第三章:大悪に挑む星々

415話:愛を騙る


 ――追憶が脳髄の奥から湧き上がる。

 何故、今こんなことを思い出しているのか。

 もう遠い昔から、「鋼」と呼ばれていた男にも分からなかった。

 分からぬままに思い出す。

 それは少なくとも、千年以上は昔の出来事。

 当時、大陸は地獄にも等しい戦乱の渦中になった。

 狂気に陥った古竜らの暴虐。

 まだその時点では、それがとある《始祖》の謀略とは知らぬまま。

 竜に滅ぼされる事をよしとしない者たちは、勇敢に戦っていた。

 そして「彼」もまた、その大いなる戦の中にいた。

 《鋼の男》、或いは《鋼鉄の大英雄》。

 共に轡を並べる多くの者たちが、「彼」を幾つもの名で讃えた。

 古き竜を相手に、己の五体だけで勝利する姿。

 人間でありながら、精霊――「世界」に選ばれた本物の英雄。

 文字通りの超人。

 凡そ人間では不可能な事を、その力だけで踏破する。

 「彼」もそれを当然だと考えていたし、疑問に思った事もない。

 仲間たちは「彼」を信頼し、「彼」もまた仲間たちを信じていた。

 ――自分たちなら、この凄惨な戦いを終わらせられる。

 苦しく、厳しい時代だった。

 昨日語り合った友人が、今日物言わぬ屍になるのも珍しくはない。

 死が日常であり、喪失は常に背後に立っている。

 それでも、「彼」は己の力で全てを切り開けると確信していた。

 事実、それだけの強さが男には備わっていたのだから。


「――本当に、素晴らしい力だ。

 惚れ惚れしてしまいますよ」


 そして「彼」は、運命と出会う。

 狂った古竜らとの戦争、その末期。

 長い争いの中でも、特に激戦と呼ぶべき戦場で。

 「彼」は、その女との邂逅を果たした。

 見た目の上では、特にどうということもない女だった。

 白と黒を基調としたラフな普段着。

 赤色の髪に、色白の度が過ぎてやや青褪めた肌。

 鋭い眼は黄金に燃えていて、見る者の心さえ焼く炎の如し。

 美しい彫刻を思わせる容貌も含めて。

 その女は、凡そ戦いの場には似つかわしくない女だった。

 だが、そんな印象は上辺だけだ。

 「彼」はそいつが何者なのかを知っていた。


「《支配の宝冠》……」

「私のことを知ってるのかい?

 光栄ですね、《鋼鉄の大英雄》」


 嬉しそうに女は笑う。

 その表情だけを見れば、まるで童女のような笑みだった。

 ――知らぬ者などいるはずもない。

 声には出さず、男は自らの胸中で唸った。

 《支配の宝冠》。

 強大なる《古き王オールドキング》にあって、更に別格。

 《五大》と称される竜王の内の一柱、その異名。

 これまで、「彼」自身何度も交戦してきた相手だ。

 ただ、それは間接的なものであったり、乱戦の最中での一幕に過ぎなかった。

 今のように、直に顔を見て相対するのは初めての事だった。

 故に。


「意外かな? 私が貴方の事を知っているのが。

 逆に聞くけれど、どうして知らないと思ったのですか?

