426話:おやすみなさい、我が英雄


「…………は?」


 その瞬間、何が起こったのか。

 理解できる者はいなかった。

 ただ一人、《最強最古》を除いては。

 ――あらゆる状況に対応できるはずだった。

 既に不覚を取った身だ。

 今度こそ、邪悪が如何なる手を打っても問題はないと。

 誰もがそう確信していた。

 故に、ネメシスの思考は停止する。

 何故、自慢の武具が木っ端微塵に砕けているのか。

 何も理解できぬまま、その一撃は彼女の意識を刈り取っていた。


「《主星》、何を……!?」


 次に響いたのは、悲鳴じみたクロトーの声。

 しかしそれも、最後まで続くことはなかった。

 鎧を粉砕されて、地へと落ちていくネメシスと同じように。

 彼女もまた、胴を拳で打ち抜かれて力尽きる。

 耐えられる道理もない。

 その一撃は、究極を超えた極限の業なのだから。


「……な」


 驚愕に震える声。

 ワケが分からない。

 ウラノスは、その声が自分の唇から漏れた事すら信じ難かった。

 何が起こった?

 何故、ネメシスが倒れたのか。

 何故、クロトーが倒れたのか。

 何故、何故、何故?

 何故、それを行ったのが。

 

 何故――。


「《主星》!!」

「ッ!?」


 その叫びは、鋭い刃のようだった。

 剣と拳がぶつかり合い、大気が震える。

 ウラノスが打ち込んだ拳を、ゴーヴァンの大剣が防いだのだ。

 ギリギリと、金属の軋む音が鳴り響く。


「《主星》、何故このような……!」

「っ……何だ、何だというのだ、これは……!?」

「ハハハハハハハハハ!」


 戸惑い、混乱する二人。

 その様を腹の底から嘲って、高らかに笑うは《最古の悪》。

 既に彼女は、自らの勝利を確信しているようで。

 身に纏う戦意は薄く、ただ見下ろす目で相手の惨状を眺めていた。


「本当に、肝が冷えたよ。

 ウラノス、お前の奮戦は私の予想を超えていた。

 負けるつもりはなかったが、それでも危うかった事は認めよう。

 あぁ、お前は私の知りうる限りで最強の戦士だったよ!」

「き、さま……!

 私に、一体何を……っ」

 私がやったのは、本当にささやかな事だ」


 何故か、身体の制御がまったく利かない。

 まるで、操り糸に動かされる人形のように。

 意思に反して、ウラノスの拳は片腕でもあるゴーヴァンに対して向けられる。

 混乱の極致だが、それでも騎士は主の攻撃を捌き続けた。

 本当に理解できない。

 確かに、魔法の中には他人を操作・洗脳する類のモノは幾らでもある。

 《最強最古》なら、そんな術式は幾らでも扱えるだろう。

 だが、その手の術はそう長続きはしない。

 この邪悪なら、相手に永続的な隷属を強いる術ぐらい心得ているだろうが。

 それでも、そんな術に嵌められるほどウラノスの耐性は低くない。

 他の《魔星》たちでも、その程度は防げるはずだ。

 なのに、一体何故――?


「何故、こんな……!!」

「私は何もしていない、今のお前には何もしていない」


 笑う。

 《最古の悪》は笑っている。

 この世の何よりも美しく、それ以上に毒々しく。

 笑いながら、自らの所業をついに言葉として口にした。


「私がやったのは、

 ――お前の中にある、竜の魂を封印するための術式をな」

「ッ…………!!」


 封印術式。

 真竜とは、封じた竜の魂を人間が自らの内に呑み込む事で成立する。

 多少の例外は存在するが、基本としてはウラノスも変わらない。

 彼もまた、術式で封じた竜の魂を己の中に抱えている。

 ――その術式を、解かれた?


