第十六部:始まりの地で竜を殺す
429話:旅人たちに神は祈る
時間は、《最古の悪》が大陸を蹂躙している頃より少し遡る。
遠い海の果てに広がる外界。
その中心であり、神々が住まう地である《
選ばれた者だけが足を踏み入れ、永遠に続く平和と安寧を享受できる理想郷。
争いはなく、痛みもない。
《
今、その楽園を自らの意思で離れようとする者たちがいた。
――本来なら、そんな事は天地がひっくり返ってもあり得ぬ事だ。
僅かに呆れを含んだ思考。
それを口に出す事はなく、旅人たちを見守る一人の女神。
《人界》に君臨する十の神々。
その一柱である《裁神》アストレア。
彼女は一先ず何も言わず、用意された客室が荒れていくのを眺めていた。
「だーっ! いい加減大人しくしろっての!」
「喧しいわね、離しなさいよ人間風情が……!」
特に騒がしいのは、元は寝台が置かれていた一角。
元は、という言葉の通り。
寝台だったモノは現在、破壊されてちょっとした粗大ゴミに変わり果てていた。
それをやらかしたのは、一人の少女だった。
長く伸びた金髪は、艷やかで美しい。
小柄な身体は細くしなやかで、お伽噺の妖精を想起させる。
顔立ちもまた可憐に咲く花の如し。
総じて、極めて稀なレベルで見目麗しい少女だった。
が、その外見に反して行動は極めて暴力的だ。
壊された寝台も、彼女がその細腕で無理やり引き裂いたモノだ。
……本来ならば、アストレアは怒るべきだろう。
家具の一つに過ぎないとはいえ、それも《人界》の一部である事に変わりはない。
常ならば、既に裁きのために「剣」の一つは振っているところだ。
そうしないのは、暴れる少女を懸命に宥める者がいるからだ。
「別に取って食おうってワケじゃねェんだから!
言うこと聞けって、あっコラ! 暴れんなクソっ!」
「ルミエル……いや、イシュタルと呼んだ方が良いのか?
今の私たちは君の味方だ。
だから落ち着いて話を聞いて欲しい」
イーリスとテレサ。
元は人間で、今は《星神》の後継と新たな神の力を得た姉妹。
彼女らがルミエル――いや、イシュタルと呼んだ少女は。
「離して――っ、いや、そもそも!
何でお前たちが、私の元の名を知ってるの……!」
敵意と警戒心、それらを隠そうともせずに睨みつけた。
振り回そうとする手足を、現在はテレサの方が抑えている。
偉大なる《人界》の王から賜った神の力。
その前では、弱体化した状態のイシュタルでは抗いようもない。
そうと分かっても諦めない少女に、イーリスは呆れた顔を見せる。
「知ってるに決まってんだろ。
あの地下迷宮――お前の両親の墓で、昔のお前に会ってるんだ」
「ッ……!」
その辺りの事情について、アストレアは当然知らない。
知らないが、傍目からでもその効果が劇的なのが見て取れた。
声を詰まらせ、幼い手足から力が萎える。
また急に暴れだす可能性を考慮して、テレサは抑えたままだが。
伏せた顔には前髪が掛かり、表情は見えづらい。
「……あの場所で、私に会ったと?」
「あぁ。お前が残していった未練だか、心だか。
……兎も角、オレらはお前を知ってる。
知ってて、だから助けた。
別に恩着せがましくするつもりはねェけどよ。
こっちとしちゃ、一度助けた奴とまたドンパチする気はねぇんだ」
「正直に言えば、そんな余裕がないと言った方が正しいがな」
苦笑混じりにテレサが呟く。
これから彼女たちは、楽園である《人界》を後にする。
海を越えた先、未知の地獄と化しているだろう竜の大地へ戻るために。
「……私に、どうしろと?
