403話:テレサの決断


 ……暗い。

 暗くて、やたらと空気が重い。

 いや、そもそも空気があるのか?

 分からない。

 真っ黒い油の中に、頭からつま先まで沈んでいるような。

 動こうにも、全身にまったく感覚がない。

 思考もぼやけていて、何を考えても纏まらない。

 何処までも冷たい暗闇。

 ゆっくりと、少しずつその深淵へと沈んでいく。

 俺はこの場所に、なんとなく覚えがある気がした。

 それは多分、今よりずっと昔。

 俺がボレアス――《北の王》と戦って、死んだ時だ。

 覚えているはずもないが、覚えている。

 この暗闇は、死んだ者の魂が還っていく場所なのだと。

 ……はて、俺は死んだのか。

 いやそもそも、目覚めた時から死んでるのと大差ない気もする。

 魂が燃え尽きて、灰になった状態。

 それが具体的に普通の死者とどう違うのか、実はいまいち分かっていないんだが。


『……望むのなら、貴方は再び生命の輪廻サイクルに戻る事ができる』


 声は、俺の内に直接響くように聞こえてきた。

 それは女の……いや、少女の声だった。

 幼い瑞々しさと、途方もない年月の厚みが同居した不思議な言葉。

 聞き覚えはあるのに、誰だったのか思い出せない。

 暗闇でぼんやりしている俺など構わず、声は先を続ける。


『本来ならば、問う必要のない事。

 正しき《摂理》の上では、死者は新たな生を得るべきだから。

 けど、今回に限っては特例を認めましょう』


 よく分からんが、それはきっとありがたい話だった。

 で、特例ってのは具体的に何だろうか?


『最初に言った通り。

 望むなら、灰となった貴方の魂を正しき輪廻に還す事ができる。

 ……けど、それをもしも拒むのであれば。

 今一度だけ、その灰を元の肉体へと戻しましょう。

 貴方の持つ剣と、そこに刻まれている禁忌の法。

 その力があれば、また貴方は立ち上がれる』


 本当は、こんな事を口にしたくはないと。

 声の主は言葉にしてないが、そういう雰囲気はガンガン伝わってくる。

 不本意極まりない。

 既に死者であるはずの俺を、正しい《摂理》とやらに沈める事。

 相手はそれを行いたくて仕方がないようだった。

 実際そうする事が道理で、特例とやらの方が間違いのはずだ。

 その過ちを呑み込んだ上で、声の主は俺に選択する機会を与えてくれていた。

 ……うん。

 だったら、俺の出す答えは一つしかない。


『後悔はしない?

 もしかしたら、これが最後の機会になるかもしれない』


 ? 最後の機会?

 意味が分からず、首を傾げる……いや、首動かないけどな。

 ただ、その空気は向こうにはちゃんと伝わったらしい。


『……貴方は《摂理》を歪めすぎている。

 燃え尽きて、灰になってしまうほどに酷使された魂。

 今ならまだ、私の手で正しき輪廻に還すことができるでしょう。

 けどこの先で、更に無茶や無理を重ねた場合は……』


 どうなるのか、例え神でも分からない。

 それは忠告であり、同時に予言でもあった。

 虚偽はない。

 語る言葉は全て真実で、そして俺の身を真剣に案じてくれたものだ。

 口を開けている破滅に頭から飛び込まぬよう。

 声の主は、どこまでも真摯に「正しい選択」を促していた。

 ……気持ちは本当にありがたい。

 けど、俺がするべき事は決まっている。

 思念で伝えると、ため息を吐き出す音が聞こえた気がした。


『……分かってはいたけど、一応立場上は言わないワケにはいかないから』


 いや、ホントに悪いなぁ。


『謝って貰っても仕方がないわ。

 この先どうなるかは、全て貴方自身の責任よ。

 神の慈悲だって限りがあると知りなさい』


 あぁ、それは勿論分かってる。

 今、こうして掬い上げて貰えるだけでも過ぎた幸運だ。

 本当なら、とっくの昔に終わってなきゃならない身。

 それがまだ、自分の意思で戦う事を選べる。

 ……闇に落ちる直前に、彼女は「助けて」と言ったんだ。

 なら、行ってやらないとな。


『……どうしようもなく馬鹿で、愚かな男ね。

 呆れて物も言えないどころか、言いたい事がありすぎて困るぐらい』


 ため息。

 いや、ホントに申し訳ないな。


『良いわ、別に。

 生きたいように生き、死にたいように死になさい。

 私は輪廻の運行を管理する星の神として、その意思を尊重しましょう。

 ――願わくば、その道の果てに安らぎがあらん事を』


 祈りの声は、どこまでも慈悲深い。

 冷たい暗闇が、一気に暖かな光に満たされていく。

 あのまま落ち続ければ、きっと戻って来れなかったろう。

 意識は急速に、現実の世界へと浮上していき……。


「……おい、レックス。レックス!