 今や人類の希望と言えば、誰もが貴方の名前を口にする。

 貴方自身がいない戦場であってもだ。

 絶望的な死を目前にした兵士でさえ、希望と共に貴方の名を呟く。

 そうすれば、死の恐怖から解放されると信じているみたいに」

「…………」


 戦場のど真ん中で、戦いは今も続いている。

 荒廃した大地に、人と竜はひたすらに血を流している最中だ。

 男と女の足元にも、無数の屍が転がっていた。

 人であれ、竜であれ。

 等しく、朽ち果てるまで争う事を定められた死地。

 その中心に近い場所に立ちながら、女はあまりにも平然としていた。

 平然とし過ぎていた。

 そのため、「彼」は微かな疑念を抱いた。


「……お前は」

「うん? 何かな、あぁ待って欲しい。

 こう見えてね、実はとても緊張しているんだよ。

 期待してなかったと言えば嘘になる。

 けど、ここでの遭遇は私にとっても予定外のことでして。

 柄にもなく――いや、こんな姿を長子殿に見られたら笑われそうだけど。

 本当に、柄にもなく緊張しているんですよ。

 だから少しばかり、深呼吸する時間を頂戴できれば」

?」


 戯言には構わず、「彼」は直球でその言葉を投げつけた。

 ひたすらに喋っていた《支配の宝冠》だが。

 その一言に、ぴたりと舌の回転を止めた。

 沈黙は数秒ほど。

 やがて、女の口元は三日月を形作る。


「――ええ、そうですね。

 私に正気と狂気の境を問う事は、《最古の悪》に善悪を語るも同然。

 ですが、貴方が考えている通り。

 他の兄弟姉妹たちと違って、私は『酔っ払って』はいませんね」

「ッ……」


 やはりか、と。

 男は強く奥歯を噛み締めた。

 この女からは、他の竜たちのようなおかしな狂気は感じない。

 何事もなく、平常通りに振る舞っているように見えたのだ。

 予感は的中した。

 強大なる《五大》の一柱。

 《支配の宝冠》と呼ばれる竜は、全くの正気でこの場に立っていた。


「ならば……!」

「ならば、争う意味はないはず、ですか?

 いえいえ、誤解なさらぬように。

 私は確かに他の同胞たちのように、狂ってはいない。

 それは恐らく、私が備える力が《支配》だから……あぁ、失礼。

 これはあまり関係ありませんね、少なくとも今の私たちにとっては」

「何を言っている?」

「狂気に陥っていないはずの私と、争う理由はない。

 ええ、貴方の言う通りだ《鋼の男》。

 ですが、こうも考えられませんか?」


 女は笑う。

 その笑みは酷く酷薄で、見る者を不快にさせる。

 にも関わらず、悍ましいぐらいに美しい微笑みだった。


「他の皆が、楽しそうに騒いでいるのに。

 私だけ、素面だからという理由で騒がない。

 ――そんなものは、あまりに勿体ないと思いませんか?」

「……正気でそれを言っているのか、貴様」

「勿論。そもそも、私を誰なのかお忘れかな?

 勝手気ままに、己の欲望のままに蹂躙する事こそが竜の本分。

 私はその本能に忠実なだけ」


 無茶苦茶な理屈だった。

 いや、そんなものは理屈以前の戯言だ。

 が、女の振る舞いが「道理」として通る時代でもあった。

 力ある竜の専横に、弱者は頭を垂れるしかない。

 絶対的な暴力こそが真理で、その現実に理想が介在する余地はない。

 まったくその通りだ。

 だからこそ、「彼」はその竜の論理に己の力で異を唱える。


「《五大》に数えられるほどの大竜だ。

 話し合いが通じればと、淡い期待を抱いたのが馬鹿だったな」

「いやいや、気持ちは分かるよ。

 私も別に戦うのは好きじゃないんだ。

 言葉で通じ合うのは、竜王バベルを創造した父の夢と言って良い」

「《支配》を司るお前が、それを言うのかよ」

「上下関係を明確にするのは、力もでも言葉でも必要な結果だろう?」


 微笑む女は、美しいからこそ怖気が走る。

 古竜と人間は、価値観を含めて色々なことが異なる存在だ。

 関係を深められる事こそ稀で、不理解こそが正しい在り方なのかもしれないが。

 その前提を踏まえた上でも、「彼」にとって女は理解し難い存在だ。

 何故、どうして。

 コイツは、この狂気の渦中でそんな風に笑えるんだ?

 もしかしたら、一番狂っているのはこの女なのでは――。


「……それで?」

「っ……」


 微笑みは、思ったよりも近くまで迫っていた。

 思考に意識が向いた、ほんの一瞬。

 その隙と呼ぶには儚すぎる時間で、女は強く踏み込んできた。

 お互いに拳が届く距離だ。

 ろうと思えば、すぐにでも始められる位置。

 そんな死線の上を、《支配の宝冠》は散歩の気軽さで歩み寄る。


「やるのかい? やらないのかい?」

「……これは、最後の警告だ。

 大人しく封じられろ、《支配の宝冠》。

 仮に正気でも――いや、他の竜のように狂っていないからこそ。

 お前を野放しにしておくのは、危険過ぎる」


 通じるはずのない最後通牒。

 断った瞬間に、男は拳を叩き込むつもりだった。

 しかし。


「――貴方に従おう、無敵の男。大陸で最も強い戦士」


 あっさりと。

 何の躊躇も迷いもなく、《支配の宝冠》は降伏に同意したのだ。


「……本気で言っているのか、貴様。

 意味が分かっているのか?」

「貴方たちが古竜を仕留め、その魂を封じている事は知っているとも。

 むしろ、それの意味するところをそちらの方がちゃんと理解できてるのかな?」


 まぁ、それは別に構わないけど――と。

 独り言のように呟いてから、《支配の宝冠》は続ける。


「このまま戦えば、決着はどうなるか分からない。

 貴方は私の魂を喰らって、さらなる力を。

 私は最初から望んでいた結末なので、それで十分。

 後は、貴方が私の提案を聞き入れるか否かだけですよ」

「……何故だ」


 思わず口を突いて出た言葉。

 それを聞いて、女は微笑みながら首を傾げる。


「何故と、私に問うのかい?

