幕間1:集う星々


「さて――何やら、面白い事になってきたね」


 大陸の片隅。

 最早何の都市であったのか、考える意味のない瓦礫の上。

 そこに佇む一人の女がいた。

 灰色の帽子に外套。

 傷の目立つ顔の半分を覆面で覆った、半森人ハーフエルフの女。

 銀色の髪が、風を受けて微かに揺れる。

 腰から下げた愛剣の柄を、指先で何度もなぞりながら。

 ただ一人、頭上を遮る偽りの夜空を見上げていた。


「まさか、盤石に思えた《盟約》の支配がこんな容易く壊れるなんてね。

 いや、長生きはしてみるもんだよ。

 こんな面白い場面に出くわせるなんて、想像もしてなかった」


 笑う。

 半森人の女――ドロシアは、破滅的な光景を見て笑っていた。

 本心から偽りなく、心底愉快げに。

 一応、この場所に駆けつけたのは「救援」が名目ではあったが。

 ドロシアが辿り着いた時点で、もう手遅れだった。

 都市は破壊され、真竜は既に仕留められて亡骸さえ残っていない。

 まだ生きている住民はいるが、それはドロシアにとっては興味の外だった。

 瓦礫の下から這い出して、何処へなりとも行けば良い。

 支配する真竜がいなくなった以上、どうするのかは全て自由だ。

 まぁ、もっとも。


「果たして、この状況でどれだけの人間が生き残れるやら」


 《大竜盟約》の崩壊と、大陸の滅亡。

 あり得ないと思っていた事が、現実に起こりつつある。

 ――楽しいな。うん、楽しい。

 声には出さず、ドロシアは覆面の下に笑顔を隠す。

 何もかもが終わる中、自分の生死も定かならぬ地獄に身を投じる。

 久しく感じなかった愉悦に浸り、死神は歓喜に打ち震えた。

 これほど胸が高鳴るのは、あの戦争都市以来の事だ。


「……何をやっているのだ、貴様は」

「おや」


 聞き覚えのある声に、ドロシアは少しばかり居住まいを正した。

 振り向けば、そこには誰もいない。

 うず高く積み上がった瓦礫があるばかり……いや。

 人の姿はないが、蠢く影があった。

 小さな、まるで夜空の断片が寄り集まったような黒の群れ。

 それは蝙蝠だった。

 羽根を細かく羽撃かせ、宙を踊る無数の蝙蝠たち。

 ドロシアの目でも、その正確な数は分からない。

 少なくとも、数百に及ぶ大群である事は間違いなかった。

 そんな夜の群が、一糸乱れぬ動きで空を飛んでいる。

 見た者の心をざわつかせる、それは異様極まる光景だった。

 しかし、ドロシアは特に気にした様子もない。

 むしろ見慣れたものだと、いっそ親しげな態度で。


「やぁ、ネメシス。

 こうして顔を会わせるのは随分と久しぶりかな?

