終章:邪悪なる者の帰還
405話:終わりの始まり
外界――《
荒れ狂う迷宮の海と永劫の嵐。
そして、空間の連続性を遮断する断絶の境。
古き悪神が築き、今も残り続ける歪んだ世界法則。
それらに囲われる形で、一つの大陸がある。
古き竜と、古き魔法使い。
そして外界から流れ着いた人々が、歴史と血を積み重ねて来た場所。
今はもう呼ぶ者は少ない。
その大地の名は、《
「…………」
形を変えながらも、これまで竜に支配され続けてきた地。
その片隅に、一人の男がいた。
灰色の男だった。
かつては理想を消えぬ炎として宿し続けていた漆黒。
しかし現在は、その色も熱も失われている。
戦う力を持たない、無辜の民を守る事。
永遠の運命に狂ってしまった、哀れな同胞たちを救う事。
そのために、誇りも何もかも
だが結局、その手は何も成し遂げられず。
過ちに過ちを重ね、千年前の敗北から今日に至るまで。
ただひたすら、愚かに這いずり続けてきた男。
かつての救世主の残骸。
己の名すら忘れた、《
彼は一人、荒れた海を望む断崖に佇んでいた。
そこは大陸の北端であり、もう少し離れた位置に打ち捨てられた古城がある。
が、それは魔法使いにはどうでも良い話だ。
もう思い出す必要すらない、遠い敗北の記憶。
ある意味、自らが死んだに等しい地で。
魔法使いはただ一人、只管に待ち続けていた。
来る保証など何処にもないと、そう知りながら――。
「……いや、来る。来るに決まってる」
呟く。
自身と同様、名前も忘れてしまった片腕。
一番弟子だった事実すら、半ば忘却しているかもしれないが……ともあれ。
《灰色》は、今はカーライルと名乗る男に命じていた。
《最強最古》をかつての名に戻すように。
それは賭け――しかも、成否問わずに最悪の部類に入る賭けだった。
バビロンを失い、ヘカーティアの支配にも失敗した。
千年の雌伏、その全て水泡となった男にもう後はない。
そんなものはとっくの昔になくなっている事には、当然気付かないままで。
《灰色》は、まったくの無自覚に最悪の選択をしていた。
やがて、その時は訪れる。
「……これは」
荒れて逆巻く海。
空も分厚い曇天で、いつ降り出してもおかしくはない。
それら自然の動きが、前触れもなくピタリと止まる。
海は凪と化し、雲の流れは滞る。
まるで、世界の全てが息を殺して押し黙ってしまったように。
或いは、恐ろしい「何か」に頭を垂れるかのように。
あらゆるものが静止した中で、《灰色》だけがそれを見ていた。
遥か上空。
空間の一部が裂けて、そこから現れる一人の少女。
豪奢で可憐だが、同時に毒々しいまでの闇を引き連れて。
傲岸不遜を形にしたような眼で、少女は万物を見下ろしていた。
美しい黄金の髪が、僅かに吹いた風に揺れる。
《灰色》は変わらずに見上げていた。
現れた少女と、迂闊にも目が合ってしまったのだ。
逸らせば、何をされるか分からない。
閉じることも、下手に動くことも出来ずに魔法使いは立ち竦んだ。
「……何か、呼びかけられていた気はしたけれど」
吐息混じりの声。
その一息一声に至るまで、強大な魔力を帯びている。
もし僅かにでも少女がその気になれば、《灰色》はあっさり引き裂かれる。
現在の両者の力関係は、それほどまでに絶望的だった。
「お前か、《黒》。
これは一体どんな状況だ?」
「…………あぁ、良かった。
万一も考えてたが、杞憂だったようだな。
おはよう、《最強最古》」
「私は質問をしたはずだけど」
声は目の前から聞こえてきた。
反応がまるで間に合わない。
《灰色》の首を、細い指が食いつく牙のように掴んだ。
小柄な少女の外見とは、まったく似つかわしくない圧倒的な膂力。
まるで玩具の人形も同然に、魔法使いの身体はあっさりと吊り上げられた。
「ぐ、ッ……ァ……!?」
「質問に答えろ。
私の中に、何故か多くの『欠け』がある。
大方お前の仕業だろう、古き《始祖》よ」
幾ら足掻いてもびくともしない。
見た目こそ可憐でも、その本質は最古の竜。
力で抗える道理などあるはずもなかった。
「わか、った……!