 起きろよ、しっかりしろ!」

「…………ん……?」


 聞き覚えのあるその声は、目覚めを告げる鐘の音だった。

 目を開くと、視界がどうにもぼんやりしている。

 あと普通に眩しい。

 寝起きの頭は、暗闇に落下していた状態からすぐには復帰しない。

 微妙にボーッとしてたら、今度は激しく揺さぶられた。


「おいコラ起きろってば! もう目ェ覚ましてんだろテメェ!!」

「イーリス! とりあえず落ち着けっ!?」

「うむ、程々にせんと竜殺しの首が折れるぞ」


 イーリス。

 そうだ、俺の身体を前後に揺らしているのはイーリスだ。

 で、それをテレサと、あと微妙にやる気のないボレアスが諌めているようだ。

 うん、流石に首が痛くなってきたぞ。


「悪い、起きてる。

 起きてるから、もう大丈夫だぞ」

「……言えよ、そういうこと早く。

 さっきまで、割と普通に死んでたんだぞお前」


 その声が若干震えていたのは、多分気のせいじゃない。

 顔を上げて、身体を起こす。

 目の方はもうちゃんと見えていたし、頭もハッキリしてる。

 視線を巡らせれば、そこは何もない空白の世界。

 ……《人界ミッドガル》。

 それもここは、王様のいる謁見の間か。

 場所の確認をしたら、改めて近くにいる顔ぶれに視線を向けた。

 俺の肩を掴んでいるイーリスに、その後ろにはテレサとボレアス。

 後は少し離れたところに、《星神》シャレムがいた。

 暗闇で交わした言葉は夢に等しかったが、俺はちゃんと覚えていた。


「オイ、何か言えよ」

「と、いや悪い。心配させたか?」

「してねーよ。いやしたわ、クソ。

 平気そうなツラしてんじゃねーぞマジで」


 ゴスゴスと、甲冑の胴辺りを拳で叩くイーリス。

 目元が赤い理由は、流石に聞く気にはならなかった。

 そんな俺たちの傍に、テレサが跪く。


「レックス殿、状況は把握できていますか?」

「アウローラが昔のヤンチャ時代に戻って、俺が殺されかけた。

 で、今は何か助けて貰った感じか?」

「一応、そこそこ大変だったのだから。

 そこはちゃんと感謝して欲しいわ」


 後ろからそっと、シャレムが控えめに文句をこぼす。

 なので一度、深く頭を下げておいた。

 感謝なんてどれだけすれば足りるか、自分でも分からないぐらいだ。


「助かった。普通に死ぬところだったんだろ?」

「……そうね。ホントはこんな風に助けたりはしないのだけど。

 陛下から許可も出たので、仕方なくよ」

「あぁ、感謝は我に捧げて貰っても構わんからな?」


 笑う声は、シャレムの背後から。

 そこには王様の姿があった。

 酷く愉快そうに笑う傍らには、何故か《巨人殺し》の姿もある。

 その首元には、もう大分見慣れた蛇が絡みついていた。


「あの時、助けてくれたのってもしかしてそっちか?」

『……助けたっつーと、まぁ微妙だけどな』

「貴様ら、我の言葉を聞き流すのは止せ」


 いや、王様にもちゃんと感謝してますよ?

