第六章:そして、古き悪が目を覚ます
399話:地獄へ落ちろ
ブン殴った。
拳には異様に硬い感触が残っている。
明らかに頭蓋骨の硬さとは違う。
何か、でっかい金属の塊でも叩いたみたいな。
痺れるような痛みが腕を走るが、奥歯を噛んでやり過ごす。
物理とは無関係な魂の世界。
ここでは、気合いさえあれば大体何とかなる。
だから――。
「イーリス!!」
もういっぺんブン殴ろうとして。
その直前に、身体が思い切り横に逸れた。
姉さんだ。
飛びつくような勢いで、オレの身体を抱きかかえる。
殆ど同時に、顔のすぐ真横を何かが掠めた。
それは「爪」だった。
鋭く、肉や骨を抉るために特化した凶器。
殴ったばかりの相手――この魂の世界の本質である《秘神》アベル。
その腕が変形し、歪な剣のような爪が伸びていた。
……あんなんで刺されたら、流石にヤバかったかもしれない。
『なんだ、貴様は』
震える声。
驚愕や恐怖ではなく、強烈な憤怒が声を震わせている。
地の底から響くが如き重さを込めて。
《秘神》は此処でやっと、侵入者であるオレたちに意識を向けた。
『なんだ、貴様はなんだ!!
何故、私の中に入り込んでいる!
この私を誰だと――』
「うるせぇよバカ!!」
またぐちゃぐちゃ言い始めたので、とりあえず蹴っておいた。
顔面をつま先でぶっ叩く。
やっぱり硬い。
相手の首も思い切り捩れるが、こっちも足が痛くて堪らん。
これが現実だったら、間違いなく足首の骨が砕けてただろうな。
苦痛は噛み潰す。
この硬さは、単純な魂の質量の差だ。
腐っても神だか最初の《巨人》だかだ。
人間でしかないオレとは、根本的に存在の格が違う。
兎に角、こっちは心が折れてしまわぬよう気をしっかり保つ。
『ッ……貴様、一度ならず二度までも……!!』
「はァ!!」
殴られ、蹴られて。
大した事でもないが、《秘神》にとっては驚天動地の事態らしい。
憤怒と憎悪の中に、僅かながらに困惑も混じる。
そこに、今度は姉さんの蹴りが炸裂した。
オレの腰辺りを片腕で抱えたまま。
長い脚が鞭のように
もんどり打って倒れる様は、正直に言って痛快だった。
「とりあえず、お前の真似をしてみたが。
こんな感じで良いのか?」
「良い良い、全然オッケー。
この調子でもっとボコボコにしてやろうぜ」
『ッ……不敬、不遜……!!
神であるこの私を、二度も三度も手を上げるなぞ……!』
「いや出したのは足だぞ」
一回はオレが殴った気がするけど、それはそれだ。
立ち上がる。
《秘神》アベル……いや、そう呼ぶのが適切かは曖昧だが。
ともあれ、《秘神》はまだそれほど効いた様子はない。
ただ顔面をボコボコ叩かれたせいか、鼻血は流れていた。
……何度も繰り返すが、ここは肉体のある物理的な世界じゃない。
だから見た目上の傷が付いても、血が流れるとは限らない。
鼻血が出てるって事は、オレたちの打撃が通じてるって事だ。
「テメェが神だとか何だとか、そういうの全部ひっくるめてどうでも良いわ。
オレたちの用件は一つだけだ」
「ルミエルを、お前が呑み込んだあの娘を解放しろ。
その要求さえ応じるなら、我々は大人しく退去しよう」
『断る!! 何故、私が人間の要求などを――』
「そうかよ!!」
「まぁそう答えるだろうな!!」
だから躊躇なく蹴りをブチ込んだ。
今度はオレと姉さん、二人同時にだ。
つま先を槍の穂先のように揃えた前蹴りは、今度は《秘神》の腹に刺さった。
顔面よりは少し感触が柔らかい気がする。
さっきの方が硬かったのは、もしかして面の皮のせいか?
いや、流石にそれはないか……ないよな?
『ぐェ……!?』
「オラ!! 大人しく言うこと聞けよカス野郎!!」
もんどり打って倒れる《秘神》。
追撃しようかとも思ったが、それはさりげなく姉さんに止められた。
確かに、さっきも向こうは割と致命的な反撃を仕掛けてきた。
今は押せてるが、《秘神》もまだ折れちゃいない。
殴り合う前の時点で、既に半ば折れていたヘカーティアとは違う。
少し様子を見ると、変化は劇的に始まった。
『邪魔を、するな――邪魔をするなよ下等生物どもがッ!!』
絶叫。
悲鳴に近い金切り声を上げて、《秘神》の身体が弾けた。
さっきまではほぼ人型だった姿。
それが今、二周りほど膨らんだ《巨人》の形へと変貌する。
白い肉がブクブクと肥大化したような醜悪な怪物。
……まるで死んだ胎児みたいだと、オレは考えてしまった。
胸糞悪い。
『人間、人間、人間、人間ッ!!
