410話:負け犬の目


 空に向けて浮上していく大地。

 森の一部を大きく切り取って、高く高く。

 それを横目で見ながら、一人の男は木々の隙間を駆け抜ける。


「まったく、派手にやってくれるな」


 この森林は、古くから森人エルフたちの領域だ。

 必要経費と分かっていても、文句の一つぐらいは言いたくなる。

 そう呟きながら、ウィリアムは視界の端に《灰色》の男も捉えていた。


「お前は俺を知らんだろうが、俺はお前を知ってるぞ!

 森の英雄!!」


 光が奔る。

 木の枝や幹を掻い潜り、飛んでくるのは無数の矢だ。

 魔力で形成された力場の矢。

 小技であるが、標的を自動で追尾する性能は厄介だった。

 しかも、それが数を揃えて狙ってくるとなれば。


「大人しく、森の同胞たちの面倒でも見ていれば良かったろうにな!

 こんな場所までどうしてしゃしゃり出てきた!?」

「…………」


 飛来する矢の雨を、ウィリアムは冷静に見極める。

 森を盾にすれば、何割かは命中する前に砕けるだろう。

 だが矢の追尾性能は高く、のたうつ蛇にも似た軌道を描いている。

 ――逃げ回るだけでは、いずれ追いつかれるな。

 そう判断した瞬間、森人は素早く弓を構えた。

 何本かの矢を同時に掴み、番える。

 一連の動作に僅かな淀みもなく、美しく洗練されていた。

 構えて、放つまでの時間は本当に一瞬。

 向かってくる力場の矢を、森人の矢が空中で撃ち落としていく。

 二度、三度と同じ事を繰り返す。

 大半の《魔力の矢》を撃ち落としたところで。


「――お前こそ、今更何をしに出てきた?

 古き《始祖》の一人、《黒》と呼ばれた魔法使いよ」

「ッ……!」

「その反応、まさかとは思ったが当たりだったか」


 正体を言い当てられた。

 その事に、魔法使いは思わず動揺を見せてしまう。

 ウィリアムはその反応を見逃さず、どこか白々しい言葉を口にした。

 《灰色》は忌々しげに舌打ちをこぼす。


「ハッタリかよ、この糞エルフめ……!」

「今の俺は大真竜付きの《爪》だ。

 ご主人様から、千年前に起こった事実もそれなりには聞いている。

 その情報を鑑みた上での推測だ。

 いや、本当にそうだとは流石に俺も思わなかったがな」


 笑う。

 ウィリアムは常に、余裕のある笑みしか見せない。

 ――最後に勝つのは俺だ。

 根拠らしい根拠も無く、常に己の勝利を確信している。

 そんな彼の在り方そのものを表すかのような表情。

 見ているだけで、《灰色》の魔法使いは苛立ちを抑えきれなくなった。


「で、俺の正体が分かったからどうだって言うんだ!」

「いいや、別に。

 ただお前が俺を知っているのに、俺がお前を知らないのは気分が悪い。

 これで条件は対等というわけだな」

「この状況でまだ戯言か……!」


 言葉を交わしながらも攻防は続く。

 上空を抑え、距離を保ちながら《灰色》は細かい魔法を撃ち続ける。

 ウィリアムはそれを矢で迎撃し、時には敵に対しても鋭い射撃を放っていた。

 狙いは常に正確無比。

 森人の矢は、弓から離れれば必ず《灰色》の急所に飛ぶ。

 が、その鏃は的に届く前に必ず弾かれてしまう。

 まるで、見えない壁に激突したように。


「矢避けの加護か」

「いいや、もっと高度な奴だよ」


 呟くウィリアムに、魔法使いは誤りを訂正する。

 用途としては矢避けのために展開しているが、実際はより高位な魔法式だ。

 外部からの物理的干渉、その一切を遮断する力場の防壁。

 《灰色》はそれを恒常的に展開した上で、自らの身体全体を包み込んでいた。

 矢では通らないし、当然「飛ぶ斬撃」程度で抜ける代物でもない。

 古い魔法使いは、眼前の森人が如何なる攻撃を行うのかを把握していた。


「お前の手札で警戒すべきは、最初の“森の王”の魂が宿る月の鱗だけだ。

 アレを使った『奥義』も、放つまでに短い溜めがいる。

 それさえ警戒すれば、お前の攻撃は何も俺に届く事は――」

「随分と、俺の事を警戒しているようだな」


 空の上で勝ち誇る《灰色》。

 それを森の中で見上げながら、ウィリアムは呟く。

 相手に語り聞かせるため、声はわざと大きくした上で。


「しかし、勝ちを確信しなければ笑えんとは。

 随分と負け犬根性が染み付いてしまっているようだな」

「ッ――――!」


 嘲りも侮りもない。

 単純に、相手の感情を逆撫でする事。

 それだけを目的として放たれた、極めて安い挑発だった。

 淡々とした声は、相手を煽る事を目的と考えるなら事務的過ぎるぐらいだ。

 聞く必要など微塵もない。

 そう、微塵もないはずなのだ。


「黙れよっ!

