第一章:悪なる者の侵攻

407話:鎧袖一触


『何だ、何が起こっている……!?』


 破壊された都市の残骸。

 燃える炎に身を置きながら、真竜ヴィーゾニルは叫んだ。

 両腕が翼、足も膝から下が猛禽のモノに変化している美しい女の姿。

 常は人間の倍近い巨躯を着飾り、自らの美貌を誇示する事を好む真竜。

 しかし今は、その身体も何も埃と灰で薄汚れてしまっている。

 ヴィーゾニルが支配していたはずの都市も、半ば砕かれた状態だった。

 一体、何が起こっているのか。

 欠片も理解できず、真竜は空を見上げた。

 夜空だ。

 黄金の星々が美しく輝く夜の天蓋。

 だが、ヴィーゾニルは気付いていた。

 今見えている夜空の全てが、偽りに過ぎない事を。

 大陸全土を覆い尽くす異界創造の法。

 そうして見上げている間も、夜空から流れ落ちる星が地上を叩いている。

 ――あり得ない、何だコレは?

 文字通りの天変地異。

 しかもそれが、恐らく何者かの魔導によって引き起こされているのだ。

 《盟約》の礎である大真竜でさえ、こんな真似が可能かどうか。

 戦慄に身を震わせるヴィーゾニルだが。


「また、随分と醜い姿をしているな」

『ッ!?』


 氷の手で、心臓を鷲掴みにされたような。

 そんな錯覚を覚えながら、ヴィーゾニルは振り向く。

 偽りの夜を背負って、一人の少女が虚空に佇んでいた。

 美しい――本当に、息を呑む程に美しい少女だった。

 黄金に輝く髪も、紅玉よりも煌めく瞳も。

 線の細い肢体も、微笑みを浮かべたそのかんばせも。

 何一つ欠けたモノのない、完全な美。

 それだけならば、単に少女の美しさに息を呑む程度だったろう。

 しかし。

 嗚呼、その身に漂う気配のなんと邪悪な事か。

 ドス黒い闇が渦を巻くが如く、少女の存在は余りにも有害だった。

 ただ其処に在るだけで、世界を歪める暗黒の超質量。

 ヴィーゾニルは本能的な恐怖に駆られ、大きく両腕の翼を広げた。


『貴様、何者――!!』

「《最強最古》。

 ……と言っても、今の者には余り通じないのか?」


 笑う。

 侮蔑をたっぷりと含んだ笑みだが、それでも美しさが際立つ。

 一秒ごとに生存を脅かされているヴィーゾニル。

 真竜が抱いたのは、自身が滅ぼされることへの恐怖ではなく。

 目の前に現れた少女そのものに対する恐怖だった。

 恐ろしい、恐ろしい、本当に恐ろしい。

 こんな怪物がこの世に在る事。

 それが自分に笑いかけている事。

 その全てがあまりに悍ましい――!


『死ねェ!!』


 両翼を羽撃かせて、ヴィーゾニルは叫んだ。

 風が巻き起こる。

 真竜の魔力を帯びた突風。

 それは単純に強いだけの風ではなかった。

 肉眼では確認できないぐらいに微細な金属の粒子。

 その粒子を細かく振動させた上で、強風に乗せて浴びせる。

 敵はまるで風化したかの如く、その血肉を削り取られる事になる。

 本来であれば。


「なんだ、それは?」


 少女は避けようとすらしなかった。

 死の風を正面から受け、平然とその場に佇んだまま。

 髪が後ろに流れるのだけは、少し鬱陶しそうな顔をした。


「つまらんな。

 卑しくも竜を名乗りながら、使うのがこんな大道芸とは」

『っ……馬鹿な……!』


 人間――どころか。

 それこそ戦車さえもひっくり返すほどの強風だ。

 微細振動する粒子を帯びた風は、例え真竜の鱗であっても抉られる。

 回避はおろか、防御すらせずまともに食らうなんて――。


「風ならば、せめて《嵐の王》の足元程度には及んで貰わねばな」


 その一言と共に、少女はヴィーゾニルを指差す。

 声には強い魔力が帯びていた。

 そう認識した瞬間には、真竜の巨体が吹き飛ばされていた。

 突風、いや風の「砲撃」と言った方が良いかもしれない。

 少女が放った圧縮した空気の塊。

 超高速で叩き込まれたその砲撃に、ヴィーゾニルは反応すらできなかった。


『がッ……!?』


 砕けた都市の上から、荒れ果てた地上へ。

 強かに叩きつけられて、ヴィーゾニルは自然と空を見ていた。

 満天の星が輝く、偽りの夜空。

 そこに輝く光の一粒が、いきなりその大きさを増した。

 星が、墜ちてくる。


「《流星ミーティア》」


 少女が歌うように言葉を唱える。

 落下してきた星の雫は、容赦なく真竜の身体を打った。

 断末魔じみた悲鳴をかき消して、大地が砕かれた轟音が響き渡る。

 瓦礫の上に降り立って、少女はその様子を見ていた。

 見下ろす眼は何処までも冷たい。


「どうした? 真竜とはこの時代の覇者なのだろう?

