幕間2:千年の終わり


 地表がいよいよ地獄と化していく最中。

 大陸に刻まれた巨大な傷跡。

 千年前、大いなる戦いの終焉を迎えた場所。

 旧き世界を滅ぼした者にして、かつて《造物主》を名乗った偽神。

 彼の邪悪なる者の残骸を、永遠に地の底に留め置くために築かれた神殿にて。

 法衣ローブを纏った古の魔法王は、全ての状況を俯瞰していた。

 遥か彼方だろうと、目の前の如くに見通す千里眼。

 魔導においては、究極に達した者のみが持ち得る稀有なる力。

 その偉大なる権能で、老いた魔法使いはその戦いを見続けていた。


『……ウラノス』


 見て、奥歯から鈍い音を響かせる。

 表情など読み取れそうもない髑髏の顔は、激しい憤怒で彩られている。

 怒り、あまりにも激しい怒りだ。

 この地獄を生み出した《最強最古》に対する怒り。

 そして、友の窮地にロクに手出しもできない己に対する怒り。

 オーティヌスは永世者だ。

 同胞である他の《始祖》とは異なり、竜から得た「不死の秘密」を用いずに。

 この世界に渡ってくる前から、独自に不死に到達した真に偉大な魔法使いだった。

 故に肉体は骨と化して、血肉は微塵も残っていない。

 心臓もなく、身体は既に魂を入れておくためだけの器に過ぎない。

 しかし今、オーティヌスは空っぽであるはずの胸が脈打っているのを感じた。

 ――怒りだ。

 煮え滾る溶岩にも等しい憤怒。

 何故、こんな事態になるのを避けられなかった?