 何故戦いもせず、私が貴方に従うのか」

「…………」


 そうだ、意味が分からない。

 死闘を覚悟していた。

 相手は《五大》、勝利を断言できる相手ではない。

 それでも、必ず己が勝つと。

 覚悟したはずの男に、女は甘やかに囁く。

 自らの胸の内に渦巻く、その毒を。


「それは、

 我が英雄マイヒーロー

「…………は?」


 意味が分からなかった。

 《言語統一バベル》の理は、正しく機能している。

 にも関わらず、女の告白を欠片ほども理解できなかった。

 コイツは今、何を言った?


「愛してる、愛しています。

 恥ずかしながら、一目惚れという奴かな?

 貴方の噂を耳にした時、微かに胸が高鳴るのを感じた。

 姿を見た時、それが勘違いじゃないと確信したよ。

 ――恋を患っている。

 愛を知ってしまった。

 そんな貴方を、心から支配したいと願った」


 指が、吐息が。

 まるで蛇のように絡み付いてくる。

 貴方を逃しはしないと。

 それはまさに、避けようもない運命の如く語るのだ。

 男は動けない。

 無防備な女の胴に、拳を打ち込むのは容易かったが。

 肉体を支配されたも同然に、「彼」は動くことができなかった。


「――けど、貴方を支配するのは困難極まりない。

 貴方は強い男だ、《鋼鉄の大英雄》という異名に偽りはない。

 支配を司る私であっても、貴方を支配するのは不可能に等しい。

 だから、発想を逆転することにしました」

「逆転……?」

「支配するのではなく、支配される。

 心を奪えないのであれば、この魂を奪って欲しい。

 他の誰でもない。

 貴方だからこそ、私は心の底からそうなる事を望んでいる。

 我が英雄、愛しき鋼の人よ」

 

 ――狂っている。

 《鋼の男》は、遅まきながら判断の誤りに気付いていた。

 この女は正気ではない。

 狂わされる以前に、最初から狂っていたのだ。

 猛毒にも等しい愛。

 囁く女の言葉は、最悪なことに全てが真実だった。

 男が自らを封印するのなら、一切抵抗する気はないようだ。


「……私は、お前の言うことは一つも理解できん。

 お前は狂っている」

「狂気でない愛などないさ。

 元々、理解も求めていないよ。

 ただ―― 一つだけ、最後に知っておいて欲しい」


 細い指先が、男の胸板をなぞる。

 指し示しているのは、熱く脈打つ心臓か。

 それとも、更にその奥にある魂か。

 女にとっては、どちらも同じかもしれない。



 こんなに素敵なことはない。

 毒々しく微笑みながら口にした、それが最後の言葉だった。

 封印式を刻み付けた剣は、容易く女を貫いた。

 抵抗はなく、手応えすらも呆気なく。

 《支配の宝冠》は封じられた。

 ……それから、あの大いなる戦いを経て。

 男は大真竜ウラノスと、その名と存在を改めた。

 鋼の英雄が、《五大》の魂を取り込んだ姿。

 その上には、《黒銀の王》と古き《始祖》の筆頭しかいない。

 大陸最強の戦士として、彼は君臨し続けた。

 不安に感じた事はない。

 その心身は鍛えられた鋼そのもの。

 故に揺るがず、決して傷付く事もなかった。

 しかし――今は不思議と、あの女の影がちらつくのだ。

 狂気を愛と嘯く、支配の竜。

 封じてから今日まで、その存在を意識した事などなかったはずだ。


「……いいや、惑わされるな」


 呟く言葉は、己の内に向ける。

 そうだ、見るべきは過ぎ去った幻影などではない。

 それはもう乗り越え、克服したものだ。

 今討つべき敵は、目の前にいる。


「なんだ、お前は?」


 それもまた女の声だが、《支配の宝冠》とは異なる。

 愛らしさが際立つ少女の声。

 だが、含まれる毒の強さは勝るとも劣らない。

 振り下ろされた爪を、拳で受けながら。

 ウラノスは自らを見下ろす傲慢な瞳を、正面から真っ直ぐに見返した。


「私の名はウラノス。

 お初にお目にかかるな、《最強最古》」

「っ……ウラノス……!」

「下がっていろ、ブリーデ。

 ゲマトリアや、他の者たちもだ」


 迎え撃つは最強の敵。

 《五大》を上回る圧倒的な「格」を感じながら、鋼の男に怖れはない。

 同胞をその背に庇いながら、戦士は立つ。


「掛かってこい、《最古の悪》よ。

 貴様の相手は、この私だ」


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