不遜だぞ、愚かにもほどがある、不完全で矮小な生き物め!
よくも最も尊い私の内に、土足で入り込んできたな!
そのような無礼を働いた上に、あの小娘を返せだとっ!?
厚顔無恥にも限度が――』
「話が長いぞ」
巨大化した《秘神》を蹴り倒す。
姉さんに合わせる形で、こっちも無言でブチ込んだ。
どれだけデカくなろうとも、それがそのまま質量差になるとは限らない。
気合いがあれば大抵の事は覆せる。
だからオレも姉さんも、互いの手を握り締めて立ち向かう。
ここは《秘神》の野郎の世界で、本来なら向こうのホームグラウンド。
けど、この荒れ果てて滅んだ荒野の真ん中で。
コイツには、握り締めていられる「何か」はあるのか。
『ガアアアァァァ!!』
叫び、《秘神》が動く。
やられっぱなしではいられないと、太い腕を振り回す。
先端に光っているのは鋭利な爪だ。
それも一本や二本じゃない。
ズラリと並ぶ大小無数の爪には、血肉を引き裂く殺意が漲っていた。
しかも速度もかなりのものだ。
少なくとも、オレの方は反応するのが精々だった。
しかし、姉さんは。
「雑な攻撃だな」
ひらりと、踊りのステップでも踏むみたいに。
本当にあっさりと、振り抜かれた《秘神》の腕を躱してみせた。
ちなみにオレは軽く抱えられたままだ。
簡単に回避されたが、それで向こうの攻撃は終わらない。
『死ね! 死ね死ね死ねッ!!』
激情を吐き散らし、今度は両腕を叩きつけてくる。
爪が乱雑に生えたその形は、もう腕というより棘付きの棍棒だ。
オレたちを叩き潰し、バラバラに引き裂くため。
何度も何度も荒れた地面に打ち付ける。
そう、《秘神》の攻撃はただただ大地を叩くばかり。
姉さんの髪の毛さえ掠めていない。
「ハハハ、現実ならこうは行かなかっただろうな!」
『ッ……何故……!?』
理解が出来ず、異形と化した《秘神》は目に見えて狼狽え始める。
実は傍から見てるオレも良く分からない。
姉さんは凄いけど、余裕綽々であしらえるのは確かに不思議だ。
ただ、こうなってる理由だけは知っていた。
単純に、《秘神》の方がビビってるからだろう。
精神の状態がそのまま反映される世界だ。
目に見えて優劣がつく事態は、他に心当たりはない。
ただ、《秘神》は姉さん相手に腰が引けているワケじゃなかった。
ならば、どうして?
「あの黒竜がそれほど恐ろしいか?」
『貴様……!!』
姉さんの放った一言。
それが《秘神》の核心を容赦なく貫いた。
オレも今ので完全に理解できた。
未だに、この世界の背景として聳え立つ黒竜。
過去の幻とは信じられないぐらいの威圧感。
指摘された事で、今はもうハッキリと分かった。
《秘神》は、黒竜から片時も目を離せずにいるのだ。
怖いから目を背けるのではなく。
恐ろしいから目を逸らせない。
だから、相対するオレたちの事は半端にしか見えていないんだ。
そんな状態なら、姉さんなら簡単に避けられるわな。
「はァっ!!」
『ギッ……!?』
隙を突き、また姉さんの蹴りが炸裂する。
動揺が、露骨に力関係にも現れ出す。
ただの蹴りの一発で、《秘神》の巨体が派手に揺れた。
天秤は傾き出したら止まらない。
孤独に嘆くばかりの《秘神》では、支えになる物は何処にもなかった。
『ぶさけるなよ人間如きが……!!』
それでも足掻く。
醜悪な胎児の屍にも似た怪物は、泣き叫びながら暴れる。
姉さんの腕を掴んで、オレは飛ぶ。
さっきまでいた場所に、ぶよぶよとした肉塊が落ちてきた。
歪んだ拳で地面を叩き、《秘神》は叫び続ける。
『私は神だぞ!! 完璧で完全な存在なんだっ!!
それを貴様ら、弁えずにふざけた真似を!!