見ての通り、今の私はこのザマだ。
力の大半を失い、ゲマトリアの奴と大差ない状態よ。
姿まで、こんな情けない事に……」
「ちょっと弱くなったぐらいで、そんな卑屈になんなよ。
つーか前が強すぎるんだよお前。
こっちがどんだけ大変だったか分かるか??」
「痛っ……ちょ、頭をグリグリするのは止めなさいよ……!?」
言葉通り、イーリスはイシュタルの頭を撫でていた。
眉間辺りを親指で抑えて、やや強めに押しながら。
少し涙目で抗議する少女を見ると、ぽんとおでこを叩いて。
「お前にとっても、此処は知らない場所だろ。
助けた奴とドンパチする気もなけりゃ、放り捨ててく気もねぇだけだ。
――グダグダ言ってないで、一緒に来い。
そっからどうするかは、またその時に考えりゃ良いだろ」
「…………」
ぽかんとした表情は、どこか間が抜けていて。
しかし、アストレアはそれを笑う事はしなかった。
むしろ気持ちは分かると、憎むべき敵であった少女に同情気味だ。
――本当に、コイツらは。
イーリスが最も顕著だが、この旅人たちは大体こんな具合だ。
道理も不条理も、何もかもを自分の意思で蹴り飛ばす。
巻き込まれた方は堪ったものではない。
その事を不愉快に思わなくなっている自分は、随分毒されてしまったと。
アストレアは、胸の内でひっそりため息を吐いた。
「何か物憂げな感じか?」
「黙れ」
カチャカチャと、傍らから聞こえる金属音。
先ほどから、床に座って身に付けた甲冑を弄っている男がいた。
あまり意識せずにいたが、声を掛けられては仕方ない。
改めて、アストレアはそちらに視線を向ける。
ボロボロの甲冑を纏った一人の男。
手の届く場所に置いた剣は、邪悪な気配を漂わせる魔剣。
只人には不可能な、古き神殺しを成し遂げた戦士。
レックスは、ガタついた関節部分の調整を黙々と続けていた。
「……その甲冑、その様子では殆ど役には立つまい。
妙な呪いもあるようだが、それならば外す事もできるだろう」
「まーなぁ」
頷きながらも、レックスは手を止めない。
その様子を眺めている者が、アストレア以外にも一人いた。
「長子殿が用立てた代物だからな。
今更捨てるには抵抗があるか? 竜殺しよ」
「どの道、他に使える鎧も無いしな。
これでも裸よりはマシだろ?」
床に寝そべる全裸の女。
古き竜であるボレアスは、からかう口調で笑っていた。
それに対し、レックスがどんな顔をしているのか。
汚れた兜で隠れているため、表情を窺うことはできない。
「ま、それは否定せんがな。
……どの道、あの状態の長子殿と戦うなら鎧の有無など無関係だろう」
「…………」
竜の長子。
アウローラの名で呼ばれていた少女。
愚か者の奸計によって、悪神の再来と化してしまったその姿。
それはアストレアの脳裏に、強く焼き付いていた。
神たるこの身に、恐れるモノなどありはしない。
そんな自信が揺らぐ程の畏怖が、胸の内から湧き上がってしまう。
それほどまでに、アレは強大で邪悪に過ぎた。
「……勝てると、本気で思っているのか?」
「勝つ負けるって話じゃないからな」
神であったアベルの魂、その残骸を喰らい。
天地を屠る災いとなったアウローラ――いや、「元」アウローラ。
けれど、レックスの声は落ち着いていた。
覚悟や決意などと言った、硬い感情もそこにはない。
ただ必要な事をやりに行くという、揺るがぬ意思だけがあった。
「助けるって約束したから、迎えに行くんだ。
だったらまぁ、多少の無茶はどうにかしないとな」
「……多少の無茶、で済む話か?」
「がんばるさ」
いつもの事だしな、と。
心底なんでもない事のように、レックスは笑う。
……なんと腹立たしく、なんと不遜な人間だろうか。
出会った時からここまで、この男はまったく変わらない。
アストレアは、怒りを通り越して呆れてしまった。
呆れて、それから少しだけ笑った。
「……別に、お前たちがどう死のうが私の知った事ではない」
「そりゃそうだよな」
「本来ならお前たちは罪人で、神としては裁くべき対象だ。
その認識は、今も変えたつもりはない」
「うん」
「……だがその上で、アベルを討ち取った功績も無視はできん」
我ながら言い訳じみた言葉だな、と。
そうは思いながらも、アストレアは自らの権能を操る。
指先から溢れた神気。
淡く輝く霞のようなモノが、レックスの身体に纏わりついた。
「お、何だコレ?」
「動くな。少し大人しくしていろ」
「はい」
強く言われると、レックスは素直にそれに従った。
時間にして、ほんの数秒ほど。