 私が不在の間に玉座を占有し、『真なる竜』などと嘯いた。

 であれば、古き王に過ぎない私にこのままやられっぱなしで良いのか?」

『――――ガアァアアアアア!!』


 咆哮。

 わざとらしい挑発に、正面から怒りを叫ぶ。

 《流星》の直撃を受けて、地面に半ば埋もれていたヴィーゾニル。

 それが今、巨大な竜の姿へと変化していた。

 簡単に言ってしまえば、その見た目は羽毛を持つ飛竜ワイバーンだ。

 体格は通常の飛竜の三倍近い。

 見上げるほどの巨体には、凄まじい魔力が漲っている。


「それがお前の《竜体》か」

『殺す――貴様は、絶対に此処で滅ぼしてくれる……!!』


 僅かに感心した様子で、ヴィーゾニルの《竜体》を見上げる少女。

 それに対し、真竜は激情を吐き出す。

 巨体に似合わぬ俊敏さで、先ずは翼を一打ち。

 先ほどのような、振動粒子を混ぜた小技とは違う。

 固めた大気の鉄槌ハンマーを、少女の頭上から叩きつける。

 その威力は、少女が放った風の砲撃を上回る。


「っ――!?」

『ハハハハハ!! 潰れろ、潰れろ、潰れろ!!』


 初めて、少女が揺らいだ。

 膝を追って、表情が微かにだが驚きに歪む。

 ヴィーゾニルは攻撃の手を緩めない。

 翼を何度も羽撃かせて、風の大槌で叩き続ける。

 叩く、叩く、叩く。

 真竜の方も必死だった。

 手を緩めれば、その瞬間に終わる。

 根拠のない死の予感が、未だに心臓を捉えたままだ。


『潰れろ、このまま……!!』


 叫び、大きく息を吸い込む。

 胸腔を倍以上に膨らませ、内なる魔力を急速に高める。

 そして、開かれた顎から放たれるのは――。


『跡形もなく、消え失せろ――!!』


 《竜王の吐息ドラゴンブレス》。

 魔力によって、その全てが刃と化した風の《吐息》。

 横殴りに吹く竜巻も同然に、風は全てを抉り裂く。

 耐えられない、耐えられる道理がない。

 何もかもを破壊し蹂躙する、恐るべき竜の力。

 真竜ヴィーゾニルは、間違いなく自らの勝利を確信していた。


「――どうやら、これが限界らしいな」


 失望に染まった、愛らしい少女の声が聞こえる瞬間までは。

 風が砕け散る。

 比喩ではなく、まるで脆いガラス細工を地面に叩きつけたように。

 音を立てて、ヴィーゾニルの放った《吐息》が欠片も残さず吹き散らされた。

 ただ、少女が右手を振るった。

 それだけの動作で、渾身の《吐息》が打ち消されたのだ。

 風を浴びていたはずの少女は、まったくの無傷。

 纏った衣装ドレスに皺さえない。

 圧倒的という言葉では、まるで足りないほどの力の格差。

 この時、ヴィーゾニルは初めて理解した。

 絶望という言葉の意味を。


『ヒッ……!?』

「逃がすと思うか?」


 反射的に空高くへと逃れようとしたヴィーゾニル。

 対して少女は、右手を軽く掲げた。

 手のひらを真竜へと向けて、五指を拳の形で握り締める。

 それだけで、巨大な竜が容易く動けなくなった。

 極めて単純な金縛りホールドの術式。

 並の術者が相手なら、真竜の力で容易く振り解けただろう。

 しかし。


『何故……動け、ない……!?』

「……この程度の術式すら破れないのか」


 失望――そもそも、最初から期待などしていないだろうが。

 どうあれ、一方的に過ぎる落胆。

 最早興味も失せたとばかり、少女は冷たい目でヴィーゾニルを見た。

 未だに足掻いているが、竜の巨体はピクリとも動かない。

 さながら、見えざる巨大な手で鷲掴みにされてしまったように。

 動かない、動けない。

 どうしようもない絶望が、ヴィーゾニルを捕らえて離さない。


『待て、待ってくれ……!