 あの敗北を知らないお前が、知った口を……!!」


 魔法使いは激怒した。

 ウィリアム本人が考えている以上に、《灰色》は彼の事を把握していた。

 ――そもそも、最初は偶然だった。

 《天の庭バビロン》における一連の騒動。

 其処に、ウィリアムがたまたま関わっていたから。

 その上で、大真竜であるブリーデの部下でもあったから。

 今後障害になる可能性が僅かにでもあるなら、一応は把握しておくべきだろうと。

 《灰色》は持てる術式を駆使して、森人について調べ上げた。

 ……故郷である森と同胞たちを護るために、自らの手で父を殺めた事。

 真竜の従僕として自ら地を這い、数百年を超える雌伏の時を過ごした事。

 その過程で妻も手に掛け、実の娘からも一時は本気で憎悪された事。

 多くの事を、魔法使いは知っていた。

 今挙げた事以外にも、困難と呼べるモノはそれこそ星の数。

 挫折しても――いや、挫折しない方がおかしいほどの地獄だ。

 そんな生き方を、千年近く。

 未だにブレずに戦い続けられる精神とは、如何なるものか。

 《灰色》の魔法使いには、理解できなかった。

 諦めは拒絶した。

 敗北を認められず、勝利さえ見失った。

 自らが残骸であるという自覚すら無く、ただ無意味に地を這いずる。

 そんな死者にすらなり切れぬ己と比べて、この森人はどうだ。

 道に迷わず、己を失わず、勝利を疑わず。

 その在り方の全てが、自分を嘲笑っているとしか思えない。

 無論、そんなものは単なる被害妄想に過ぎない。

 だとしても――いやだからこそ、魔法使いは我慢できなかった。

 かつて、森人を創造した《始祖》とは彼自身だ。

 自らの被造物の末裔であるはずの男が、自分を笑っている。

 戦術としての挑発に過ぎぬと、頭では理解していても。

 その現実に、感情の抑えが効かなくなっていた。


「砕け散れ――!!」

「ッ!?」


 叫ぶ声と共に、空間が震えた。

 ぐにゃりと。

 ある一点を中心に、森そのものが歪むのをウィリアムは見た。

 認識した次の瞬間には、凄まじい爆発が引き起こされる。

 炎は伴わず、ただ衝撃と砕けた森の破片が広範囲に撒き散らされた。

 視界内の空間を大きく捻じ曲げて、それを解放する。

 歪んだ世界が元に戻ろうとする力は凄まじく、範囲内の物質全てを粉砕する魔法。

 《空間破砕デストラクション》と呼ばれる最上位クラスの術式。

 威力も、破壊が及ぼす規模も強烈だった。

 邪悪が降らせる星と変わらぬ損害を、眼下の森にもたらしていた。

 ……そう、あまりにも術式の破壊力が大きすぎる。

 森の中を逃げ回るたった一人を狙うには、不必要なぐらいに。


「しまった……!」


 見失った。

 直撃すれば間違いなく死ぬが、雑に放ったせいで確認できていない。

 生きているのか、死んでいるのか。

 《灰色》自身が巻き上げた土煙が、一時的にその視界を覆い尽くす。

 拙い、と。

 焦燥と危機感が同時に神経を走る。

 完全に相手の思惑通りに動かされた形だった。

 魔法使いは即座に、探知の術式を周囲に走らせるが。


「――――!!」


 反応は、すぐ背後にあった。

 振り向く暇もなく、反射の動きに身を任せる。

 身に纏った遮断防御。

 物理的な干渉を跳ね除けるはずの術式が、紙の如く引き裂かれた。

 煌めく刃の太刀筋は、夜を照らす月光の如し。

 《空間破砕》が弾けて、まだほんの僅かな時間しか過ぎていない。

 その短時間で、《灰色》のいる高さまでウィリアムは駆け上がっていた。

 必殺を期した大剣の一撃は、しかし。


「流石と言うべきか、これは」


 当たらない。

 文字通り、それは紙一重の差だった。

 切り裂いたのは防御術式と、《灰色》の薄皮一枚。

 袈裟懸けに刃が走るが、残念ながら浅い。

 夜空の赤い飛沫を散らしながら、魔法使いは怨敵を睨みつけた。


「舐めるなよ、森人!!」

「むっ……!?」


 術式の発動は、声が聞こえるよりも早かった。

 《力ある言葉》が放たれる前に、ウィリアムは対応する自信があった。

 だが、その警戒すら飛び越えて光が爆ぜる。

 ウィリアムを捉えた《灰色》の眼。

 右眼の方が黄金色に輝くと、そこから光の矢が放たれたのだ。

 予め、攻撃術式を固定化した魔眼による奇襲。

 魔力だけ通せば詠唱無しに発動可能なのは、テレサの術式と原理は同じだ。

 撃ち込まれたのは雷の矢――いや、槍。

 強力な攻撃魔法だが、ウィリアムはそれを大剣で受け止める。

 紫電の華を咲かせ、両者の距離が開く。

 ウィリアムの二の太刀は届かず、《灰色》はさらなる攻撃術式を展開した。


「チッ……!!」


 魔法使いの掲げた右手。

