終章:始まりの場所で

428話:終わる時を待つ


「クソッタレ……!」


 何に対して向けたかも分からない悪態。

 苦痛に掠れた声は、空しく偽りの夜空に吸い込まれた。

 何処かの暗闇。

 そこに身を潜めるように、一人の男がいた。

 《ブラック》であった頃の面影も希薄な、薄汚れた《灰色アッシュ》。

 失った右手の傷口を抑えながら、何度も呪いの言葉を吐き出している。


「クソ、クソクソっ……何で、どうしてだ……!」


 何故。

 何故、こんな事になってしまったのか。

 痛みと怒り、憎しみ、悲しみ。

 感情の形は定まらず、頭の中で混沌の渦を形作る。

 そうだ、何もかもこんなはずじゃなかった。

 切り落とされた手首から、血は流れない。

 断面からこぼれ落ちるのは、真っ白い灰に似た「何か」だけ。

 生命としては、《灰色》はとっくの昔に燃え尽きていた。

 「不死の法」によって永遠となった魂。

 その呪いに等しい力と、諦めを拒絶した執念の残滓。

 それだけが、この残骸に等しい男を突き動かしていた。


「…………はー……」


 大きく息を吐き出す。

 激情に支配されかけた思考を、どうにか落ち着かせる。

 冷静からは程遠いが、それでも《灰色》は形だけでも己を取り戻した。

 傷の痛みは消えず、あの森人の言葉が胸に突き刺さったまま。

 苦痛に喘ぎながらも、《灰色》は「この先」の事を考える。

 ――そうだ、こんな場所で蹲っていて良いはずがない。

 自分にはまだ、やらねばならない事があるんだ。


「……だが、どうする?