答える、から……離して、くれよ……《最強最古》……!」
「…………」
息も絶え絶えな懇願。
それを受けて、少女――いや《最強最古》は、乱雑に《灰色》を放り捨てた。
地面に強かに打ち付けられ、魔法使いは苦しげに咳き込む。
「っ……悪い、一つだけ、確認させてくれ」
「なんだ、早く言え」
「アンタは、どこまで覚えてる?」
「少なくとも、お前と手を組んだ事まではハッキリしている」
酷く不機嫌な表情。
不愉快さを隠そうともせず、《最強最古》は唸る声で応える。
「だが、そこからはもう霧の中だ。
まったく思い出せないし、何故か不快極まりない。
あの、私に何かを仕掛けた男。
腹も減っていたし、さっさと潰して魂は喰い殺したが。
ソイツに命じたのは、どうせ貴様だろう?」
「……あぁ、そうだ。
その認識は正しいが、間違えないでくれよ。
俺は、おかしくなっていたアンタを元に戻したんだよ」
弟子であった男が。
名も忘却した唯一の共犯者が死んだ事。
《灰色》はその事実を、特に動揺せずに受け止めた。
だから続ける言葉は淀みなく。
恩着せがましい物言いに、《最強最古》は眉をひそめる。
「意味が分からない。ついに狂ったか?」
「否定し辛いが、お前に言われたくはないね。
そう、事実としてだ。
三千年前に狂ったのは、そっちの方だからな――」
そして、《灰色》の魔法使いは語る。
虚偽は混ぜずに、なるべく自分に都合の良い三千年の経緯を。
《最強最古》はかつての名を取り戻した事で、内なる時間が巻き戻っていた。
先ほどの言動からして、かつて協力と取引を持ちかけた前後まで。
――好都合だ。
表情には出さず、しかし《灰色》の魔法使いはほくそ笑む。
つまり現在の《最強最古》は、最も野心をむき出しにしていた頃の状態だ。
ならば必ず、こちらの話に乗って来るはず……!
「……なるほどな」
ぽつりと。
少女の形をした《最古の悪》は呟く。
《灰色》が脚色はせず――けれど、幾つかの事実を伏せて熱弁した物語。
同胞を救わんと志した魔法使いと、《最古の悪》が手を組んだ後。
何故か狂った大悪竜が消え、残された魔法使いが足掻いた後日談。
それを一通り聞いた上で。
「くだらんな」
「ッ……」
魔法使いの思惑も何も、その一言だけで一蹴した。
嘲る様子さえない。
むしろ憐憫すら込めて、邪悪は愚かな男を見下ろす。
「つまりお前は、三千年前にもう失敗しているのだろう?
