第十五部:大陸は竜に滅ぼされる
406話:ひび割れる盟約
《盟約》がその異変を感じ取った時。
もうその時点で、何もかもが手遅れだった。
《
大地に深く刻まれた亀裂の奥底。
そこに築かれた巨大な神殿。
神を祀る場ではなく、偽の神を永遠に封じるための楔。
その神殿の中枢たる円卓に、残る大真竜たちは集っていた。
とはいえ、その数は既に半分以下となってしまっていたが。
「何だ、今の揺れは……!?」
真紅の甲冑を小さく鳴らして、一人の男が叫ぶ。
《盟約》の序列三位、大真竜ウラノス。
神殿全体を包む激しい振動。
常ではあり得ないその異変に、かつて鋼と呼ばれた男も動揺を見せる。
『……《
掠れた声。
忌々しげに呟くのは、白い
《盟約》の序列二位、大真竜オーティヌス。
十三人の《始祖》らの頂点でもあった、大陸最高位の大魔導師。
彼は久しく感じていなかった邪な気配が、大陸を覆いつつある事に戦慄していた。
いや、「覆いつつある」ではない。
もう既に、この大陸は「偽りの夜空」に呑み込まれているのだから。
「翁よ、《竜星の中庭》とは?」
『《最強最古》の切り札だ。
私自身も、この目にしたのは一度きり。
異界創造の御業により、世界を等しく夜で閉ざす。
そこに浮かぶ星々を、奴は一つ残らず自在に操れる。
今の衝撃は、あの邪悪が大陸全土に星を落としたのが原因だ』
「そんな力が……」
大真竜たるウラノスでさえ、畏怖を感じずにはいられない。
《
攻撃用の魔法としては最上位。
その名が示す通り、天に浮かぶ星の一部を大地に落とす術だ。
その威力と破壊の規模は、他の術式とは比較にならない。
故に、《流星》は対都市破壊を目的とする儀式魔法に分類される。
……そう、《流星》さえも対都市レベルだ。
大陸全土を標的に星を降らせるなど、そんな事が可能なのか?
『魔導を極めたごく一部の者は、自らに都合の良い「法」を世界に強いる。
奴の《竜星の中庭》もその域にある秘儀。
……《竜体》にもなれぬほど弱っているならば、使えぬはずだと。
そう高を括ったのが仇となったか』
己の油断を、老賢人は深く恥じ入る。
そうしている間も、大真竜オーティヌスは目には見えぬ「手」を伸ばした。
星の雨が降り注いだ事による被害。
先ずはそれを確認し……。
「……先手を打たれましたね、オーティヌス」
美しい少女の声だった。
同時に、この大地に等しい重みを宿す王の声でもあった。
円卓にただ一つ置かれた玉座。
それに腰を下ろした、黒い甲冑姿の少女。
《大竜盟約》の頂点。
他の大真竜とは根本的に次元が異なる存在。
大いなる大地の怒りと契約し、その精髄を身の内に宿した大英雄。
《黒銀の王》は、いっそ穏やかな声で呟いた。
「今の《流星》で、都市の多くが破壊されました。
合わせて、真竜たちと《盟約》の繋がりが断たれつつあります。
敵ながら――いえ、敵だからこそ見事な手際と称賛するべきでしょうね」
『王よ、そんな悠長な事を言っている場合ではない』
やや危機感の薄い物言いに、オーティヌスは流石に苦言を呈する。
進行している事態は、《黒銀の王》が口にした通り。
《大竜盟約》は真竜たちの組織。
であると同時に、大陸そのものを土台とした大規模な儀式魔法でもあった。
千年前に、愚かな魔法使いが復活させてしまった悪神。
復元中の《造物主》の残骸を地の底に沈め、這い出せぬよう封じる。
大真竜たちがいる神殿は楔だ。
《盟約》に名を連ねる全ての真竜たちの力。
それらを質量に変換し、邪悪なるものを圧し潰して黙らせる。
この千年、封印の機能にまったく問題はなかった。
しかし、今はその封印を支える真竜たちとの接続が途切れつつあるのだ。
「翁よ」
『……封印の補強と修復は、可能な限り速やかに行う。
万が一でも、アレが再び地表に現れる事などあってはならん事だ』
オーティヌスは強く奥歯を噛む。
《流星》の絨毯爆撃が、《盟約》の封印を破壊した事実。
これは本当に偶然か?
