421話:クロトーの戦い


「……厄介ですね」


 例には漏れず、クロトーもまた闇の底に立っていた。

 擬似的に構築された異界。

 対象を捕らえて、逃さぬためだけに用意された牢獄空間。

 クロトーの両目は特殊な魔眼だ。

 生まれ持って備えていた異能を、更に術式を加えて改良を施した特別品。

 他の《魔星》では、単なる「暗く閉ざされた異界」としか認識できなかったが。

 彼女だけは、この暗闇の構造を正しく把握していた。

 故に、脱出を試みるだけなら容易だった。


『ア・ア・アア・ア・ア』


 当然、それを許さぬ障害が配置されていた。

 流れるのは奇妙な歌声。

 そこに感情はなく、壊れた楽器のように無意味な音が流れるのみ。

 見上げる。

 かなり高い位置に浮かぶ一つの巨影。

 それは何とも、一言では形容しがたい姿をした怪物だった。

 基本的な形状は球体だ。

 クロトーの背丈なら、全身が隠れられそうなサイズの肉の球。

 真ん中には巨大な眼が一つだけ開いている。

 そして肉の周りには、何本もの竜の首が伸縮を繰り返しながら蠢いていた。

 竜の首には眼球はなく、半開きの口からは先ほどの鳴き声が響き続けている。

 見ているだけで心をかき乱される、あまりにも不気味な怪物だった。

 そんな見た目にも関わらず、声だけは美しい女のモノで。

 聞く者の精神を余計に引っ掻いてくる。


「――木偶が。

 邪魔をしないで頂戴」


 だが、クロトーは歴戦である《魔星》の一角。

 当然、その程度で心を乱す事はない。

 睨む。

 見ただけで対象を「呪う」、最も原始的な魔術。

 魔眼による視線の投射。

 赤黒い双眸から放たれる魔力は、速やかに《大目玉》へと押し寄せた。

 その眼に捉えたモノを侵し、朽ち果てさせる視線の邪毒。

 威力を集中させれば、あの《最強最古》の血肉すら崩壊させた呪いだ。

 直撃すれば、どれほど巨大な怪物だろうがタダでは済まない。

 が、同時に《大目玉》の眼球が不気味に光った。


「っ……」


 身体を揺さぶられる衝撃に、クロトーは息を詰める。

 これで果たして何度目か。

 クロトー自身よりも大きな眼球が、彼女の姿を映している。

 あの《大目玉》の眼も、同じく魔眼であった。

 しかもその力は……。


「邪視返し、ですか。

 本当に、嫌がらせが得意なようですね」

『ア・アアア・アア・アアアア・アアア』


 呟く皮肉を解する知性を、《大目玉》は持ち合わせていなかった。

 ただ魔眼の呪いを自身の魔眼ではね返す。

 それに合わせて、幾つもの竜の首が歌うような鳴き声を上げ続ける。

 声そのものに意味はない。

 しかし、その声には強い魔力が込められていた。

 聞く者の血肉を蝕む「腐食」の呪い。

 極めて強力な呪いであり、常人なら数秒耳にしただけで肉が崩れるだろう。

 クロトーは呪殺の専門家だからこそ、何とか防御できている状態だ。

 だがそれも、いつまで持ち堪えられるか。


『アア・ァ・アアアアア・アアアアァ』

「…………」


 単純な質量差だけでなく、内包する魔力量でもクロトーは劣っている。

 隙はないかと、魔眼の投射を繰り返してはいるが。

 成果は上がらず、反射された視線を防ぐだけでも消耗を強いられてしまう。

 《大目玉》の方も、無理に攻めるつもりはないらしい。

 魔眼の視線を反射で防ぎつつ、声の呪いでじわじわと嬲り殺す。

 結果の分かりきった持久戦だ。

 このままでは勝ち目がない事を、クロトーも十分理解していた。


「……まったく、困りましたね」


 呟く。

 絶望的な状況にも関わらず、クロトーは笑っていた。

 ――勝ち目がない?

 なるほど、それは実に久しい感覚だ。

 千年前、あの狂い果てた古竜たちとの壮絶な争い。

 あの頃ならば、そんな状況に陥ることはしょっちゅうだった。

 《魔星》として、大真竜ウラノスの加護を授けられる以前。

 まだ幼いとすら言える時期に、彼女はそんな地獄をくぐり抜けてきた。

 あの頃は、年齢以上に未熟だったとクロトーは振り返る。

 ゴーヴァンにネメシス、それにドロシア。

 彼女以外の《魔星》らは、もうその時代から優れた戦士だった。

 古竜との戦いでも多くの成果を残した仲間たち。

 彼らと違い、その時代のクロトーはまだそれほどの実力を有していなかった。

 戦友たちと轡を並べて、同じ結果を残したのは彼女の父母の方だ。


「懐かしいですね、本当に」

 