「いや、苦労したぞ。

 お前たちと戦う前に、マレウスに一度同じ術式を打ち込まれていた。

 アレで構成を認識していなければ、恐らく難しかっただろう。

 そっちは力技で千切ったが、他者に施されたモノではそうもいかん。

 洗練された、極めて高度で複雑な封印式だ。

 少なくとも、幾ら私でも解除は困難だ」


 凄惨な同士討ちは続く。

 ゴーヴァンは奮戦を続けていた。

 それだけで、十分過ぎるぐらいの奇跡だった。

 だが、それ以上はどうしようもない。

 肉体が意思に反して動くウラノスに、抗う術は彼にはなかった。


「お前が《竜体》となったおかげで、封印式は手の届く形で確認できた。

 後はそれを解除するだけだったが――いや、大変だったぞ。

 兎に角、お前は強かった。

 距離を取る戦い方では、術式の解体は難しい。

 しかしお前と殴り合いながらこれを行うのも、十分過ぎる難業だった」

「……っ、それで……!」

「加えて、千年もの時間経過という奴が意外と面倒でな。

 封印式自体が、お前の魂と半ば融合したような状態になっていた。

 硬く錆びついた錠前とでも表現すれば良いか?

 これでは幾ら鍵を突っ込んでも、そう簡単には回らない。

 お前が強く己を保ち続ける限り、封印の解体は難しかった」


 その誤算は、《最強最古》にとってもかなり大きいものだった。

 ウラノスを追い詰め、《竜体》を使わせる。

 途中《魔星》が乱入するというアクシデントもあったが、この対処は簡単だった。

 分断し、たった一人の状態に追い詰める。

 そうすれば、必然的に全力を晒さねばならなくなる。

 そこまでは完璧に思惑通りだった。

 しかし、いざ封印を解体しようとすると上手く行かない。

 ウラノスの魂――心の強度が、そのまま術式に連動してしまっていたのだ。

 その上、解体の作業はウラノスとの白兵戦の最中に行わねばならない。

 《最強最古》であっても困難極まりない、文字通りの難業だった。


「緩みを見せても、お前はすぐにそれを打ち消した。

 まさに鋼だ。

 まったく素晴らしい。

 解体術式を全て打ち込んでも、お前は鋼である限りは効果は薄かった。

 これは少々拙いかとも思ったよ」


 だが。


「――まさか。

 まさか、仲間が駆けつけた事に安堵して。

 それだけの事で、鋼に変えていた心を緩めてしまうとはな」

「ッ…………!」


 それが、ウラノスの敗因だった。

 《最強最古》はどこまでも巧妙だった。

 封印の解体を察知されぬよう、細心の注意も払っていた。

 ウラノスは気付かず、しかしその心の強さゆえに無意識に術式に抵抗していた。

 或いは、あのまま戦い続けていれば。

 解体術式は正しく機能しなかったかもしれない。

 しかし、彼は緩めてしまった。

 信頼する仲間たち、忠勇なる《魔星》の到着を目にして。

 その瞬間、毒は致命的な部分に届いてしまった。


「《最強最古》、貴様……!!」

「卑怯と罵るか?

 私とて綱渡りだったんだ。

 罵倒は単なる負け犬の遠吠えになるぞ?」


 怒りを露わにするゴーヴァンに、邪悪はあくまで嘲りを返す。


「それに、私の方に気を取られていて良いのか?」

「ッ……!!」


 封印術式は解体された。

 それの意味するところが何であるのか。

 ウラノスも、ゴーヴァンも。

 どちらも正しく理解していた。

 微笑みながら、《最古の悪》は囁く。


「《支配の宝冠》――いいや、メトシェラ。

 眠りすぎて耄碌したか?