 何故こんな……っ』

「戯言を聞く気はない。

 もう少し使えるようなら考えたが、これではお話にならない」


 少しでも、生き残る目はないか。

 必死に頭を回そうとする真竜に、少女――《最強最古》は告げる。

 一切の慈悲無き死刑宣告を。



 淡々と。

 あまりにも簡潔過ぎるその言葉を、ヴィーゾニルは逆に理解できなかった。

 しかし、現実は呆けている余裕を与えてはくれない。

 少女の指先に青白い光が灯る。

 小さな輝きだった。

 が、実際は見た目ほど可愛らしいものではない。

 圧縮された強大な魔力の塊。

 モノとしては、先ほど自身も放った《竜王の吐息》と同じだ。

 だが、力の密度は桁違いだ。

 術式で拘束された状態ではどうしようもない。


『待っ――』


 命乞いの声は、そのまま断末魔となった。

 極光が、偽りの夜を貫く。

 空を塞ぐほどの翼を持っていたヴィーゾニルの《竜体》。

 それが一瞬で、塵も残さず消し飛んでいた。

 残されたのは一つの光。

 肉体という器が蒸発した、真竜ヴィーゾニルの魂だった。

 放っておけば《摂理》に還るソレを、少女の手が捕まえる。

 無防備な魂を、おもむろに口元に運んだ。

 薄く色付いた唇を控えめに開いて。


「……んっ」


 食べた。

 躊躇いなく、あっさりと呑み下す。

 「餌だ」と、そう口にした通り。

 都市の支配者である真竜は、少女の腹の中に収まってしまった。

 ほっと、細い吐息を漏らして。


「……不味いな」


 酷く理不尽な文句を口にした。

 ――喰った真竜の数は、これで何匹目だったか。

 興味がないため、少女はすっかり忘れてしまっていた。

 二桁には届いているだろうか。


「不味い、本当に不味いな。

 腹の足しにはなるが、まったく味が薄い。

 最後の最後まで役に立たんな」


 名前すら聞いていない相手に、少女は吐き捨てる。

 力が強まる感覚はあるので、まったく無駄な行いではない。

 しかし、喰えば喰うほど「空腹」が酷くなるのが悩ましい問題だった。

 思い出すのは、少し前に口にした血肉だ。

 レックスと、確かそう名乗っていた。


「…………レックス」


 少女――時計の針が戻った《最古の悪》は、我知らず呟く。

 知らないはずの、覚えがないはずの名前。

 取るに足らない人間の名前。

 意識する必要など皆無だと、頭では分かっているのに。


「っ……」


 胸の奥が痛む。

 満たされない何かが、泣き叫ぶように空腹を訴える。

 食べたい。

 呑み干してしまいたい。

 あの血肉を、魂を含めた存在の全てを。

 そうすればこの飢えも渇きも、きっと余さず満たされるのに。

 ……いやダメだ、それはダメだ。

 理由は分からない。

 根拠は見当たらない。

 なのに、それをするのは認識している自分がいる。

 何が危険なのか。

 竜の頂点、《最強最古》が一体何を恐れる必要があるのか。

 分からない――分からない事が堪らなく不快で、どうしようもなく混乱する。

 私は、何故。

 追う事をせず、逃げるようにあの地を去ったのか――。


「――流石だな、《最強最古》」

「…………」


 泥沼に等しい思考から、急に引き戻される。

 それを成し遂げた声の主に、恐らくそんな気はなかったろう。

 少女の形をした悪が振り向けば、そこには《灰色》の魔法使いが立っていた。


「居たのか。何の用だ?」

「酷い言い草だな。いや何の文句もないがね」


 興味がない。

 態度でそう語るように、少女は視線を外す。

 《灰色》は苦笑いを浮かべ――内心では、驚異と戦慄に震えて。


「既に十以上の都市を落とし、同じ数の真竜を屠っている。

 《盟約》はもうガタガタだ。

 その手際を称賛するぐらいは――」


 一言。

 たった一言で、世界の全てが沈黙した。

 大気も、大地も、僅かに息づく草木さえも。

 言葉を向けられた《灰色》も、喉が締め上げられる錯覚に陥る。

 ただの声に込められた圧力。

 それだけで万物が少女の前に跪く。

 辛うじて膝を着かなかっただけ、《灰色》は良く堪えた方だ。


「お前は喰えたものではないからな」

「……なんだって?」

「お前は好きにすれば良い。

 私も私のやりたいようにやる。

 邪魔さえしなければ、暫くは見逃してやろう」


 傲岸に笑う《最強最古》。

 《灰色》の魔法使いは、ただ口を閉ざす他ない。

 少女の形をした邪悪、その眼は既に次の獲物を捉えていた。

 それを潰したなら、また次の獲物を。

 繰り返し、繰り返し。

 雑魚を平らげてしまえば、いずれ大物も釣れるはずだ。

 或いは――。


「……いや」


 頭の片隅に浮かんだ、甲冑姿の男。

 その影を、《最古の悪》は即座に振り払った。

 ――不愉快だ。

 知らない感情が自己を支配しようとして、酷く不快だから。

 今は存在しないはずの記憶。

 不明な残滓を、少女は振り払う。

 偽りの夜空の下。

 次なる場所を目指して、最古の竜は飛翔する。

 胸の奥底を焼く焦燥。

 その意味など、今は知らぬままに。


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