強い疑念が髑髏の胸中で湧き上がる。
相手はあの《最強最古》。
こちらでは想像もつかぬ手腕で、大陸に敷かれた術式を看破した。
当然、その可能性も十分に考えられる。
オーティヌスにとって、あの悪竜の王は知らぬ相手ではない。
その上で、器の全てを見切ったと自惚れてもいなかった。
あの《最強最古》ならばあり得る――しかし。
誰か、入れ知恵を行った者がいるのではないか?
もしそうなら、この手際の良さも納得できる。
だが、そんな事が可能なのは……。
「焦る必要はない」
思考の泥に沈みかけた老賢人。
その意識を、王の声が引き戻す。
「封印の大半が破壊されたとしても。
私がいる限り、あの悪神はこの神殿の底からは出られない。
故に、当面は何の問題もない」
『……確かに、貴女の言う通りだ』
玉座にある《黒銀の王》。
《盟約》の頂点にして、これを成立させる礎そのもの。
例え全ての真竜が滅びて、《盟約》に残るのが彼女一人になったとしても。
《造物主》の封印は決して解ける事はない。
王ひとりが有する存在の質量。
それだけでも封印の維持は十分可能だからだ。
だから王が口にしている通り、今はまだそう焦る必要はない。
しかし、問題がないワケではなかった。
『これで、貴女は玉座から動けなくなってしまった。
《盟約》がその機能を失っても、貴女ひとりいれば封印は維持される。
これは最終安全装置で、本来そうなる事は好ましくない。
貴女ひとりだけで、《盟約》全ての質量を支えるに等しいのだから』
「私はそのために王となり、この玉座にいる。
何も問題はありませんよ、オーティヌス」
常に、大地の如き重々しさで響く王の声。
しかしこの一時は、かつての少女と変わらぬ響きだった。
誰よりも勇敢で、誰にも対しても優しく。
人よりも少し才能に恵まれ、人よりも少し心が強いだけだった少女。
――蘇った悪神を、滅ぼす手段はない。
封印以外に手がないと、そう判明した時も。
自らを礎に変える事に些かの躊躇いもなく同意した、あの頃の少女。
抱えた大いなる怒りと、晒され続けた千年の時間。
変わり果てながらも、本質は変わらぬ彼女の在り方に賢者は唸る。
許されるなら、己の無力を嘆いて叫び散らしたい気分だった。
が、そんな軟弱は許されるはずもない。
『私はこの場で、術式の修復と王の補助を行う。
気休めやもしれんが、やらぬよりはずっと良い。
故に、ウラノス』
「あぁ、言われずとも承知している」
大地の質量には敵わずとも。
そう応える男の声も、決して軽いものではない。
むしろその重さは、個人として出せる域を遥かに超えているだろう。
大真竜ウラノス。
その眼には、太陽にも匹敵する熱量を宿して。
金剛石を圧倒的に上回る強度の拳を、強く強く握り締めた。
パチリと、その拳の表面に青白い光が散る。
魔力ではない。
余りに強過ぎる握力が、ただ拳を握っただけで大気を圧縮した結果だ。
大真竜としての序列は三位。
しかし戦士としての実力は、間違いなく《盟約》最強の男。
古い戦友の事を、オーティヌスは自分自身よりも信頼していた。
「動けぬ王と翁に代わり、私が打って出る。
既に《魔星》の面々にも《念話》を飛ばしてある」
《魔星》とは、ウラノスに仕える《爪》の事だ。
真竜の片腕とも呼ぶべき最高戦力。
特に最強の戦士たるウラノスが有する《爪》は、他とは一線を画する。
故に区別するため、《爪》ではなく《魔星》という特別な称号を冠していた。
天空に輝く《
疑いようもなく、《大竜盟約》における最強の戦闘集団。
オーティヌスの信頼は揺るぎない。
その上で、一抹の不安もまた拭えないでいた。
彼らが負ける姿など想像もつかない。
千年前の決戦すら乗り越えた、この世で無二の猛者たちだ。
それでも、相手は彼の《最強最古》。