 収束する蒼白い光が何なのか、ウィリアムは知っていた。

 《分解》の魔法。

 まともに喰らえば、その術を示す名の通りに塵へと変わる。

 魔法としての規模と精度は、同じ術式を扱うテレサを上回っていた。


「消え失せろ――!!」


 逃げ場のない夜空。

 解き放たれる致死確定の蒼い極光。

 絶体絶命の状況だが、ウィリアムの精神は凪いだままだ。

 僅かな焦りもなく、至近距離から撃ち込まれた魔法に刃を合わせる。

 雷の槍よりも遥かに高位の術式。

 例え砕いた余波でも、浴びれば血肉を塵にされる。

 か細い糸を渡るも同然な死線の上で。


「――奴ができて、俺にできん道理はないな」


 ウィリアムは笑っていた。

 光が弾ける。

 月の光を灯す剣が、《分解》の極光を受け流したのだ。

 《灰色》の表情が驚愕に染まる。


「《分解》を剣で弾くとか、どんな腕だよ……!?」

「これぐらいで驚いてくれるなよ。

 そんな調子では、あの男と出くわしたら潰す肝の数が足らなくなるぞ」


 冗談と皮肉を混ぜた言葉を、《灰色》に理解できただろうか。

 別にどちらでも良いと、ウィリアムは即判断した。

 落下するに任せ、男は再び己のフィールドである森の陰に身を潜める。

 悪運に救われた《灰色》は、大きく息を吐き出した。


「クソっ、面倒な奴……!」

「それはお互い様だな」


 木々に隠れながらも、森人の声は風に乗って良く届く。

 冷静そのものな言葉が、どこまでも魔法使いの神経を逆撫でする。


「俺は無理にお前を仕留める必要はない。

 あの拗らせた暴君の手助けさえされなければな」

「良いのか? そんな事をわざわざ口に出して」

「あぁ、問題ない」


 笑う。

 風が吹くのに合わせて響く声は、位置や方角を掴ませない。

 《灰色》は探知の術式を広げるが、正確な居場所は不明のままだ。

 そんな相手の動きを知ってか知らずか。

 ウィリアムの言葉は、更に挑発を重ねていく。


「そうして俺を見過ごせば、お前は負け犬と呼ばれたままだ。

 少しでも誇りや矜持が残っているなら、とても我慢はできんだろう。

 いや、お前が汚名を呑み込むだけの度量があるなら話は別だがな」

「いちいちムカツク奴だなぁ、ホントに……!」

「そう思うのなら黙らせてみれば良い。

 勝ち方も忘れた犬に、そんな真似ができればの話だが」

「いいから少しは口を閉じろよ糞エルフが!!」


 思わず口を突いて出た罵倒。

 それを《力ある言葉》にして、破壊的な魔法が森に吹き荒れた。

 苛立つ。

 あの糞エルフの思惑通りに動かされている事実が、心底腹立たしい。

 確かに、この男に構わず《最強最古》の加勢に向かうべきではないか、と。

 理性的に考えるのなら、そう判断すべきとは思う。

 が、それと同時に。

 ウィリアムから目を離す事も、極大の危険リスクを負う事になる気もするのだ。

 警戒のし過ぎだと、一概には言えない程度には油断ならない男だ。

 激情とは別に、《灰色》は二つの選択肢を天秤に乗せる。

 戦うか、無視するか。

 結論するまでほんの数秒ほど。


「木の陰から引きずり出して、その目を見ながら確実に殺してやる……!」

「あまり恐ろしい事を言ってくれるなよ。

 《始祖》であるなら、もっと余裕を持って堂々とするべきでは?」

「黙れと言ったろうが!」


 戦い、あの減らず口を黙らせる。

 久しくなかった、怒りに似た衝動。

 それに胸を焦がしながら、《灰色》の魔法使いは叫んだ。

 ウィリアムは利害が一致した事を認識しながら、森の中で弓を構える。

 腐っても相手は《始祖》、態度ほどの余裕があるワケではない。


「まぁ、やれるだけの事はするだけだな」


 まるで、どこかの誰かの言葉のようだと。

 他に耳目がない状況だから、ウィリアムは遠慮せずに笑った。

 そして、ちらりと空の上に視線を走らせる。

 《灰色》ではなく、その向こう。

 かなりの高度にまで達した、浮遊する大地。

 《最古の悪》と、その弟妹ていまいらが相対しているもう一つの戦場。

 状況は当然、詳細には確認できないが。


「さて、そちらは任せたぞ」


 どう甘く見積もっても、勝機は十中八九もありはしない。

 その現実を正しく認めながらも、ウィリアムは特に絶望はしなかった。

 最後に勝つのは自分だと。

 何の根拠もなしに確信しているが故に、その心が崩れる事はない。

 あの負け犬の目をした《始祖》の足止めをしながら、やるべき事をやるのみ。

 そう割り切って、ウィリアムは夜に沈んだ森の中を駆けた。

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