 後手後手に回り続け、結局千年を共にした同胞らに犠牲まで出してしまった。

 醜態を晒し続ける己自身への怒りが、一番激しい。

 許されるなら、すぐにでもこの神殿から飛び出したいが――。


『……いや、ダメだ。

 そんな事をすれば、いよいよ取り返しがつかなくなる』


 理性は、その暴走を拒絶する。

 オーティヌスは動けない。

 激情に身を焦がしてる間も、「作業」は絶え間なく続いていた。

 《最強最古》が降らせた《流星》の雨。

 その後も立て続けに下位の真竜らを襲撃し、これを喰らった事で生じた犠牲。

 《大竜盟約》そのものと呼ぶべき大儀式。

 地に沈めた《造物主》の残骸。

 かつて愚かな男が目覚めさせてしまったソレを、永久に縛っておくための鎖。

 それを維持するための術式が、破綻寸前にまで追い込まれているのだ。

 出陣したウラノスたちが戦っている間。

 オーティヌスはひたすら、その封印術式の修復と維持に時を費やしていた。

 万が一でも悪神が這い出さぬよう、楔の役目を務める《黒銀の王》。

 少しでも、彼女にかかる負担を軽くできるように。


『頼むぞ、お前ならば必ず勝てる』


 それは、何処か自らに言い聞かせるような言葉だった。

 若しくは祈りと呼んで良いかもしれない。

 祈る。

 大いなる魔法王であり、十三人いた《始祖》なる魔法使いたちの筆頭。

 永遠に至りながらも、その長き生を狂気に囚われなかった「真に偉大な個人」。

 それほどの力と叡智を持ちながら、できる事は祈ることのみ。

 何という皮肉だろうか。

 神の階梯にまでその手を掛けながら、神の如くには振る舞えない。

 ――この両手の、なんと短く脆弱な事か。

 自らに向けた怒りは、最早呪いの域まで達しようとしていた。

 そんな、自己嫌悪に沈みかけた老人に。


「…………オーティヌス」


 少女の声が届いた。

 封印の楔である、神殿の中枢。

 現在は、たった二人しか存在しない円卓。

 この場にいるのは、オーティヌス以外にはもう一人だけ。

 宿した魂の全質量を以て、封印を閉ざす「重し」となり続けている少女。

 今はただ、《黒銀の王》と呼ばれる《大竜盟約レヴァイアサン・コード》の盟主。

 眠るように瞳を閉じていた彼女が、今はその瞼を開いていた。

 術式による作業は継続したまま、オーティヌスはそちらを振り向いた。


『如何したかな、王よ?』

「随分と、怒っているようですね」

『…………あぁ。

 我が身の無力さを、呪っていたところだ』

「一人で背負って思い詰めるのは、貴方の悪癖だ」


 とはいえ、それは私たち皆に言える事かもしれませんが。

 と、《黒銀の王》は静かに笑った。

 その表情は、幼さすら感じさせる少女のモノだった。

 ……千年前の戦いの末に、失われたモノ。

 それはきっと、稀代の賢者であるオーティヌスすら数え切れないだろう。

 数千、数万の言葉を尽くしても届かないかもしれない。

 だが一つだけ。

 一つだけ、確かに「失われた」と口にできるものがある。

 それはこの少女が持っていたはずの、「人間らしく生きる権利」の全てだ。

 完成された不死者は、眠りも必要なければ夢を見る事もない。

 にも関わらず、オーティヌスは未だに夢に見るのだ。

 人智の及ばぬ《大いなるモノ》と契約し、彼女が「王」となった瞬間の事を。

 全ての過ちと選択の結果が、今も封印の玉座を守り続けている。


『……王よ』

「謝罪は不要だ、友よ。

 悔いた事がないとは言わない。

 だが私は、この道を選んだ事を過ちと思った事もないのだから」


 老いた賢者が抱いた弱さ。

 それを王たる少女は、正しい強さで受け止める。

 星の怒りと同義である黒銀の《焔》。

 人の器では、本来納められるはずもない莫大な熱量。

 その圧倒的なエネルギーを魂の内に呑みながら、彼女は揺るがないのだ。

 美しくも凛々しい表情も、優しくも強い声も。

 哀しいほどに変わり果てながらも、悲しいほどに変わらない。


『……すまなかった。

 長く生き過ぎると、不安が多くなって仕方がないな』

「貴方の歩んできた道の長さを考えれば、私などまだまだ小娘でしょうね」

『それは冗句と笑えば良いのかね?』

「真面目ですよ、私はいつだって真面目だ」


 笑う。

 オーティヌスの抱く不安を和らげるように。

 感情なんて摩耗し切っていておかしくないにも関わらず。

 少女は――《黒銀の王》は、笑っていた。

 笑って、またその表情から感情の色が抜け落ちる。

 冷たく鋭い、王のかんばせが戻ってきた。


「ウラノスは、勝てると思いますか?」

『奴とその《魔星》たちで勝てぬのなら、大陸で抗える者はいないという事になる』


 序列の上では、オーティヌスはウラノスよりも上位だ。

 実際、総合的な力の総量で考えればそれは正しい。