 《最強最古》は、ウラノスを排除できたのか?」


 戦いの状況を、《灰色》はまだ把握しきれていない。

 ウィリアムとドロシア、彼らに追い込まれた後。

 兎に角必死で、なりふり構わず逃げ出してしまった。

 その後も痛みと混乱する思考を抱え、随分と時を過ごしてしまっていた。

 故に、《灰色》は知らない。

 《最古の悪》が、再び彼女の運命との邂逅を果たした事も。

 何も知らぬままで、古い魔法使いは思案する。


「あぁ、そうだ。

 あの化け物なら、《鋼の男》が相手でも必ず勝つ。

 腹立たしいが、奴は本当に最強だ。

 勝つだけならば、あの《黒銀の王》以外は問題ないはずだ」


 《大竜盟約》の頂点。

 大地の化身たるあの王には、力で勝てる道理はない。

 如何に《最強最古》でも、《黒銀の王》には届かないだろう。

 だが彼の王とは別に、もう一人。

 序列二位である老賢人ならば、恐らく《最強最古》が勝利するはずだ。

 老いた魔法王、かつての《始祖》たちの筆頭。

 そして、《灰色》にとっては実の父でもある偉大な先達。

 彼もまた、《最強最古》の前では――。


「……考えるな」


 呟く。

 聡明で慈悲深い父は、今頃地の底で大陸を守るための作業に追われているはずだ。

 《最強最古》が、最初に大陸全土に落とした《流星》の雨。

 《盟約》の存在意義でもある、《造物主》の残骸を縛る封印術式。

 降り注いだ星は、その構造に致命的な傷を入れている。

 これを修繕し、崩壊を防ぐだけの技術を持つのはオーティヌス以外にはいない。

 配下の《魔星》のみを連れて動いたウラノスは、間違いなく敗北する。

 《黒銀の王》は玉座から動けず、次に《最強最古》と戦うのはオーティヌスだ。

 ――負ける、偉大な父であろうとも。

 あの《最強最古》に挑めば、最後はひれ伏す他ない。

 忌々しく思いながらも、《灰色》はその勝利自体は疑っていなかった。


「《黒銀の王》一人でも、封印は抑えられる。

 だが、父上も消えれば長く維持する事は絶対に不可能だ」


 《盟約》側も、それは理解しているだろう。

 封印を抑制するだけなら、《黒銀の王》だけでも何とかなる。

 しかし、彼女も所詮は元人間。

 その魂に、契約によって大地の神威を呑み込んでいるに過ぎない。

 限界は必ず来る。

 無理に力に訴えず、時を待つだけで封印はいずれ破綻する。

 《最強最古》が勝つ必要があるのは、残るはオーティヌスのみだ。

 そうなれば、残る問題は一つ。


「…………」


 呼吸を整える。

 少しでも気を抜くと、すぐに乱れそうになる。

 《灰色》は、傷を抑えていた手を離す。

 またザラリと、真っ白い灰がこぼれるが気にはしない。

 今はそれよりも、重要な事があった。

 左手を自身の胸元に当てる。

 宿った術式を慎重に操作し、自らの魂に干渉を行う。

 普段は魂と同化させ、擬似的に封印状態に留めてある「モノ」。

 その戒めを解き、ゆっくりと胸の内から取り出す。


「……最後に勝つのは自分だと。

 もう、欠片も疑っちゃいないんだろうな。

 《最強最古》、クソッタレな魔法トカゲめ」


 掠れた声で魔法使いは笑う。

 左手に取り出した「モノ」を、《灰色》は濁った目で見下ろした。

 そこには何もなかった。

 よく見れば、手の上に微かに光る「モノ」があるかもしれない。

 だが、余程注意深く見ない限りはそうとは気付けない。

 常人が目にしたなら、ただ「何もない」という情報が頭に焼き付くだろう。

 しかし、《灰色》の目はそれが何であるかを理解していた。

 ――自らの周囲にある「世界」を削り飛ばす、高密度情報体。

 何もないように見えるのは、「ソレ」が只人には理解できないからだ。

 それの実体は、単純な文字列に過ぎない。

 竜の声も、魔法使いの言語も、この地に生きる人間たちの古い言葉でも。

 そのどれを使っても表現できない、未知の文字列。

 かつては、《古き王》たる言語の王バベルが管理していたモノ。



 異なる次元より現れ、この大地を侵略した悪神。

 それは《造物主》の真名だった。

 強大な呪いに等しいその名を手に、《灰色》は笑う。

 千年以上も前に、多くの古竜たちを狂気に陥れた元凶。

 そして既に死んだはずの《造物主》の亡骸。

 これに再び怨念の火を燃え上がらせたのも、この真名が持つ力だった。

 この世で最も悍ましい神の術式。

 《灰色》は千年前から今まで、これを保持し続けていた。

 何も持たない魔法使いの、最後の切り札だ。


「精々、ただ一人で勝利に酔っていろよ。

 お前が《盟約》を砕いた後、最後に立っているのは俺の方だ」


 笑う。

 《灰色》の魔法使いは、暗い闇のように笑っていた。

 勝つ、必ず勝つ。

 今度こそ、勝利するのは自分の方だ。

 未だに忘れぬ過去の敗北。

 記憶に深く刻まれた、未だに癒える事のない生々しい傷跡。

 古い《始祖》は、ハッキリと覚えていた。

 砂を噛み、血と汚泥の中を這いずった記憶を。

 ――お前は負け犬だ。

 追憶と共に、森人の男が口にした言葉が頭の中で響いた。


「違う……!!」


 叫ぶ声は、空しく夜の空気を震わせる。

 違う、違う違う違う。

 まだ負けていない。

 まだ何も終わっちゃいない。

 まだだ、まだ取り戻せる。

 《大竜盟約》を砕き、あの《最強最古》を下して。

 地に沈んだ、この世で最も偉大なる者の力を奪い取れば。


「まだ、間に合う」


 そうだ、間に合う。間に合わなければおかしい。

 これほどの犠牲を払ったんだ。

 気の遠くなる時間を費やしてきた。

 であれば、報われなければおかしい。

 努力は実り、理想と夢に届かなければ支払った代償に釣り合わない。

 そうでなければ、一体、自分は何のために。


「ッ……!!」


 こみ上げる嘔吐感を、《灰色》は何とか呑み下した。

 ――落ち着け、やるべき事は明白なんだ。

 最後の最後で勝利して、全ての失敗を取り戻す。

 失った仲間たちも、犠牲として死んでいった全ての者たちも。

 全て、一つ残らず拾い上げて。

 誰もが笑って迎える、最高の幕引きに辿り着くんだ。

 それを諦めずに目指す間は、きっと自分は負け犬なんかじゃない。

 《灰色》の魔法使いは、そう信じていた。

 そう信じなければ、まともに歩く事すらままならないから。

 最早、己が災厄に過ぎぬという事を自覚しないまま。

 最悪の呪いを手に、《灰色》の男は笑っていた。


「ハハハハ――見てろよ《最強最古》め。

 俺は勝つ。勝たなきゃならない。

 勝って、何もかもを取り戻すんだ。

 そのためにも、俺は諦めない。諦めてたまるか。

 諦めることを拒絶すれば、きっと最後までたどり着けるんだ」


 きっと、必ず。

 虚しい希望の呪文を、魔法使いは繰り返し呟く。

 それにもう意味がない事を、理解する事だけは諦めていた。

 頭の中で狂った歯車を軋ませながら、《灰色》はふと顔を上げる。


「……そういえば」


 此処はどこだ?