向こうもまた、大陸史に並ぶもの無き大悪竜。
かつてのオーティヌスも、一度もその真の力は目の当たりにしていない。
どこまでも底知れぬ深淵の闇。
恐るべき悪の存在を、古き賢人は軽視できなかった。
『……不甲斐ない我が身を許してくれ、友よ。
全てを、その鋼の双腕に委ねる。
如何なる犠牲や代償を払う事になろうと構わぬ。
必ずや、あの《最古の悪》を討ち滅ぼしてくれ』
「心得ている。
翁も王も、こちらは任せた」
「ええ、貴方は憂いなく戦って欲しい。
武運を祈ります、英雄よ」
「――今の私には、過ぎた言葉だ」
《黒銀の王》、それにオーティヌス。
二人の同胞に一礼をしてから、ウラノスは踵を返した。
足早に《盟約》の円卓から離れ、意識は己の内に向ける。
《魔星》との合流は問題ない。
《最強最古》の正確な位置がまだ掴めていないが、そう時間はかかるまい。
問題は何もなかった。
我ら《大竜盟約》最強の矛で、目覚めた悪を討滅する。
油断や慢心は微塵もない。
敵の強大さを認めながら、しかし勝利の自信にもまた揺るぎなかった。
憂うことなど何一つありはしない。
……多少気がかりなのは、今はこの場にいない同胞たちの事か。
ブリーデと、未だ力を失ったままのゲマトリア。
最近は、ブリーデの《爪》らしい森人の男と共に行動しているようだが。
細かいところはウラノスも把握していない。
彼らに関しては、不安こそあれそう心配はしていなかった。
心配しているのは――。
「……イシュタル」
外界へと消えた《最強最古》を追って飛び出した彼女。
その後の安否は不明で、邪悪はこの大陸に帰還を果たした。
嫌な想像は幾らでも膨らんでしまう。
……やはりあの時、力尽くで引き止めるべきだったか。
後悔したところで時間は戻らない。
「……いや、彼女なら大丈夫だろう」
思い直し、ウラノスは拳を握る。
イシュタルは確かに未熟かもしれないが、それでも大真竜の一柱。
容易く敗れる事などあり得ない――そのはずだ。
どうあれ、古き悪は討ち取らねばならない。
神殿を進みながら、静かに呼吸を整える。
聞こえる音は、床を叩く靴音と、後は自分の心臓の鼓動のみ。
それだけのはずなのに。
『――貴方に従おう、無敵の男。
この世の如何なる武具よりも優れた鋼。
大陸の歴史の上で、最も強い大戦士』
聞こえるはずのない声。
胸の内から響くのか、それとも置き去りにした過去が囁くのか。
『このまま戦えば、決着はどうなるか分からない。
そんな泥沼のような争いは、私の本意ではありません。
――貴方は私の魂を喰らって、さらなる力を。
私は最初から望んでいた結末なので、それで十分。
後は、貴方が私の提案を聞き入れるか否かだけです』
女の声だ。
聞こえるはずがない。
今も「アレ」は、ウラノスの魂の内で眠っているはずだ。
なのに、何故?
『何故と、私に問うのかい?
何故戦いもせず、私が貴方に従うのか』
「…………」
何故、今になって思い出すのか。
千年以上も前の、既に色褪せたはずの記憶。
おぼろげな影が、鋼の英雄を嘲笑う。
『それは、私が貴方を――』
声は、最後まで続く事はなかった。
虚空に向けた拳が大気を砕く。
一度足を止めて、ウラノスは呼吸を整える。
「……久しくなかった、勝敗定かならぬ戦場だ。
動揺しているのか、私は」
自問するが、答えはない。
女の声も影も、今はその残滓すら消えていた。
「集中しろ。
私の双肩には、この地の未来が掛かっているんだ」
自らを鼓舞するため、敢えてそう言葉にして。
ウラノスは再び歩み出す。
僅かな光も差さない、運命という無明の闇。
その淵に自ら足をかけたのだと、自覚しないまま――。
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