不完全で不出来な、どうしようもない痴愚の分際でェ……!!』
「だからうるせェんだよバカ野郎!」
蹴る、殴る、また殴る。
暴れ回る《巨人》だろうがビビる理由がない。
姉さんと二人、躊躇う事なく挑んで行く。
怖くない。
相手はどうしようもないクズ野郎だ。
その上で、たった一人で立つ力もない哀れな奴だ。
遠くに去った誰かと、地獄を燃やす黒い竜。
どちらにも心を引き裂かれた、負け犬だコイツは。
だからオレは、《秘神》を全力でブン殴る。
負ける気は微塵もしなかった。
『こ、の――図に乗るなよっ!!』
くだらない遠吠えは無視して、このままボコボコにしてやる。
そう考えた矢先。
「待て、イーリス!」
「……マジかよ、クソが」
姉さんに制止されるのと、ほぼ同時に。
オレは自ら殴る手を止めた。
散々殴りまくったせいか、微妙に形状が歪んだ《秘神》。
その膨らんだ手に、何かが握られていた。
……まさかとは思ったが、間違いない。
《秘神》の手の中にあるのは、人だった。
もっと言うなら、見覚えのある女の子だった。
そう、見間違えるはずがない。
「ルミエルっ!!」
『ハハハハハハハハハっ!
お前たちの目的は、この娘の魂だったなァ!!』
「この野郎、追い詰められた悪党のテンプレ行動すんじゃねぇぞ!」
罵声を浴びせるが、恥知らずは当然聞き流す。
大体、今のテメェの力の源はルミエルだろうがよ。
そっちに万一があれば、自分が一番不利益を被るだろうに。
理性も矜持も投げ捨てたケダモノに、そんな道理が通じるとも思えない。
下手な事はできず、こちらは動きを止めざる得なかった。
それを確認して、《秘神》は醜悪に笑う。
『よし、よし。そのまま大人しくしていろ。
この娘を助けるため、わざわざ此処まで来たのだろう?
魂の状態で深く傷付けば、果たしてどうなるか。
試してみたいのなら好きにするがいい』
「クソッタレが」
「……仮にも神を名乗るなら、守るべき一線があるのではないか?」
『ほざけよ塵埃どもが!
最終的に勝てば同じなんだよ!!』
咆哮は荒れ野に轟く。
爪の並ぶ手は、眠っているはルミエルを捕らえて離さない。
チクショウが。
アイツさえ引っ掴めば、後はさっさとオサラバできるのに。
しかし真正面から睨み合ってる状態じゃ、流石に隙は見つからない。
歯噛みするオレたちを見て、《秘神》はゲラゲラと笑う。
『さぁ、このまま一人ずつ引き裂いて、糧として喰らってやろうか』
「やってみろよ、腹壊すぞカス」
『ハハハ! この状況でまだほざけるかよ!
良いだろう、先ずは貴様から……』
嘲りながら、《秘神》がオレの方に手を伸ばす。
いっそこのまま噛み付いてやろうかと。
半ば自棄っぱちで考えた、その時。
視界の端で何かが跳ねた。
小さい、それこそ片手で掴めそうな大きさ。
何が――いや、そうか。
まだこの場には、オレたち以外の……!?
『は』
瞬間。
手を伸ばそうとした《秘神》は、酷く間抜けな声をもらした。
無理もない、オレと姉さんも絶句したぐらいだ。
目の前、それこそオレは鼻先を掠める距離。
そこに鋭い牙が――いや、デカい竜の顎があった。
首から上だけの竜。
それが獰猛な吐息をこぼしながら。
オレに迫っていた《秘神》の腕を噛み千切っていたのだ。
『は――ぁ、ギィあぁアアあぁアアッ!?』
苦痛と混乱。
迸る絶叫と共に、《秘神》は派手に身をよじる。
竜の顎は既に消えていた。
アレが幻ではない事だけは理解できた。
「過保護な親だなオイ!!」
「まったくだな……!!」
オレと姉さんは、竜の残滓を突き抜けるように走る。
《秘神》は驚きと恐怖で完全に忘我の狭間だ。
間合いに踏み込み、そのまま真っ直ぐ。
囚われの眠り姫を、爪の中から引き剥がした。
「確保したぞ!」
「よし、もう用はねェな!!」
姉さんが腕にしっかり抱えてるのを確認し。
オレはすぐさま、この魂の世界との接続を切りに掛かる。
後は現実世界の決着だけだ。
『待て、貴様ら――待て、待ってくれ!!』
滅びの荒野は急速に遠ざかる。
もう手を伸ばしても届かず、ただ独り叫ぶモノが取り残される。
オレはそれを見ていた。
『待て、待つんだ!!
頼む、待ってくれ!!
私をこんな場所で一人にしないでくれっ!!
私を置いていくな、見捨てるな!!』
「…………」
ただ一人だけ。
孤独に置き捨てられる事は、コイツのトラウマなんだろう。
狂ったように痛みを叫ぶ様は、哀れではあった。
だからオレは、別れの言葉を口にする。
せめてもの餞にと。
「待たねェよ、カスが。
大人しく地獄に落ちて反省しろよ」
『――――――ッ!!』
最後の叫びは聞き取れなかった。
ザマァ見ろよ、クソ野郎め。
中指を立てて、随分と晴れやかな気持ちになりながら。
オレたちの意識は現実へと浮上していった。
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