 多少の落ち着きを取り戻したところで、《灰色》はその事が気になった。

 座標をロクに定めないままの、長距離への咄嗟の《転移》。

 埃っぽい……というよりは、妙に砂っぽい。

 異様に暗いのは、恐らくは建物の中だからだろう。

 そんな事を確認する余裕さえ、先ほどまでの《灰色》には存在していなかった。

 そういうところが迂闊なのだと、一応は自分でも省みながら。

 改めて、《灰色》の魔法使いは周囲の状況を確認した。

 視覚を強化した上で、小さな魔法の光も灯す。

 予想通り、そこは屋内だった。

 より正確に言うならば、何処かの廃墟の中か。

 見渡す限りボロボロで、元々はどういう場所だったかも曖昧だ。

 他に生き物や、不審な気配もない。

 特に怪しいことなど何もないはずなのに……。


「……なんだ……?」


 何故か、引っ掛かるモノがある。

 懐かしさ、とでも表現すれば良いのか。

 《灰色》は、この廃墟に見覚えがあるような気がしたのだ。

 その奇妙な感覚に訝しんで――。


「……ハッ」


 思わず、声が出てしまった。

 気が付いた、自分がいる場所が何処であるのか。

 《転移》を行使した時、《灰色》は飛ぶ先の座標を適当に設定した。

 あの時点では、急いで逃げる事しか頭になかった。

 つまり無意識の内に、魔法使いはこの場所を選んだ事になる。

 打ち捨てられた廃城。

 三千年という途方もない時の中で朽ち果てた、運命の地。

 《灰色》の魔法使いは知っていた――覚えていた。

 当然だ、忘れるはずもない。

 そこはかつて、彼が何もかもを失った場所なのだから。


「どんな皮肉だよ、コレは……!!」


 笑う、残骸である男は乾いた笑い声を上げる。

 かつては、大いなる《北の王》が君臨した最果ての地。

 それが死した後は、とある邪悪がある目的のために占有し続けていた場所。

 今はもう何の意味も持たない、打ち捨てられた廃城。

 ――嗚呼、この城が俺の運命そのものだ。

 意識しないまま、此処に辿り着いてしまった事。

 《灰色》は、それこそが自分の運命だと疑わなかった。


「ハハハハ、ハハハハハハッ……!!

 運命、運命、運命!

 あぁ、良いだろうクソッタレめ!!」


 もしこれが、大いなる流れの一つであると言うのなら。

 魔法使いは、敢えてそれに乗る事にした。

 光を消し、闇の中に身を沈める。

 左手に取り出した《神の真名》も、再び己の内に隠した。

 全てが無の静寂に包まれる中、《灰色》の魔法使いは笑っていた。


「来るだろう、此処に。

 必然であるか、偶然であるかは知らないが。

 お前も、必ず此処に戻ってくる。

 《最強最古》、唾棄すべき邪悪め。

 今度こそ――」


 勝つのは、俺の方だ。

 呪いに等しい言葉を聞く者も、応える者もいない。

 合理的に考えれば、《灰色》の行動には何の意味もないのだ。

 大陸の端である、北の最果て。

 《盟約》の中枢である楔の神殿を目指すなら、此処に辿り着くはずもない。

 にも関わらず、魔法使いは確信していた。

 運命は必ず、この廃城を訪れると。

 理想も、欲望も、目的も。

 何もかもが壊れてしまった魔法使いは、その時を待つ。

 自らの運命と邂逅し、これに勝利する事で全部が全部上手く行くという未来を。

 そんなものはありはしないと、理解することもできずに。

 《灰色》の魔法使いは待ち続ける。

 彼にとっての「運命」とやらが、望むモノだとは限らないという事も。

 愚かな魔法使いの残骸は、何も分かってはいなかった。

 

 廃棄され、時からも忘れ去られた廃城にて。

 愚かな魔法使いの残骸は、ただ終わりの時を待っている。

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