 僕ら《魔星》は単独行動多めだしね」

「呑気に挨拶などしている場合かよ、ドロシア。

 《盟約》の存亡に関わる一大事ぞ。

 せめて気を引き締めるぐらいの態度は見せたらどうだ?」


 苛立たしげな声で、そう苦言を口にしながら。

 蝙蝠の群れが一点に集まり、やがて人の形へと凝縮されていく。

 真っ黒い粘土を、見えない手がこね回すかのような。

 最初は曖昧だった輪郭も、すぐに確かな姿へと変化した。

 赤い装束ドレスに黒い外套ローブ

 青褪めた肌に、宵闇を切り取ったような長い黒髪。

 唇と瞳に宿す色は、真っ赤な血に等しい。

 夜の如き女は、音もなく瓦礫の上に着地した。

 そして、口元に発達した犬歯を覗かせながら言葉を続ける。


「第一、貴様がきちんと招集に応じていればこんな手間を掛けずに済んだのだ。

 《念話》に応えておいて、居場所がなかなか掴めぬなど前代未聞よ。

 そのせいで、このような辺鄙な場所で合流する羽目に……」

「分かった、悪かったよ。

 ちょっと星を見てたのと、一応都市からの救難信号を受け取ってたからね。

 結果的に無駄に終わったけど、これでもあちこち走り回ってたんだよ」


 怒り心頭な同胞ネメシスに、ドロシアは苦笑いで応えた。

 同胞――《魔星》の一人であり、古き者の一角であるネメシス。

 彼女は吸血鬼ヴァンパイアだ。

 かつて《始祖》が創造した亜人種の中でも、とりわけ強力な種族の総称だ。

 血液を介した生命力の補給や、日光に対する深刻な脆弱性。

 それらの重大な欠陥を考慮しても、生物としての強度は大陸でも上位に位置する。

 特にネメシスは、《始祖》が直接生み出した最古の吸血鬼。

 《真血トゥルーブラッド》を有する《真祖エルダー》の一柱だった。

 単純な力の総量だけでも、並みの真竜ぐらいなら上回っているはずだ。

 そんな恐るべき上位種族を前にしても、ドロシアの態度は些かも崩れない。

 彼女にとって、それがどんな相手であっても恐れる理由はなかった。

 ただ、その相手と戦って楽しめるのか否か。

 生死すらも度外視に、剣と戦の享楽に耽溺する死神。

 ネメシスもまた、そんな同胞の物騒な在り方については正確に把握していた。

 ――このまま非難を続けたとして。

 その言葉の何かをきっかけに、こちらに刃を向けてくるか。

 普通に考えればあり得ない話だが、残念なことにドロシアは普通ではない。

 故にネメシスは、その辺りでお説教を切り上げる事にした。


「分かった、分かった。

 そういう理由があるのなら、私の方からもうとやかくは言うまい。

 まぁ、その言い訳が他の者らに通じるかまでは知らんがな」

「ハハハハ、まぁ《主星》様も含めてみんな優しいから、そのぐらいは――」

「――時と場合を弁えろと。

 私はお前にそう躾けたと思ったがな、ドロシア」


 びくり、と。

 のらりくらりと躱すために吐いたドロシアの戯言。

 それを綺麗に両断したのは、老いて深みを増した男の声だった。

 カシャリ、カシャリ。

 鎧を擦れ合う音は、聞かせるためにわざと響かせている。

 その気になれば、一切の音を消して隠密行動が可能な事をドロシアは知っていた。

 そう、知っている相手だ。

 恐らくウラノス以外で、ほぼ唯一に近いドロシアの頭が上がらない相手だ。

 おっかなびっくりな様子で、ゆっくりと振り向く。

 まるで叱られた猫のようだと、ネメシスは呆れ気味に笑う。


「や、やぁゴーヴァン。貴方と会うのも久しぶりかな?」

「そうだな。

 久しく会う義理の娘に、説教などしたくはなかったがな」


 ドロシアの視線の先に立つのは、一人の白銀の騎士。

 全身を隙間なく銀の甲冑で包んだ、非常に長身な男だった。

 顔は見えないが、声からして相当な老齢だろう。

 しかし立ち姿に衰えの類は一切ない。

 どころか、立ち上る剣気は常人の魂は触れただけで砕いてしまうだろう。

 《魔星》筆頭たる大騎士ゴーヴァン。

 ドロシアの剣の師であり、彼女の育ての父でもある人物だった。

 腰に佩いた大剣に手を添えたまま、ゴーヴァンはドロシアの傍に近付く。

 半ば戦闘態勢に入っている義理の父に、娘はほんの少しだけ後ずさった。


「ゴーヴァン?