 千年前を生き残り、しかし人としての運命を全うする事を選んだ二人。

 クロトーは、そんな尊敬すべき両親とは異なる道を選んだ。

 後悔はしていない。

 自分で悩み、その末に選んだこの道だ。

 人間として生きて死ぬ事を選んだ父と母にも、感謝と尊敬しかない。

 苦難の道と知って選んだ自分を、二人はただ労ってくれた。

 愛と情があり、抱いた使命感も同じだけの重さがある。

 故に、窮地であるからこそクロトーは笑っていた。

 ――この程度ならば、過去に幾らでも経験した事がある。

 この程度で諦めるのならば、最初からこの道を選んではいない。

 容易く踏破すべきだが、それができない今の自分は恥じた。

 その上で、必ずあの《大目玉》を討ち滅ぼすと。

 覚悟を決めたクロトーは、早速そのための行動に移った。


『アアアア・アアァアア・アアアアアア』


 ただ、その変化は見た目からは読み取れない。

 標的が未だに、無駄な魔眼投射を繰り返している。

 《大目玉》側からは、そのようにしか見えないだろう。

 定められた機能を十全に発揮し、投射された邪毒を弾き返す。

 クロトーは邪視返しと認識したが、実際のところは異なる。

 巨大な眼球が持つ実際の能力は、魔術そのものを反射する力だ。

 魔眼の視線に限らず、大抵の術式は《大目玉》の前では跳ね返されて終わりだ。

 そうして術による攻撃を封じた上で、呪いの歌声で圧殺する。

 それがこの《大目玉》の基本戦術だった。


「……っ、く……!」

『アアァアアア・アアアアア・アアアアア』


 既に二桁に及ぶだろう魔眼投射。

 それを跳ね返されて、とうとうクロトーが膝を折った。

 反射された邪毒も、声に乗せた腐食の呪いも。

 どちらもまだ、肉体的には大きな影響を及ぼしてはいない。

 しかしそれを防ぐために、魔力の方はかなりの消耗を強いられていた。

 《大目玉》は知覚機能にも優れ、クロトーの魔力量も正確に把握していた。

 恐らく、耐える分にはまだ暫くは耐えられる。

 このまま、持久戦でじわじわと絞め殺すことも可能だ。

 或いは知能が備わっていれば、そんな安全策を選んだかもしれない。


『アアアアアア・アアアアアアア』


 が、《大目玉》にその手の自我はなかった。

 あるのは、定められた通りに敵を殺すための機能だけ。

 相手の消耗を確認した時点で、宙に浮かんでいた巨体が動き出す。

 魔法反射の魔眼と、腐食の呪いが込められた歌声。

 それだけならば巨大な肉体など不要だ。

 《大目玉》がこれほど不気味で、異様な造形をしている理由。


「……本当に、趣味が悪い」


 それは当然、敵をその質量と膂力で蹂躙するためだった。

 獲物を定めた竜の顎が、カチカチと牙を打ち鳴らす。

 外見からは想像できない速度で、《大目玉》は膝を付いたクロトーに迫る。

 その巨体の重量で圧殺するのか。

 それとも数十を超える鋭い牙で引き裂くのか。

 どちらにせよ、《大目玉》のやる事に変わりはない。

 対するクロトーは動かない。

 度重なる魔眼の投射と、《大目玉》が垂れ流す呪殺への抵抗。

 それらの消耗が重く伸し掛かり、最早一歩動くことすらままならないのか。

 当然、それは否である。

 クロトーは動けないのではない。

 動く必要がないのだ。


「――やっと、ここまで下りて来ましたね」


 囁く声は、冷たい。

 さながら凍てつく刃のようで。

 クロトーの声には、《大目玉》のような呪いは含まれていない。

 だからその言葉では、怪物には何の影響も齎さない。


『ア・アアアアアア・アッ――!?』


 瞬間、《大目玉》の歌声が揺れた。

 凄まじい襲撃が、その悍ましい肉塊を貫いていた。

 魔眼の力ではない。

 それは《大目玉》の持つ機能で反射できる。

 迫る巨体に打ち込まれたのは――。


「はァッ!!」


 