 遊んでいないで、さっさと済ませろ」


 メトシェラ。

 それこそ、ウラノスが千年前に封じた《支配》の女。

 封印式で縛られ、大真竜の魂の底で眠り続けていた《五大》の一柱。

 悪夢の具現が、今まさに目覚めようとしていた。


「……まだ、まだだ……!!」


 ウラノスは歯を食いしばる。

 首から下、身体の自由の八割が奪われていた。

 その状態に追い込まれても尚、《鋼の男》は抗い続ける。

 本来の実力差を考慮すれば、ゴーヴァンが食い下がれる道理はない。

 騎士が未だ耐えていられるのは、ウラノスが抵抗しているからだ。

 封印は解体され、もう欠片も残ってはいない。

 これが尋常な決闘であるなら、ウラノスは負ける気はなかった。

 例え相手が《五大》でも、真っ向から打ち勝てる自負がある。

 が、今の状況はまともではない。

 《支配の宝冠》――メトシェラがいるのは、ウラノスの魂の奥底。

 物理が意味をなさない、形而上学的な世界。

 それでも、単なる古竜が相手なら男は負けなかったろう。

 しかし、この相手は――。


「――御機嫌よう、《鋼の男》」

「ッ……」


 気がつけば。

 ウラノスは、自分が荒野の真ん中に立っている事を自覚した。

 偽りの夜空に覆われた大陸ではない。

 空は青く澄み渡り、雲ひとつない。

 太陽は何処にも見当たらないのに、明るさは真昼と変わらなかった。

 そして目の前に広がるのは、果てしなく続く赤茶けた大地。

 遮るものは何もなく、其処に立っているだけでただ一人の孤独を感じる。

 いや……違う。

 この場には、もう一人だけ存在している。

 千年前に見たままの姿をした、《支配》の女が。


「いつか、こうなる日を夢見ていました。

 貴方は無敵で、そして孤高だ。

 ただ一人の最強の鋼。

 けどいつか、その脆さが貴方の破滅になると信じていた」


 両者の距離は、そのまま精神の距離だ。

 ウラノスはメトシェラを拒絶し、理解を拒む。

 だが女は、そんな男に遠慮はしない。

 一歩、また一歩。

 近づいてくるメトシェラに、ウラノスは戦慄した。

 向こうとは違って、自分はその場から一歩も動けないのだ。

 動揺を感じ取り、女は艶やかに笑った。


「ここは貴方の世界。

 中心である貴方が動けぬのは、道理だと思いませんか?

 いちいち地軸に動かれては大地も堪らないでしょう」

「っ……何の、つもりだ……!

 いやそんな事より、早く私の身体を……!」

「自由にしろと? それは聞けぬ相談だ、愛しい人」


 一歩、また一歩。

 メトシェラは、ウラノスの本質との距離を縮めていく。

 動けない、まるで蛇に睨まれた蛙だ。

 ――此処が、魂の世界ならば。

 己を強く持てと、ウラノスは拳を固める。

 物理は関係ない、精神の力がものを言う法則。

 例え封印式がなくとも。

 心の強さで相手を上回れば、《支配》を突破することができる。

 そう考えたウラノスに誤りはない。

 そして、仲間の存在で緩めてしまった精神の強度。

 それも今は、ほぼ完全な形で取り戻していた。

 既に身体を蝕んでしまった、《支配》という毒を押し返す。

 そのためには、魂の内にいるメトシェラを屈服させねば――。


「……ようやく、この時が来た。

 私はずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと。

 千年という時間では語り尽くせぬほどに、待ち続けた。

 長き竜の生命、その全てはこの瞬間のためにあったと言って良いぐらいに」


 囁く声は、目の前から。

 鼻先がくっつくほどの距離で、女が笑っている。

 ――心を強く、己を鋼に変えろ。

 ウラノスは自らに言い聞かせ、実際にその通りに行った。

 仮に、支配を仕掛けた相手が《最強最古》であるなら。

 恐らく彼が負ける事はなかっただろう。

 が、しかし。


「貴方の敗因は一つだ、英雄」


 抗えない。

 声の一つ、触れる指先の一つ。

 それが鋼を溶かす毒となって、魂を蝕む。

 理解できない。

 何故、こんなにも一方的に魂の領域を侵されるのか。

 さながら汚泥の海。

 もがけばもがいただけ、深みへと沈み込む。

 ただ一人の、孤高の荒野。

 ウラノスという男の在り方を体現するような世界。

 孤独では《最強最古》には届かず、しかし孤高を陰らせたせいで不覚を取った。

 けれど、今はそんな事とは無関係に。

 暗い女の情念が、全てを呑み込んでいく。


「長兄殿と戦った事でも、仲間への信頼が貴方の孤高を鈍らせたからでもない。

 それならば、貴方は幾らでも覆すことができた。

 我が英雄マイヒーロー、貴方は無敵の男だ。

 その程度の窮地なら、きっと最後に勝利を掴むことができただろう」

「っ……メトシェラ……!」

「あぁ、ようやく名前で呼んでくれましたね。

 そう、負けた理由だ。

 それを聞かねば納得はできないでしょう。

 貴方の敗因は、たった一つ」


 沈む。

 落ちれば二度と這い上がれぬ闇の底。

 ただ、微笑む女の顔だけは美しく。


「――私の愛の重さを、侮った事。

 おやすみなさい、我が英雄」


 ウラノスの意識は、女の愛に飲み干された。


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