 これから大事な仕事だと、僕は認識してるんだけど?」

「あぁ、まったくその通りだ。

 故にこそ、お前が気を緩めていないかどうかが気掛かりだ。

 確かに、お前は私を超える才気に溢れた剣士。

 しかしそのムラっ気ばかりは、如何ともし難い悪癖だ」


 要するに、躾けも兼ねて腕が鈍ってないかを見てやると。

 ゴーヴァンの意図はそんなところだった。

 師であり戦友でもある男と、剣を交えること自体はドロシアも望むところだった。

 しかしそれが、「娘を叱る父」という構図となれば話は別だ。

 この場には、同胞である他の《魔星》らの目がある。

 時に死神と称される女剣士にも、人並みの羞恥心というものは存在するのだ。


「構えるが良い、ドロシア。

 なに、時間は取らせん。

 主が来られるまでに十分済ませられよう」

「ゴーヴァンはああ言っているぞ、ドロシア。

 さぁ、観念して尻でも叩かれて来ると良いわ」

「イヤイヤイヤ、流石に僕はそんな歳じゃないんで勘弁して欲しいなぁ!」


 愛用の大剣を抜き放つゴーヴァンに、外から野次を飛ばすネメシス。

 流石に逃げるワケにも行かず、ドロシアも剣の柄に指を絡める。

 ……一度始まったら、楽しくて止められないかもしれない。

 そんな喜悦を伴う危機感は、最後の理性から発せられる警告だった。


「ゴーヴァン、僕も貴方と殺し合うのは最高に楽しい事だと思うけど。

 流石に、後にしないかい?」

「繰り返させるなよ、ドロシア。

 主が来る前に終わらせれば良いだけの事だ」

「如何に死神といえど、育ての父に折檻されるのは抵抗があると見えるなぁ」

「君は楽しそうで良いなぁネメシス!」


 馬鹿な会話とは裏腹に、周囲の空間は強烈な殺気に呑み込まれつつあった。

 同じ《魔星》であるゴーヴァンとドロシア。

 どちらも剣士だが、戦い方はそれぞれ大きく異なる。

 その上で師は弟子の、弟子は師の剣を良く理解していた。

 未だに純粋な技量と経験では、筆頭たるゴーヴァンが優るだろう。

 が、剣の才ではドロシアの方が上回っている。

 本気で刃を交えれば、結果がどうなるかは当人たちにも分からない。

 そんな死闘が、今まさに始まろうとして。


「――そこまでです、ゴーヴァン。

 親子の団欒に水を差すのは不本意ですが、どうかお許しを」


 火を吹きかけた状況に、文字通り冷水を浴びせる形で。

 穏やかで美しい女の声が、《魔星》たちの頭上から響いてきた。

 ふわりと。

 重力を感じさせぬ動きで降り立ったのは、一人の若い女だった。

 ネメシスとは逆の、白の装束ドレスと蒼い外套ローブ

 色素が薄めの金髪は、地面に届きそうなほどに長い。

 顔立ちは整っているが、顔の上半分は黒い包帯でキツく封がなされていた。


「クロトーか。お前がいるという事は……」

「ええ。

 我らが《主星》、偉大なるウラノスも既にお越しです。

 故に双方、剣を納められよ」


 白装束の女――クロトーが、歌うように告げる。

 それに合わせる形で、その男もまた瓦礫の上に降り立った。

 赤い甲冑を身に帯びた偉丈夫。

 体格以上に、その身体から発される存在感が巨大な男。

 ドロシア、ネメシス、ゴーヴァン、そしてクロトー。

 一騎当千の《魔星》たち。

 その四人が等しくその場に跪き、男に向けて頭を垂れた。


「我ら《魔星》、主命に従い此処に集いまして御座います」

「あぁ。ご苦労だった、ゴーヴァン。

 他の皆も楽にしてくれ」


 主――大真竜ウラノスがそう命じると、四人は顔を上げる。

 全員が揃う事など、千年ぶりかもしれない。

 大真竜の同胞ら以外で、ウラノスが絶対の信頼を抱く一騎当千の猛者たち。

 その顔ぶれを見渡し、拳を強く握り締めた。

 ――勝てる、我々ならば必ず勝てる。

 例え相手が伝説に語られる《最強最古》であろうとも。


「既に伝えた通り、かつての《古き王》の頂点。

 古竜の長子たる《最強最古》がこの大陸に帰還を果たした。

 奴は《大竜盟約》に矛を向け、今やこの大地全てを滅ぼそうと力を振るっている。

 そのような蛮行、大陸の秩序を預かる我らが見過ごすワケにはいかない」

「要するに、竜退治だろう?

 久しぶりだから、ちょっと楽しみになってくるね」

「口を慎め、愚か者め」


 マイペースに笑うドロシアを、ネメシスが生真面目に嗜める。

 これから最も古い悪に挑むというのに、そのブレない精神性は素晴らしかった。


「《主星》よ、どうかお許しを」

「ゴーヴァン。

 お前が謝る必要はないし、私もドロシアの態度については特に気にしていない」

「まぁ、アレを気にしてたら胃が持ちませんよね。

 大真竜の方に、胃痛があるかどうかは私も存じ上げませんけど」


 より深く頭を垂れるゴーヴァンに、クスクスと悪戯っぽく笑うクロトー。

 仲間たちは、どうやら緊張の類とは無縁であるらしい。

 ――挑む敵の重さに怯んでいるのは、或いは己だけかもしれない。

 そう考えると、ウラノスもまた自然と笑っていた。


「――我らが挑むは、この地における最も古き悪だ。

 礎たる大真竜も、その半分が既に敗北した。

 だが、我らはこれに勝利せねばならない。

 我らの敗北は、そのまま大陸そのものの破滅に繋がりかねん」


 握る拳の力は、より一層強くなる。

 そうだ、この身には勝利以外は許されない。

 勝たねば、より多くの死と滅びがこの大陸を覆い尽くす事になる。

 ――それだけは認められない。

 千年前から、この時代まで積み上げ続けてきた数多の犠牲。

 それが無駄に終わる結末など、鋼の英雄は許容しない。


「勝つぞ。敵の位置は既にクロトーが捉えた。

 後は勝利を掴み取りに行くだけだ」

「我が剣の全ては、《主星》たるウラノスのために」

「敵が最強を謳うのであれば、それを地に落としてこその《魔星》よ」

「まぁまぁ、僕は楽しく殺り合えるならそれで満足なので」

「我らは天の星を支える者。

 無双の鋼よ、どうか存分にその武勇をお振るい下さいませ」


 四人の《魔星》たち。

 応じる彼らの言葉に、ウラノスは一つ頷く。

 誇りと使命感が胸を満たす。

 嘲笑う過去の影など、その前では何の意味もない。

 故に鋼の男は足元など一瞥する事もなく、ただ前だけを見ていた。


「――私は行く。我らは勝つ。必ずだ」


 距離はまだ遠いが、ウラノスの眼もクロトーと同様に捉えていた。

 《最強最古》と呼ばれる、最も古く邪悪な竜の姿を。

 決意を強い言葉で表しながら、大真竜は偽りの空を飛翔する。

 その後に《魔星》たちも続いた。

 ……大いなる戦いの始まりは、もう間もなく。

 避けられぬ運命の時が訪れるのも、もう間もなくだった。

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