 動きにくそうな外套ローブなど関係ないと。

 裾を跳ね上げ、すらりと長い足が空高く突き出している。

 狙ったのは、柔らかい肉を食い千切ろうと伸びてきた顎の一つ。

 鋭く並んだ牙は、その役目を果たす前に砕かれる。

 神速で放たれたクロトーの上段蹴りによって。


『アアア・アアアァァア!?』

「喧しい!!」


 突然の損傷ダメージに、《大目玉》は混乱を叫ぶ。

 そこにクロトーは容赦のない追撃を打ち込む。

 メインはやはり蹴りである。

 彼女は足こそ長いが、体格は小柄な方だ。

 体重も軽く、その差は《大目玉》とは比較するのも馬鹿らしい。

 が、そんな矮躯から繰り出される打撃。

 その威力は、《大目玉》の大質量をものともしない。

 衝撃は分厚い肉も、硬い鱗も等しく貫く。


『アアアアアアア!!』


 叫ぶ。

 竜の顎から呪いを迸らせ、《大目玉》は荒れ狂う。

 既に混乱は解け、今は眼球に敵意と憤怒の炎を燃やしていた。

 肉塊の如き身体から生えた、幾つもの竜の首。

 牙を鳴らす顎の群れは、あらゆる角度から襲いかかる。

 その全てを、クロトーは華麗に回避した。

 明らかに練達した動きだ。

 ――彼女の両親は、かつては《鋼の男》と共に戦った英雄だ。

 クロトーが有する魔眼。

 この力は優れた術師だった母から受け継いだもの。

 そして、もう一つ。

 《鋼の男》にも迫る拳士であった父。

 その技は、娘であるクロトーにも十全に刻まれていた。


「ふんっ!!」

『アアアアアアアッ!?』


 であれば、この戦い方こそクロトーの正しい姿だ。

 魔眼の制御のため、他の仲間など巻き添えが怖い場合はそちらに専念するだけで。

 鍛えた五体と技で、容赦なく敵を粉砕する。

 クロトーは一瞬も休まず、激しい連打で《大目玉》を叩きのめす。

 竜の首は何本か千切れ、巨大な眼球も半ば潰れていた。

 それでも、怪物は容易くは止まらない。


『アアアア・アアアアア・アアアアッ――!!』

「くっ……!?」


 一際大きくなる《大目玉》の叫び。

 断末魔かとも思ったが、実際には少し違った。

 大きな損傷を受けたことで、怪物はより強力に呪いを辺りにバラ撒く。

 魔力が枯渇するとか、そんな後先はケダモノの中には存在しない。

 自分が死ぬ前に、敵を道連れにする。

 定められた命令通りの挙動を、《大目玉》はただ忠実に実行していた。


「往生際が悪い!!」


 強まる呪いの圧力。

 血肉を腐らせようとするその悪意。

 クロトーは、それを気合いで耐える。

 そう、気合いだ。

 魔法や呪いの類に抵抗する場合、一番必要なのは精神力。

 己を強固に保つため、クロトーは咆哮する。

 同時に、耐えるばかりではジリ貧だと。

 暴れる《大目玉》に向け、全力で蹴り足を打ち込んだ。

 狙うは巨大な眼球。

 鱗に覆われていない分、他の肉よりは柔かい。

 爪先を刃の如くねじ込めば、ドス黒い血が溢れ出す。


『アアアアアアアアアアッ――!!?』


 苦痛を叫びながらも、《大目玉》はまだ止まらない。

 腐食の呪いは、牢獄である異界まで蝕み始める。

 時間はあまり残っていない。

 クロトーは全霊を以て目玉の怪物を仕留めに掛かる。


「朽ち果てるなら、お前一人で朽ち果てなさい!!」


 眼球に突き刺した爪先。

 クロトーは、そこから直接術式を流し込む。

 それは単純な《阻害ジャミング》の魔法。

 相手の使う魔法を掻き乱し、僅かに妨害するだけのもの。

 時間にすれば一秒にも満たない。

 それで十分だった。


『――――!!?』


 魔法を反射するはずの魔眼。

 が、直に撃ち込まれた《阻害》までは防げなかった。

 そこに間髪入れず、クロトーの視線が放たれる。

 竜の《吐息ブレス》を思わせる、極限まで収束させた魔眼投射。

 反射を無効化された《大目玉》を、黒い光が真っ直ぐに貫く。

 決着は、その一瞬で付いた。


「……は」


 重い吐息。

 朽ちて崩れ去る《大目玉》。

 その最後を見届けて、クロトーはもう一度息を吐いた。

 かなり危ない面もあったが、どうにか勝利できた。

 しかし、怪物に勝ったばかりのクロトーの表情は、先の吐息よりも重い。

 ――即席で出した、使い魔同然の怪物でこの強さ。

 ならば《最強最古》は、一体どれほどの力を有しているのか。

 底知れぬ暗黒の一端。

 それに触れた気がして、クロトーの背筋に冷たいものが這い上る。


「……ダメよ、何を弱気な」


 悪寒を振り払い、自らを鼓舞するため。

 クロトーは声に出して呟く。

 敵が強大なのは、最初から承知の上。

 幸い、魔眼の知覚は他の《魔星》たちの勝利を感じ取っていた。

 現実世界の方は、微かにしか読み取れないが。


「あの方は、まだ戦っている」


 《盟約》最強の大戦士。

 ウラノスは、今この瞬間も戦い続けている。

 絶大なる邪悪を相手に、一歩も退かずに。

 恐らく、足止めを撃破した仲間たちも合流に急いでいるはずだ。


「どうか、私たちが間に合うまでご無事で……!」


 祈る言葉を唱えて、クロトーは魔眼に神経を集中させる。

 この暗闇の牢獄から脱する道を探すため。

 一刻も速く、《最古の悪》と戦う主の元へと向かうために。


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