 それよりちょっと、気絶する前の光が気になっただけで。


「クロ?」

『……ホントなら、もっと早く手を出したかったんだけどな。

 そこの王様に止められてたせいで、ギリギリになっちまった。

 本当に悪かった』

「や、助かったのは間違いないしな」


 相方に促される形で、黒蛇は大きく息を吐き出した。

 あの介入がなければ、間違いなくあの時点で終わりだったはずだ。

 だから謝られる道理はないだろう。

 横で聞いていた王様が、わざとらしく肩を竦めて。


「万が一程度の可能性ではあったがな。

 あそこで貴様が未来もあるのだ。

 あの邪悪が最古の神性まで飲み込めば、もうその時点で手がつけられん。

 我の判断は正しかった、そうだろう?」

「誰もそれは否定しておりませんよ、陛下」


 呆れ顔のシャレムに、王様はやや不満げである。

 が、すぐに真面目な顔をして。


「あの娘――いや、邪悪な竜は既にこの地を離れた。

 海の彼方、お前たちが元々いた大陸に戻ったのであろうな」

「そうか」


 こっちを狙うより、そっちの方を優先したか。

 どういう風に考えての行動なのか、それは分からないが。


「……おい、レックス」

「俺は追っかけるつもりだけど、そっちは……」

「行くに決まってんだろバカ。

 むしろ一人で行く気じゃねぇだろうなバカ」


 と、即座に向こう脛に蹴りを入れてくるイーリスさん。

 一応、一応な、確認は大事かなと。

 テレサも、妹の方と大体同じ考えのようだった。

 強い決意を秘めた目が俺を見る。


「レックス殿、今更置いて行くなどとは言わないで頂きたい。

 あの方を救いたいと考えているのは、私も同じです」

「こちらは別に同じではないから、誤解するなよ」


 やや強引な流れで、ボレアスが話に割り込んでくる。

 わざとらしいぐらいに、素っ気なさそうな態度を示しながら。


「……が、お前がどうしてもと。

 そう言うならば考えん事もないぞ、竜殺しよ」

「あぁ、付いてきてくれよ。

 俺も一人で行く気なんてサラサラないし。

 むしろ助けが多い方が絶対良いからな」


 そこは誤魔化しても仕方ない。

 あっさり頷くと、ボレアスは軽く言葉に詰まったようだった。

 なんだかんだと素直じゃない奴め。


「……そうか、であればまぁ、仕方あるまいな。仕方ない」

「そこはもっと本音で話せよな、そっちも。

 で、レックス。行くんだったら、すぐに動くよな?」

「あぁ、できれば今すぐ追いたいぐらいだ。

 ところでイシュタル……じゃない、ルミエルはどうした?」

「彼女なら、まだ目を覚ましていないもので。

 一先ずは個室を用意して頂いたので、そこで預かって貰っている形です」

「なるほどなぁ」


 こんな状況だ、できれば協力して欲しいところだが。

 加えて、先を急ぎたいからと言ってここに放置するワケにもいかない。

 最低限、目を覚ますのを待つしかないか?


「あの娘なら、程なく目覚めるでしょう。

 それより貴方たちも大概ボロボロなんだから、少しは休んだらどう?」

「癒やして貰うとかは可能ですかね、神様」

「既に必要な分は施してあります。

 それとは別に、通常の休息も取るべきだと言っているの」

「まぁまぁ、その辺にしておけよシャレム。

 急ぐ旅人を、あまり引き止めるべきではあるまい」


 あくまでこちらを案じてくれるシャレムを、今度は王様が軽く諌めた。


「海と断絶の境を越えたいのであれば、その通りに望みを叶えてやろう。

 準備が整ったならば言うが良い」

「あぁ、助かる」


 とはいえ、そう大して準備するような事もない。

 精々、ルミエルが起きるまで身体を休めるぐらいか。

 俺がそう考えていると。


「……偉大なる《人界》の王よ、質問をお許し願いたい」


 不意に、テレサがそんな言葉を口にした。

 向ける相手は、当然王様だ。

 また酷く楽しそうに笑ってるな。


「許そう。王たる我に何を問う?」

「以前の拝謁の際に、貴方が口にした事を覚えていらっしゃいますか」

「??」


 前に王様が言ったこと?

 何かあったかと、こっちは首を捻る。

 イーリスは覚えていたのか、微妙に焦った表情で姉を見る。

 王様は変わらず満面の笑みだ。


「あぁ、覚えているとも。

 だが何を望むのか、それは自らの言葉でハッキリと示せ」

「……王よ、貴方は確かにこう仰られた。

 私の妹、イーリスがもし仮に《星神》の座を継ぐのであれば。

 姉である私も神にしようかと」

「近い事を口にしたはずだな。それで?」

「おい、姉さん……!?」


 俺は、まだ何も言わない。

 口を挟まず、テレサの様子を見ていた。

 彼女の意思は強い。

 だから今はその言葉の先を聞き届ける事にする。

 短い一呼吸分程度の間を置いて。

 問い返されたテレサは、真っ直ぐに《人界》の王を見据えた。

 そして。


「その言葉がもし、戯れでないのであれば。

 私に、神の力を授けて頂きたい。

 この先を戦うために、それはどうしても必要なのです」

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