私が何故か狂った――あくまで、お前視点の話ではあるが。
その理由を伏せている事は、まぁ流そう。
『理解し難いことが起こった』というのは、嘘ではないようだからな」
「だったら……!」
「遠い昔に潰えた計画に、何故私が改めて加担せねばならない。
そんなものは無意味だ。
今のお前と同様に、何の価値もない」
「…………」
言葉に一切の容赦無し。
しかし、それについて否定する要素が《灰色》にはなかった。
古き竜の魂を集め、それを一つに束ねる。
究極の力を呑んだ《最強最古》の手で、かつて望んだ救済を実現する。
もう、とっくの昔に潰えたに等しいかつての謀。
今更持ち出すには、流石に証文が古すぎた。
確かに、それだけではこの《最古の悪》は乗ってこないだろう。
「……話を最後まで聞けよ。
俺はお前が狂って消え去った後、独力で計画を進めた」
「計画?」
「死した《造物主》を蘇らせる。
正確には、その残骸を利用して力を得るためだったがな」
「――――」
沈黙。
燃える眼が、地を這ったままの魔法使いを射抜く。
明らかに反応の質が違う。
手応えを感じながら、《灰色》は言葉を続けた。
「《造物主》の真の名と、残された残骸。
それらを使って、俺はほぼ全ての古竜たちを狂わせた。
そして竜の魂を封印する術式を人間側に提供し、両者を争わせた。
最終的には――」
「封印式で蒐集した竜の魂。
それにより《造物主》の復元を完了し、目的を達成するつもりだったが。
しかし現状を見れば、それも阻止されたようだな?」
「……土壇場でひっくり返されたのは、その通りだよ。
封印式で囚えた竜の魂を、人間の英雄どもは我が身に取り込みやがった。
それで《造物主》の残骸を復元するには不十分になっちまった。
最後は、今は大真竜を名乗る連中に負けてそこまでだ」
「無様な敗北だな。……それで?」
呆れと無関心。
その二つを程よく混ぜ合わせた声だった。
「俺は確かに千年前は負けた。
が、復元の始まっていた《造物主》は向こうもどうしようもなかった。
だから連中は蓋をしたんだよ」
「…………」
「《
表向きは真竜どもを統治するための
だが実際は、復活しつつある《造物主》を地の底に留めるための封印だよ。
礎である大真竜どもは儀式の基点。
盟約に参加している真竜たち、その魔力と総意を束ねた大封印ってわけさ」
「……つまり」
再び熱弁を振るう魔法使い。
そこに、《最強最古》は冷たく声を差し挟む。
「お前は、私の前に餌を吊るしているワケか。
復元しつつある愚かな父の残骸。
それを喰らえば、私の望みは叶えられると」
「ッ――――」
震える。
これまでも十分に冷たかった。
しかし、今の少女の声は凍てつく極北の如しだ。
直感が危険を察するが、あまりに遅い。
「がっ、ぁ……!?」
再度、細い手が伸びた。
抵抗する暇もなく、《灰色》は引っ張られる。
そのまま、右肩辺りに牙が喰い込んだ。
肉が裂けて、骨が砕ける。
――喰い殺される。
その可能性と死の予感に、身震いした直後。
「……不味いな」
淡々と、それだけ呟いて。
《最強最古》はあっさりと、魔法使いの身体を地に落とす。
指先で赤く濡れた唇を拭い、肉片を吐き捨てた。
「お前の肉は臭く、血は澱んでいて食えたものではないな。
味が悪くなければ、喰い殺しても良かったが」
「運が良い」と、ぞっとした笑みを浮かべる少女。
魔法使いは肩の傷を抑えたまま、下手に動けずにいた。
まだ殺す気があるのか否か。
《灰色》はそれを測りかねていた。
が、当の《最強最古》は最早興味もないと言わんばかりの態度で。
「喜べ、お前の話に乗ってやろう。
《盟約》とやらを滅ぼし、愚かな父の残骸を我が身に取り込む。
そちらの思惑通りだ」
「! なら……!」
「ただし、やり方は私の好きにさせて貰う」
喜色満面な《灰色》とは対照的に。
少女の笑みは冷たく、語る言葉も淡々としていた。
しかし、その一言を口にした瞬間。
空が全て黒く染まった。
「な……っ!?」
「《
一面を覆っていたはずの分厚い暗雲。
今は何処にも雲はなく、ただ煌めく星に彩られた夜空だけが広がっている。
そう、夜空だ。
《灰色》は、今はまだ昼間だった事を知っていた。
「しかし、《盟約》か。
残念なことにまったく記憶にないが――」
氷の微笑みを湛えて、《最強最古》は手を伸ばす。
自らが創造した星空に向けて。
指先がついっと、宙を軽くなぞった。
その動きに合わせて、星が流れる。
一つではなく、二つ三つ、いやそれよりも更に……。
「先ずは挨拶代わりだ。
まさか、この程度で滅びはせんだろう?」
星が落ちる。
無数の輝く雨となって地表を燃やす。
こうして、終わりが始まった。
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