 数千年を生きる魔法王の前では、例えウラノスでも一歩譲る他ない。

 だが、その事実を考慮しても《盟約》最強の戦士はウラノスで間違いはないのだ。

 ……万が一、オーティヌスがウラノスと戦う事になった場合。

 戦士としての技量と、精霊と繋がった鋼の肉体。

 そして幾度となく奇跡を起こしてきた運命力。

 それらを兼ね備えたウラノスに、オーティヌスは確実に勝てるとは言えなかった。

 今回は、そこに歴戦の英雄である《魔星》たちも加わっているのだ。


『彼らならば勝てると、私は信じている。

 彼らで勝てぬのなら、我々が打てる手は殆ど無くなってしまう』

「ええ。貴方の言う通りだ、オーティヌス」


 頷く。

 そんな動作一つでも、想像を絶する重圧を感じているはずだ。

 《黒銀の王》は、その感情を表には出さない。


「しかし、万が一が起こった場合は?」

『…………王よ』

「ウラノスが負ける可能性。

 当然、貴方も考えているはずだ」

『あり得ぬ事であるし、あってはならない事だ。

 あの男が敗北すれば、《盟約》でそれを超える者は……』


 やや伏せ気味だった顔を上げるオーティヌス。

 がらんどうだが、魔法的に視覚を再現された両目で。

 彼は、改めて《黒銀の王》を見た。


『……貴女しかいないだろう、《黒銀の王》。

 我らの中で、最も偉大な役目を背負った同胞よ』

「私は楔から動けない。

 しかし、《造物主》を解き放つのならこの楔である神殿を退かさねばならない。

 つまり敵が誰であれ、最後は必ず私の前にたどり着く」

『…………』


 オーティヌスは、すぐには言葉を返さなかった。

 あり得ない事だ。

 あってはならない事だ。

 狼藉者が、彼の王の前に到達するなど。

 だが、その可能性を否定しきれない状態なのも事実だった。

 ウラノスが敗北すれば、いずれは必ず。


『貴女は、ウラノスが負けるとお考えか』

「可能性は考慮すべきだ、オーティヌス。

 我々はもう、あと千年を維持する事は不可能に近い」


 終わりが近いと。

 《黒銀の王》はそう告げていた。

 何に対しての「終わり」かなど、わざわざ問うまでもない。


「私はこの楔の玉座で待ち、役目を果たしましょう。

 それが明日訪れるのか、もう百年の時が必要であるのか。

 そこまでは分かりかねますが――」

『……私はもう好きにして構わない、など。

 そんな戯言は聞きたくはないな、《黒銀の王》よ』


 ほんの僅かに強い言葉。

 己への怒りと呪いで沈みかけていた賢者は、少しだけ浮き上がる。


『例えそれが、我らに定められた運命だとしても。

 時が朽ち果てるその瞬間まで、私は諦めるつもりはない。

 封印の維持と再構築は、このまま続行する。

 ウラノスがあの大悪を誅すれば、これ以上術式が破壊される事もなくなるのだ。

 ――終わりはまだ遠い。

 私はこのまま、諦めるつもりはない』

「ええ。分かっていますよ、オーティヌス」


 《黒銀の王》は、それを否定する事はしなかった。

 何処まで見通しているかも不明な王の瞳。

 玉座を楔に変える少女は、再びその瞼を閉じた。


『眠られるのか、王よ』

「ええ、少しだけ。

 後のことは、貴方に任せます」

『承知した。せめて心だけでも休まれると良い』


 また眠りに落ちようとする王に、オーティヌスは一礼をした。

 そうしてまた、戦友と《最強最古》の争いに意識を向ける。

 《盟約》の封印を維持する作業は続けながら。


「……オーティヌス」

『? 何か?』


 もう眠ったと思っていたところ。

 瞼を閉じたままで、《黒銀の王》は呟くように言った。


「間もなく、この神殿を訪れる者らがいます。

 そちらの相手も、どうか――」


 お願いします、と。

 言葉を言い終えるよりも早く、少女の意識は眠りに沈む。

 実際には眠っているとは呼べない、気休めの休息だが。

 必要な作業は決して滞らせる事はなく。

 オーティヌスは、言われたばかりの言葉を繰り返す。


『この神殿を、訪れる者だと……?』


 しかも、王は「間もなく」と言った。

 それはつまり。


『ッ……』


 微かな振動が伝わってきた。

 それは決して、神殿全体を揺るがすものではない。

 が、この領域全体を知覚できるオーティヌスが見逃すものではなかった。

 何者が、この触れてはならぬ場所に現れたのか。

 千里眼をウラノスから外す事は躊躇われる。

 そうなれば、「何者か」の正体は直接確かめる他なかった。


『頼むから、これ以上面倒は起こってくれるなよ……!』


 今度もまた、祈るようにそう呟いて。

 大真竜オーティヌスは、忙しなく動き出した。


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