光る霞は、彼が身に付けている甲冑へと染み込んでいく。
全てが消える頃には、鎧の表面は微かな光沢を帯びていた。
ボロボロだった部分の多くも修復されている。
レックスは、試すように軽く手足を動かしてみた。
動作はスムーズで、以前よりも全体的に軽くなってるように思える。
「これは?」
「私の力で補修と、ついでに強化も施した。
これで貸し借りは無しだ。問題は?」
「ない。いや、マジで助かる。ありがとうな」
「神として、功績に見合った褒美を与えただけだ。
礼を言われる必要はない」
努めて、冷えた声でアストレアは応じた。
レックスは笑って、それからその場に立ち上がる。
手にした魔剣は腰に佩いて、一息。
「よし」
「行くのか」
「あぁ。十分休んだし、準備もおかげで整ったからな」
「……そうか」
楽園を後にする罪人。
《裁神》として、何も思うところなどありはしない。
元より、彼らは過ぎ去っていくだけの旅人だ。
ただ《人界》の神として。
これを最後に見送ることだけを、アストレアは己の義務と定めた。
「我ら《人界》の神は、お前たちの諍いに関わるつもりはない。
偉大なる陛下の御力がある限り、この理想郷は永遠だ。
故に、お前たちは好きに争えば良い」
「あぁ」
「……ただ。
せめて、私個人はお前たちの武運を祈ろう。
祈るだけならば、誰も咎める理由はないからな」
「十分だ」
差し出された手を。
アストレアは、ほんの少しだけ見下ろした。
不敬だと、そう咎めるべきかもしれない。
だが彼女は、特に抵抗なくその手を握り返していた。
「二度と会う事もないだろう。
さらばだ」
「あぁ、またな」
「私の言った事を聞いてたか貴様」
間違いなく今生の別れとなるはずだ。
だというのに、レックスは「また」と口にする。
いずれまた、出会う縁があるかもしれない。
未来など誰にも分からないから、彼はいつかを思って笑うのだ。
傍らに並んだボレアスも、呆れ気味な顔をして。
「本当にお前はどうしようもない男だな、竜殺しよ」
「何がだ?」
「自覚がないなら、それはそれで構わんがな。
長子殿がおかしくなるのも、まぁ無理からぬ話か」
喉を鳴らすボレアスに、レックスは軽く首を傾げる。
言いたいことは分かるが、アストレアはそれについては何も口にしない。
ただ、この男は死ぬまでこうなのだろうなと。
諦め気味に笑うだけだった。
「おう、そっちの話も済んだか?」
と、イーリスもレックスの傍に寄ってきた。
腕には少女となってしまったイシュタルを、しっかり抱えた状態で。
「もう暴れないから、いい加減離して貰えない??」
「ダメだ、絶対に隙があれば逃げるだろお前」
「逃げないわよ……!」
「まぁ、そこは向こうに到着するまで観念して欲しい」
小さな妹に構いっぱなしな姉のような。
そんな様子を見せる妹に、テレサは苦笑いをこぼす。
ただ、その表情もすぐに引き締める。
「ルミエル――いえ、イシュタルも私たちに協力してくれるそうです」
「ホントか? そりゃ助かるな」
「……勘違いはしないで欲しいけど。
別に、味方になったワケではないから。
私もこの状態では、大した力も使えないし。
一刻も早く、《盟約》の元に戻りたいだけだから」
「十分十分。緊急事態だしな、協力できるところはしていこうな」
手を伸ばすが、「気やすく触るな」と叩かれてしまうレックス。
イーリスは何も言わず、ただイシュタルの頭を撫でた。
なかなか理不尽な扱いであるが、レックスは慣れたものだ。
彼はもう一度だけ、アストレアの方を見た。
「じゃあな」
「あぁ、二度と来るなよ」
別れの言葉は、それだけで十分だった。
テレサは深く一礼をして、イーリスは軽くだが頭を下げた。
ボレアスは当然、イシュタルも見向きもしない。
《人界》から、海の彼方にある竜の大陸。
そこまでの距離は果てしなく遠い。
だが、此処に神の力を賜ったテレサがいる。
彼女が目を閉じれば、その意識は物理的な距離を超越する。
僅かに空間が歪み――それが消えた後には、何も残ってはいなかった。
先ほどまでいた、旅人たちの姿。
彼らの痕跡を、《裁神》は少しだけ目で追った。
「……言った通り。せめて、祈るぐらいはしてやるさ」
旅立つ彼らの勝利を。
それから、良き結末にたどり着ける未来を。
恐らくもう、二度と会う事はない者たちのために。
見送る姿勢のまま、アストレアはただ静かに祈りを捧げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます