを少し強く抱き締める。

 イシュタルは文句は言わずに、細い指でイーリスの腕に触れる。


「一番奥にある、大円卓の間へ。

 お爺様たちは多分そこにいるはずだから」

「たち、か」


 思わず繰り返してしまった。

 《盟約》の大真竜。

 事態の解決のために、俺たちが会うべきは序列二位のオーティヌス。

 しかし、それ以外にもう一柱。

 この神殿の奥には、俺の知ってる大真竜がいるはずだ。

 こちらの意図を汲み取ったようで、イシュタルは小さく頷く。


「……円卓に置かれた、唯一の玉座。

 《楔の座》には、彼女がいる。

 《大竜盟約》の頂点、大地の化身をその身に宿す《黒銀の王》がね」

「前に一度会って、それっきりだったからなぁ」


 さて、今の俺はアイツにどれだけ通じるだろう。

 優先すべきはアウローラの方で、そっちはまだ早い。

 当然、その事は理解していた。

 理解した上で、俺は腰に佩いた剣の柄を少し強く握り締めた。

 まだ早い。

 まだ早いが、いずれ戦うべき相手なのも間違いないんだ。


「おい、レックス?」

「ん。いや、悪いな。大丈夫だ」

「なら良いけどよ。

 あんま余裕もねェんだし、早いとこ行こうぜ」

「案内するから、勝手に動き回るのはやめて頂戴よ」


 急に黙り込んだせいで、イーリスが心配そうに顔を覗き込んできた。

 うん、彼女の言う通り。

 今はアウローラを助けるのが一番だ。

 それじゃあ、早速イシュタルに案内して貰って……。


『――


 一言。

 年老いた男の声だった。

 長い年月に晒され続けて、摩耗してしまった石。

 傷だらけだが、同時に芯の部分に強固な硬さを残し続けている。

 それが、声の主に対して俺が抱いた印象だった。

 腸の広間に、新たに降り立つ者。

 白い法衣ローブに、十字を模した錫杖。

 空間を満たす《造物主》の悪意。

 それを、ただその場に現れただけで押し退ける巨大な存在感。

 名乗らずとも、相手が何者なのかすぐに理解できた。


「お爺様!!」

『……無事であったか、イシュタル』


 明るく声を弾ませて。

 イシュタルは、見た目相応の仕草でその相手に駆け寄った。

 イーリスも、こればかりは素直に解放してやったようだ。

 可憐な少女の姿を、フード下の髑髏面が見ていた。

 ……髑髏面、というか。

 顔は完全に髑髏そのものだ。

 どうやら法衣の下は、生肉無しの骸骨のみであるらしい。

 普通なら、表情なんて欠片も分からないはずだが。

 イシュタルを見る髑髏からは、安堵と愛情が容易く読み取れた。


「申し訳ありません、このような無様を晒して……!」

『良い、良いのだ。

 お前が無事に戻ってきてくれた事が、私には何よりの喜びだ』


 祖父が、幼い孫娘にそうするように。

 涙を浮かべるイシュタルを、白い法衣は優しく包み込んだ。

 これだけならば、単なる感動の対面だ。

 しかし、話を此処で終わらせるワケにはいかない。


『……イシュタルを連れ帰ってくれた事は、感謝しよう』


 そして、それは向こうも同じだった。

 声は物理的な質量を伴ったかのように、重く伸し掛かってくる。

 傍でイーリスが息を呑むのを感じた。

 テレサは持ち堪えたようだし、ボレアスはどこ吹く風だ。

 いや、竜の王様は逆に挑発的な笑みを見せて。


「感謝という割には、随分と機嫌が悪そうだな。

 なぁ、古き《始祖》の王よ」

『敵同士でなければ、歓待の一つも考えたのだがな。

 《北の王》、再会を喜ぶ間柄でもないはずだ』


 ゆるりと。

 法衣姿の髑髏は、俺たちの方に改めて向き直る。

 眼球は無く、黒い穴となっている眼窩。

 そこに蒼白い炎を灯し、髑髏の魔法使いはこちらを見ていた。


『今はオーティヌスと名乗っている。

 《大竜盟約》の礎たる大真竜、その序列二位。

 ……お前たちは、あの《最強最古》の眷属だと考えていたが』

「仲間ではあるけど、別に子分なつもりはねーよ」


 即答。

 髑髏――オーティヌスの存在感に、僅かに呑まれていたようだが。

 既に持ち直した様子で、イーリスは躊躇いなく応じていた。

 その言葉に、逆にオーティヌスの方から戸惑いの気配が滲み出す。


『……仲間?

 今、仲間と言ったのか、娘よ』

「イーリスだよ。あぁ、仲間だぞ。

 今絶賛大暴れ中の、性根がドブ臭い恋愛クソ雑魚貧乳ドラゴンだけどな。

 ここまで何だかんだと一緒に旅してきたんだ、仲間以外のなんだってんだよ」

「イーリス、もう少し手心というか……」


 うーん、今だけはアウローラ本人がいなくて良かった。

 遠慮容赦ゼロの物言いに、オーティヌスはますます困惑していた。

 姉のテレサは妹を諌めつつ、一礼する。


「私はテレサと。古き魔法使いの王よ。

 我々は敵同士かもしれないが、今は戦いに来たワケではない。

 先ずは話を聞いて欲しい」

『……イシュタル?』

「……不本意ながら、彼らの言う通りです。

 お爺様、先ずは対話を。

 私からもお伝えしなければならない事があります」


 状況が呑み込めず、オーティヌスはイシュタルを見た。

 そして返ってきた答えを聞いて、微かに唸るような声を漏らす。


『……お前たちを、私は《最強最古》の手勢と認識していた。

 この事態に乗じて、《盟約》を攻め落としに来た可能性も考慮していたぞ』

「今はちょっと、先にやらなきゃならない事があるからな」


 《盟約》をどうこうするのは、それが済んでからだ。


「俺はレックスだ、はじめまして」

『……《最強最古》の、あの恐るべき邪悪の恋人だと聞き及んでいる。

 正直に言えば、質の悪い冗句だと考えていた。

 それもまた事実なのか?』

「うん」


 恋人。

 うん、アウローラが聞いたら恥ずかしがって逃げ出しそうだけど。

 間違っちゃいないはずだし、素直に頷く。

 オーティヌスは、これまでで一番困惑した気配を醸し出す。

 まー、やっぱり古馴染みだとそういう反応になるもんなのかな。

 あと、そうだな。


「アイツは、アウローラだ。

 昔がどういう呼び名で、なんて呼ばれてたかとか。

 そういうの関係無しに、俺たちはアウローラって呼んでる。

 そこは知っておいて欲しいな」

『………………そうか。

 いや、失礼した。

 私にとって、彼の者は不倶戴天の仇敵ゆえ』

「分かってる。俺もちゃんとは知らないが、色々あったんだろ?」


 色々なんて言葉で片付けるほど、軽くもないだろうが。

 それに関しては、オーティヌスは苦笑いをこぼしたようだ。

 割と無礼な物言いだと思ったが、そこは流石に度量が広いな。


「竜殺しよ、そろそろ本題に入ったらどうだ?」

「あぁ。で、オーティヌス。

 俺たちは暴れ回ってるアウローラの奴を止めたい。

 ただ、こっちじゃ居場所を掴むのも難儀してるような状態だ。

 出来れば協力して貰えないか?」

『…………』


 ボレアスに促され、俺は単刀直入に用件を伝えた。

 対して、オーティヌスは僅かに沈黙。

 その両目は、俺たちではなく何処か別の場所を見ている気がした。

 気のせいではなく、本当に遥か遠くを認識してるかもしれない。


『……《最強最古》、いやお前たちがアウローラと呼ぶ者。

 彼の者とは、我が友であり《盟約》最強の戦士であるウラノスが戦っている。

 その勝利を私は確信している』

「だとしても、こっちはこっちのやれる事をやるだけだ」


 ……あと。

 アウローラが負けるところは、俺にはあまり想像が付かない。

 ウラノスがどういう相手で、どれだけ強いのかは当然知らないが。

 オーティヌスがここまで言うからには、相当の実力者なのは間違いないだろう。

 その上で、アウローラはきっと負けない。

 負けないなら、俺たちがどうにかするしか無いはずだ。

 流石に、それは口には出さず胸の内に留めておく。


『……良かろう。

 打てる手は打つべきだと、私も理解している。

 今回の事態についても、全てを把握しているワケではないからな』


 頷く。

 髑髏面から感じる、重い気配が少し薄れた。

 どうやら、きちんと対話の空気に切り替えてくれたようだ。


『イシュタルの報告も含めて、先ずは話を聞こう。

 それを聞いた上で、協力するか否か。

 その判断をさせて貰おう。それで構わぬな?』

「あぁ、助かるよ」


 立場を考えれば、話を聞いてくれるだけでも十分過ぎるしな。


『ではイシュタル、先ずはお前の話から聞かせてくれ』

「承知しました、お爺様」


 促され、イシュタルは一礼をしてから語り始める。

 海を渡った先の外界で、何があったのかを。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る